ずいぶんと年上のひとだった。謎だらけのひとで、住んでいるところも、なにをしているのかも、年齢もわからない。知っているのは独身であるということと、無料通話アプリ――LIME――の、八木というアカウント名だけ。
つきあっていたわけではない。月に一度くらいの割合で会い、まったりとコーヒーやスイーツを楽しむ、そんなたわいない関係。
そのひとと出会ったのは、大学からほど近い場所にあるこの街だ。かわいくておしゃれなカフェが多いので、学校帰りに足を伸ばして、気になるお店をちょこちょこと巡ることが、わたしのささやかな楽しみのひとつだった。
その日に出向いたのは、パンケーキ専門店。頼んだパンケーキを待ちながらスマホをいじっていると、隣の席にマスタードイエローのスーツを着た男のひとが腰掛けた。
別のカフェでも、何度か見たことのあるひとだった。
揺れる金色の前髪と、ナイフでそぎ落としたような肉の薄い頬。枝のように細く長い手足と見上げるほどの長身は、立ち枯れた樹を思わせる。
だが落ち窪んだ眼窩の奥にある瞳の色はとてもきれいだった。透明感のある、深く澄んだブルー。
「苺のパンケーキを」
と、そのひとは低く落ち着いた低音で告げた。
安心感のあるその声をきいたのは初めてのはずだ。だがなぜか、どこか懐かしいような気がする。
なぜだろう、と首をかしげたその時、わたしのパンケーキが運ばれてきた。
ウエイトレスさんの手には、三枚の皿。リコッタチーズと塩キャラメルとフランボワーズだ。迷ったので、思い切ってすべて食べることにしたのだ。
隣の痩せたひとが、目を丸くしてこちらを見ている。まあ、そうだろう。
人目を気にしていてもしかたないので、気づかないふりをしてパンケーキにとりかかった。
うん、やっぱり全部頼んで正解だった。どれもこれもぜんぶおいしい。
幸せだなあとにっこりしたとき、隣の男性のところにもパンケーキが運ばれてきた。苺とたっぷりの生クリームのてっぺんに薔薇の花びらがのった、かわいい一皿。
「かわいいなぁ」
と、そのひとはちいさく呟いてから、お行儀良くナイフとフォークを使ってパンケーキを食べ始めた。
手が大きいから、シルバーがおままごとのおもちゃみたいに見える。けれど所作はとてもきれいだ。まるで水が流れるような、自然で無駄のない動作。
そして彼はひとくち食べるたびに、花が咲くようにぱああと笑う。
なんだかかわいくなってしまった。現実のおじさんをかわいいなんて思うのは、まったく初めてのことだ。
自分の中に生じた奇妙な感情に動揺しつつ、手を上げた。
「すみません、苺のパンケーキを追加で」
お隣のひとがあんなにおいしそうに食べるんだもの。同じものが食べたくなっても仕方がないというものだ。
「まじか……!」
すかさず上がった声は、お隣のひとのもの。
無意識に出てしまったのだろう。そのひとはすぐに気まずそうな顔になり「失敬」とちいさくつぶやいた。
そのようすまでもが、どうしようもなくかわいい。だから思わず応えてしまった。
「マジです。四皿目いきます」
「そうか! たくさん食べるのはいいことだ。頑張れ」
と、妙に力強く応援された。なんだろう、この不思議な安心感は。どこかの誰かに似ているような、その笑いかた。
「あの……よく、このあたりのカフェにいらしてますよね」
お隣の男の人は、少し驚いたようすだった。わたしも知らない人にいきなり話しかけてしまった自分に驚いていたが、すでに引っ込みがつかなくなっていたので、そのまま続けた。
「先週、通り沿いのオープンテラスでお見かけしました」
「アッ……うん、いたね。もしかして君も?」
「はい。わたしもいました。あそこのお店、かわいいですよね」
「そうなんだよ。私は年甲斐もなくかわいいものが好きでね。雑貨屋さんやかわいいカフェを見ると、つい立ち寄ってしまう」
「わかります。わたしもこのあたりのカフェを巡るのが好きなので」
「たださ、私みたいなおじさんがひとりでこういうところにいるとね、ちょっと形見が狭かったりする」
気の毒に、と思った。善良そうなひとなのに。
「よければ、予定が合うときはご一緒しましょうか」
「えっ?」
お隣のひとが叫びながらごく少量の血を吐いた。あまりのことに慌てたが、彼はなんでもないような顔をして、速やかに血をぬぐった。
「ああ、ごめん。私は呼吸器と内臓の一部をやられていてね、時々血を吐くことがある。うつるものではないんだけど、不快だよね」
「いや、そんなことは……ちょっとびっくりしましたけど……」
「それならいいんだけど。でも、いいのかい?」
問われて、このひとが悪人だった場合について、ほんの少しだけ考えた。
わたしの個性は「スイフト」だ。ヒーローを目指せるほどではないが、ひとよりかなり素早く動ける。このひとが相手なら簡単に振り切れるだろう。妙な雰囲気になったら逃げ出して、LIMEはブロックしてしまえばいいことだ。
「もちろんですよ」
「じゃあ、お言葉にあまえて」
と、彼はひまわりのように笑った。
そしてわたしたちは連絡先――といってもLIMEのIDだけだが――を交換した。アカウントのところにある八木というのは、きっとこのひとの苗字だろう。
***
この日から、わたしと八木さんは月に一度くらいの割合でカフェを巡った。
ミルクティー専門店、アメリカンカントリー調のベーカリーカフェ、デリが美味しいダイニング、フルーツペーストが入ったラテのあるお店、フラワーショップ併設のお花に囲まれたカフェ、などなど、たくさんのお店に出向いた。本当に、いろいろなお店に。
八木さんはかわいいだけでなく、立ち居振る舞いがスマートな紳士だった。変な雰囲気になることなど、一度もなかった。わたしのプライベートを詮索することもない。同時に彼は、自らのプライベートについても語ろうとはしなかった。
職種とか、セカンドネームとか、住んでいる街とか、そういうことは、いっさい。
ただ、八木さんはとても忙しいひとのようだった。お休みも不定期らしく、当日どころか約束の時間になってからキャンセルされたことも何度かある。
それでも、わたしは八木さんと会い続けた。その理由に目をそらしたまま。
***
「屋上がカフェになってるのか。知らなかったよ」
エレベーターの中で、八木さんがぽつりとつぶやいた。
ただしくはカフェではなく、樹木に囲まれた屋上庭園だ。エレベーターを降りてすぐのところにシアトル系のコーヒースタンドがあるので、たいていの人たちはそこで購入した飲料を持って、街の風景や庭園そのものを楽しむ。
そしてこの時期……十一月の終わりにわたしがここをチョイスしたのには、理由があった。
「この時期は特にオススメの場所なんですよ。あと、大事なのは時間です」
「時間?」
「そう。だから今日は待ち合わせを遅い時間にしたんです。暗くならないと意味がないんで」
エレベーターが六階に着いたので、エレベーター前のコーヒースタンドで飲み物を買った。
「……なるほど……これはいいな」
八木さんが、ぽつりと言った。
この時期、樹木がたくさんのこの庭園は、たくさんの電飾で飾られる。ぎらぎらしたあかりではなく、小さな電球によるかわいいイルミネーションだ。それだけではなく枝を組んで作られたランタンがそこかしこにかけられていた。木の枝からちらちらと漏れる、やわらかな、やさしいあかり。
「八木さん、こういうのお好きでしょう?」
「好きだねぇ」
ランタンの明かりに照らされて笑う、彫りの深いおもて。
「どうしたんだい?」
「すてきだな、と思って」
ん、と八木さんはまた笑う。
「そうだね。ランタンのやわらかな灯りが、とてもいい雰囲気だ」
カフェのことではないのにな、と思ったが、それは口には出さなかった。
「この時期ならではですよね」
「大きなシャンデリアとか、並木道ぜんたいを飾るイルミネーションも魅力的だけれど、こういうのもほっとするね。ここは知らなかったな。毎年やっているのかい?」
「たぶん。少なくとも昨年と一昨年はやってましたね」
「へえ。じゃあさ、来年もここに来ようよ。そうだな、来年の今頃……十一月最後の土曜日とかに」
「いいですね」
クリスマスと言わないところが、八木さんらしいと思った。なぜって、このひとはスマートだから。
「クリスマスに会うひとはいるの」とか、「誕生日はいつなの」とか、そういうことはぜったいに聞かない。だからわたしもたずねない。
わたしたちはカフェを巡るだけの仲。それ以上でも以下でもない。互いのプライベートには踏み込まない。
八木さんのそういうところ、最初は好ましかったけれど、今はそのスマートさに少しさみしさを覚える。
話し込んでいるうちに、飲み物が空になってしまった。
木々が風よけになるとはいえ、夜の屋上庭園は想像以上に冷える。手袋をしてくればよかったと思いながら両の手をこすり合わせていると、いきなり目の前に手袋が差し出された。
「おじさんのでよければ」
「でも、八木さんは?」
「私は大丈夫だよ」
大丈夫なものか。このひとは体脂肪が少ない分、寒がりだ。
けれどせっかくの好意をむげにするのは、もったいない気がした。
「じゃあ、片方だけ」
と、手袋の右手側を受け取った。びっくりしてしまうほど大きくて、しっとりと肌に吸い付くように柔らかな、上質なレザーの手袋だった。
互いの手と手を重ねたら、どれくらい差があるんだろう。このひとのてのひらは触れたら温かいだろうか。それともひんやり冷たいのだろうか。
そんなことを考えた、自分自身に驚いた。
「どうしたんだい?」
「……あ、いえ……こうしてみると、八木さんの手って大きいんだなあと……」
「上背があるからね。グローブみたいだって言われたこともあるよ」
微笑んだ八木さんに曖昧な笑みを返して、ひそかに考えた。普通、手袋なんて、貸し借りするのに抵抗があるものだ。それを抵抗なく受け入れた自分と、さらりと貸してくれた八木さん。
そう、わたしにとって八木さんて、いったいなんなんだろう。
わたしたちは周りから、どんなふうに見えるんだろう。
「……ねえ、八木さん」
「なんだい?」
「こんなふうに二人でカフェでまったりイルミネーションを見ていると、なんだか恋人どうしみたいですよね」
「ああ、そう見えるかもね」
「いっそのこと、わたしたち、つきあっちゃいます?」
「えっ」
八木さんは一瞬ひどく複雑そうな顔をして、そのあと困ったように、ほろ苦く笑った。
「それは……できないかな」
「ですよね。大丈夫、冗談ですよ」
「ああそうか。冗談」
ほっとしたように、八木さんが笑った。わたしもそれにあわせて笑んだ。
だが、ほんとうは泣きたかった。今まで目をそらし続けていた真実に気がついてしまったから。
どうして、パンケーキ専門店で声をかけたのか。
どうして、ドタキャンされても気にせずまた会おうと思えたのか。
どうして、なんの抵抗もなく手袋を借りられたのか。
そのあと八木さんと何を話したのか、よく覚えていない。たぶんあたりさわりのない会話を、あたりさわりなくしたのだろう。
庭園を出た後、いつものようにけやき並木を通って最寄り路線の入り口へと向かった。借りていた手袋は、入り口についたところで返した。
「ああ、言い忘れてた」
と、八木さんが言いにくそうに口をひらいた。
「実はね、しばらくカフェ巡りができなくなるかもしれないんだ」
突然の言葉に、足元が崩れ落ちるような気がした。
「……お仕事がお忙しくなる……とか?」
「うん。来春から職場が変わるんだ。東京を離れるんだよ。その準備がいろいろね」
「……そうなんですね」
「でも仕事の関係でこっちにくることもあると思う。その時がきたら連絡するよ」
東京を離れる、いったいどこに……。たずねたかったがそれは憚られた。職種すら教えてくれなかったひとが、話してくれるはずもない。
「わかりました……連絡お待ちしていますね」
無理に両の口角を引き上げた。わたしはいま、ちゃんと笑っているように見えるだろうか。
「じゃあ、わたしはこれで」
これ以上話していたら泣いてしまいそうだったので、そう言って背を向け、階段を降りた。
東京を離れるというのは、きっと嘘ではないだろう。話したくないことは頑なに語らない人だったが、明確な嘘をつかれたことは一度もなかったから。
涙がぽろぽろと溢れ出る。
本当は、ずっと前から気づいていた。ただ目をそらしていただけだ。自分のなかに潜んでいた気持ちから。
わたしは、八木さんのことが好きだった。ずっと……ずっと前から。
けれどきっと、八木さんはわたしのことなどすぐに忘れてしまうだろう。それがわかっているから、とても、とても悲しかった。
***
八木さんとはそれきり会っていない。連絡もこない。
彼が頑なに個人情報を明かさなかった理由を知ったのは、夏の夜のこと。テレビから突然流れてきた映像に、血の気が引いた。
崩れ落ちたビル、合間から立ち上る黒い煙。そして粉塵の向こうで立ち上がる姿に、見覚えがあった。
そのひとは、青と赤を基調にしたヒーロースーツを着ていた。この国の人間であれば知らぬものはいない、平和の象徴のコスチューム。けれどその中身は、モニター越しに見慣れた偉丈夫ではない。立ち枯れた樹木のような、細長いひと。
あの、けやき並木の街で別れて以来、一日たりとも忘れたことなどなかった人だ。ずっとずっと会いたいと思い、もう忘れようと何度も涙した、その相手。
あの時わたしが受けた衝撃を、誰かにわかってもらえるだろうか。
もう二度と、こちらから連絡することはできないだろう。
ただの女子大生と我が国を支え続けた平和の象徴。差があまりにも大きすぎる。
だいすきだった八木さんは、たった一夜で、手の届かない遠いところに行ってしまった。
***
今日は風が強い。身を切るような、つめたい北風。金色にきらめくイルミネーションをみあげて吐いた息は、白かった。
ばかだ、と自分でも思う。あんな約束、オールマイトが覚えているはずはないのに。
それでも、どうしても、足を運ばずにはいられなかった。
かなわぬ願いだと知りつつ、どうか忘れないでほしい、とちいさく呟いた。
わたしのことを、あの日わたしとした約束を覚えていて。
エレベーターで六階にあがり、屋上に出た。あの日と同じように、コーヒースタンドでラテを買い、庭園内をぐるりとまわる。
やっぱり、あのひとはいない。わかっている。
庭園をいろどるイルミネーションは、あの日と同じように、やわらかで優しい。それがいまは、ひどく悲しかった。
時刻は二十時三十分。屋上が閉まるのは二十三時だけれど、イルミネーションの終了は二十二時三十分のはずだ。灯りが消えるまで、待ってみようか。
だって、これは儀式のようなものだから。あのひとを思い出にするための。
「やっぱり、来ないよね」
三杯目のラテを飲み終え、自嘲気味に呟いた。
こうなることを予測してしっかり防寒してきたけれど、いまやすっかり冷えてしまった。冷えてしまったのは、心なのか、それとも体なのか。
おそらくは、その両方であろうけれど。
スマホを出して、時刻を確認。二十二時二十九分。もうすぐイルミネーションと、わたしの悲しい恋が終わる。
わかっていた……ここに来ると決めた時から、全部わかっていたことだ。
涙がこぼれ落ちるのと同時に、イルミネーションの明かりが消えた。
2020.11.27
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