ヘレボルス・ニゲル
の夜に

「私がいなくて寂しかったかい?」

 ただいまのかわりに、俊典が告げる。

「ええ、寂しかったわ」

 と、なまえは彼のブルーアイズを見つめながら答える。おかえりなさいの言葉のかわりに。
 これはふたりが築いた、小さな習慣。

 ネクタイをゆるめながら、満足そうに俊典が眼を細めた。なまえもそれに微笑みをかえす。
 けれど最近は、寂しかったという言葉が甘い時間を生むためのやりとりではなく、切なる本音になりつつある。もちろん、本気であると悟られぬよう気をつけてはいるが。
 来年の春から雄英の教師になることを決めたオールマイトは、日々、多忙を極めているから。
 オールマイト――八木俊典は、ある日はヒーロー活動のかたわら事務所の整理を進め、ある日は雄英に飛び来春からの準備にいそしんでいる。東京にいるよりあちらで過ごしている時間のほうが、最近は長くなりつつある。

 いっそ居をあちらに移してしまえばいいのだが、なまえも仕事をしているので難しい。このことについては俊典ともたくさん話をした。その上で、なまえは三月末までは東京にいると、そう、結論づけたのだ。
 なにより、ヒーロー活動に文字通り命をかけている俊典だ。彼の重荷になるようなことを言ってはいけない。
 だから寂しいという言葉は、戯れでしか告げない。なまえは、そう心に誓っている。

「なまえ」
「え?」

 呼ばれて声のした方を仰ぐと、ちゅ、と頬に唇を落とされた。不意打ちのキスに軽く目を見開くと、続けて唇を奪われる。
 甘くとろけそうなはずの優しい口づけは、さびた鉄のような味がした。
 ああ、また血を吐いたんだ。
 少し悲しい気持ちで、目をとじた。

***

 オールマイト――俊典は、ビルの屋上に降り立って、師走の街を彩るイルミネーションを見おろした。
 聖なる夜を祝うための灯りを見に集まる、善良な人々。周囲のビルのそこここに灯されている、生活のための光の数々。
 こうした無辜の市民の営みを目の当たりにするたびに、噛みしめる。この国の平和を守っているという、自負と矜持を。そしてそれが、今の己を支えていると。

 そのためにかなりの無理をしていることは、自分でもわかっている。
 ヒーローにとって最も大切なのは自己犠牲の精神だ。だからそのことに対しては、なんの悔いも憂いもない。
 けれど己が信念を貫くために、最も大切なひとに悲しい想いをさせていることを、俊典は知っている。日々繰り返される「寂しかったかい?」「寂しかったわ」というやりとり。その声に本音が含まれはじめていることにも、気づいていた。
 だからといって、ヒーローをやめることはできない。少なくとも、今の時点では。

 なまえ、愛しているのは君だけだ。愛されていることを自覚している男のずるさとわかっているが、もうすこしだけ、君に甘え続けることを許してほしい。

 一つ息をついてから、再び人々の集う街を見おろした。ビルの谷間に小さな花屋があることに気がついて、俊典は頬をゆるめる。
 もうすぐクリスマスだ。今年はなにがいいだろう。

 クリスマスには毎年、なまえに鉢植えを贈っている。花束ではなく鉢植えにしている理由は、独自のゲン担ぎのようなものだった。鉢植えは「根付く=寝付く」と言われ、入院のお見舞い品には敬遠される。その逆で、自分たちの仲が深く根付いていくように、切り花のように枯れてしまわないようにと、密かに願ってのものだった。
 他の人間に話せばきっと、乙女かと笑われてしまうことだろう。
 だから俊典が毎年鉢植えを求める理由は、誰も知らない。贈られるなまえ本人ですら。

 最初の年はポインセチア、昨年は濃いピンク色のシクラメンにした。今年はいったいなににしようか。
 なまえの顔を思い浮かべながら、俊典はしずかに微笑んだ。

***

 帰宅すると同時に、クリスマスツリーの電飾を点けた。二メートルはあるこの大きなクリスマスツリーは、一緒に暮らし始めた年に、俊典が買ってきたものだ。
 なまえはそのままキッチンに向かい、今夜のディナーの準備を始めた。冷蔵庫から下ごしらえ済みの肉を取り出す。チキンではなくターキーだ。
 ーーアメリカのクリスマスは、鶏肉ではなく七面鳥を食べるのがポピュラーなんだ。
 そう、俊典は言った。
 だからどんなに忙しくても、なまえは毎年、クリスマスになると七面鳥を一羽焼く。

 手製のピックル液に付け込んだターキーのお腹に、スタッフィングの材料――軽く火を通したじゃがいもと玉ねぎとマッシュルームとニンニクと、香り付けのローズマリーとタイム――を詰めていく。続けてターキーの表面にニンニクと塩と胡椒をかるく刷り込み、予熱したオーブンに放りこむ。あとは時々取り出して、表面にオリーブオイルを塗るだけだ。
 ほかはサラダと野菜スープとパスタだけにした。ターキーの量が多いので、これでも食べきれないだろう。
 残ったターキーは、翌日、パンにはさんでサンドイッチにする。ターキーサンドはクリスマスの翌朝の、ふたりの小さな楽しみだった。



「私がいなくて、寂しかったかい?」
「ええ、寂しかったわ」

 いつもの、ふたりのやりとり。

「いつもありがとう。メリークリスマス」

 俊典がなまえに差し出したのは、白い花の鉢植えだった。

「メリークリスマス。今年もかわいいお花をありがとう」
「うん。赤、ピンク、と続いたから今年は白にしたんだ。可憐でかわいくて清楚で、ちょっと君に似ているね」
「嬉しいわ」

 鉢植えの中で咲く花は、早咲きの白いクリスマスローズ。またの名をヘレボルス・ニゲル。ヘレボルスの語源は「殺す」と「食べ物」から来ているという。少々ぶっそうなのは、樹液に毒があるからだ。
 けれどこの花には素敵な伝説もある。少女の落とした涙が花となって、誕生したばかりのキリストと聖母マリアに捧げられたという、この日にふさわしい花物語が。

「とてもかわいい。ありがとう」

 小さなかわいい白い花の鉢植えを、ポインセチアとシクラメンの隣にそっと置いて、心得たように腰をかがめてきた俊典の頬に、キスをした。

「いい匂いだね」
「たった今、ターキーが焼けたところよ」
「それは楽しみだ」
「すぐにご飯にしましょう」

 目の端に、白い鉢植えが映る。ヘレボルス・ニゲル……クリスマスローズ。その花言葉は、花の可憐さに反してネガティブなものが多い。けれどその中で、ひとつやさしいものもある。
 「いたわり」だ。

 俊典と共にキッチンに移動しながら、なまえは願う。
 これから先も、いたわりあって過ごせる二人でありますようにと。なにがあろうと、互いを思いやる気持ちを忘れずにいたいと。
 ふたりで過ごす三度目の聖なる夜、ヘレボルス・二ゲルによせて。

2018.12.24
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