交わした相手は、カフェで知り合った若い子だ。
初めて見たとき、雰囲気のある子だと思った。どこにいても絵になりそうな子だと。
だが、そんな彼女が一皿でも充分な量のパンケーキを四皿平らげる姿を見て、度肝を抜かれた。思わずあげてしまった声に彼女が反応し、少し話した。それが、彼女とのきっかけだった。
絵になるけれど、業界人でも芸能人でもない、ごくごく普通の大学生。普通の女の子との、普通の会話。私にとって、それはすごく新鮮だった。
そして、彼女はとても魅力的だった。くるくると動く表情が愛らしかった。なんでも素直に驚いて、ちょっとしたことでも大げさに喜ぶ。それでいて、時折びっくりするくらい大人びた表情をすることもある。明るくてかわいくて、時々セクシーで、会っているとただただ楽しい。それだけで、一年半もの長きに渡って会い続けてしまった。
平和の象徴として生きることを選択し、長年独り身を貫いてきた私だ。それでも、女性と関係を持ったことは幾度もある。年齢相応、いや、それ以上の場数は踏んでいるつもりだ。だが特定の相手と、腰を据えてじっくりつきあったことはない。
何故なら、私には強大な敵がいるから。計算高く狡猾な敵だ。恋人などつくったら、奴になにをされるかわからない。故に特別な存在を作ることはできなかったし、極力そういった感情にならぬよう、私自身、深入りするのを避けてきた。
それなのに、困ったものだ。当時の私は彼女のために毎月時間をつくっていた。もうやめようと思うのに、それができない。自分でもどうしたものかと思い悩んでいた。
***
「あ、八木さん」
ファッションビルの入り口で、彼女が大きく手を上げた。
「ごめん、待った?」
「いいえ。わたしも今来たところです」
「今日のお店はどこ?」
「このビルの屋上です。この時期は特にオススメの場所なんですよ。あと、大事なのは時間です」
「時間?」
「そう。だから今日は、待ち合わせを遅い時間にしたんです。暗くならないと意味がないんで」
意味深な言葉の理由が、屋上に出てわかった。
そこはカフェと言うより樹木に囲まれた屋上庭園だった。きれいに整えられた木々に、たくさんの電飾。そこかしこにかけられたランタンが、なんとも言えない風情を醸し出している。
併設しているコーヒースタンドで、私はコーヒーを彼女はソイラテを頼んだ。紙カップを手に、あいているテーブルについた。
頭上では木の枝で作られたランタンがやさしい光を放っている。白色電灯ではなく、やわらかな金色の光を浴びて微笑む彼女は、常よりももっときれいにみえた。
「大きなシャンデリアとか、並木道を飾るイルミネーションも魅力的だけれど、こういうのもほっとするね。ここは知らなかったな。毎年やっているのかい?」
「たぶん。少なくとも昨年と一昨年はやってましたね」
「へえ。じゃあさ、来年もここに来ようよ」
ばかなことを、と心の中でつぶやいた。
私は来春に、東京を離れる。今日はそれを話すつもりだった。それなのに、何を言っているのだろうか。来年のこの時期に、東京に来られる保証もないのに。
だが、とっさに続けてしまった。彼女の表情が輝いたのを見てしまったから。
「そうだな。たとえば来年の今頃……十一月最後の土曜日とか、どうだろう」
来年は担任を持つ予定はないから、週末だったらなんとかなるかもしれない。それにイルミネーションは長くやっているものだから、ダメそうだったら近くなったら日にちを調整すればいい。
いいですね、とちいさく笑った、その笑顔が、眩しかった。
たわいない会話を進めていると、彼女が寒そうに手を擦り合わせているのに気がついた。木々が風よけになるとはいえ、夜の屋上庭園は存外寒い。冷えは女性の大敵だ。
ポケットにいれていた手袋を、彼女に差し出した。
「これ使って。おじさんのでよければ」
「でも、八木さんは?」
「私は大丈夫だよ」
さあ、と手袋をやや強引に彼女に手渡す。
「じゃあ、片方だけ」
と、遠慮がちに彼女が手袋を受け取った。私の手袋をつけた彼女の手は、びっくりするほど小さかった。
「……ねえ、八木さん」
「なんだい?」
「こんなふうに二人でカフェでまったりイルミネーションを見ていると、なんだか恋人どうしみたいですよね」
「ああ、そう見えるかもね」
「いっそのこと、わたしたち、つきあっちゃいます?」
「えっ」
思わず、声をあげてしまった。
どう応えるか一瞬迷い、次に迷った自分に嫌気がさした。
お師匠を失った日に決めたはずだ。あの強大な敵を倒すまで、決まった相手は作らないと。
「それは……できないかな」
「ですよね。大丈夫、冗談ですよ」
「ああそうか。冗談」
本当は、冗談なんかではないことは、わかっていた。
本当は、その気持ちに応えたかった。
けれど、それはできないことだ。この子を危険にさらすことはできない。絶対に。
自分の本音にふたをして、私は笑った。ほろ苦く。
その後はもう、精彩を欠く会話しかできなかった。それどころか東京を離れることを話さなくてはいけないのに、なかなか切り出すことができず。
結局、言い出したのは別れ際だった。彼女の最寄り路線の、入り口前で。
「言い忘れてた」
と、口をひらいた。わざとらしくはなかっただろうか。
口が鉛を含んだように重い。ここから先は言いたくはない。けれどそれでも、言わなくてはいけない。
「実はね、しばらくカフェ巡りができなくなるかもしれないんだ」
「……お仕事がお忙しくなる……とか?」
彼女の顔から、笑みが消えた。胸の奥がひどく痛んだ。
「うん。来春から職場が変わるんだ。東京を離れるんだよ。その準備がいろいろね」
「……そうなんですね」
「でも仕事の関係でこっちにくることもあると思う。その時がきたら連絡するよ」
きゅっと彼女が唇を引き結んだ。いつもまっすぐにこちらを見据えてくる瞳が、ふるえている。
「わかりました……連絡お待ちしていますね」
彼女が両の口角を引き上げて、唇を笑みのかたちにする。だがそれは、どう見ても泣いているようにしか見えなくて。
「じゃあ」
と、彼女が背を向けた。
待ってくれ、と、小さな肩に手を伸ばしかけ、すんでの所でそれをとどめた。
その言葉を口にしてはいけない。この手は絶対に伸ばしてはいけない。
自分のせいで、この子を危険にさらすわけにはいかない。
だから、階段を駆け下りるちいさな後ろ姿を、なすすべもなく見送った。
きっとあの子は、私から見えないところで泣くのだろう。
そうさせたのは、他の誰でもない、私自身だ。彼女の気持ちになんとなく気づいていたのに、自分が会いたい気持ちを優先し、それに目をつぶってきた。
けれど、それももう終わり。
きびすを返して、空を見上げた。視線の先には、けやきを彩るイルミネーション。それがなんだかとても悲しく見えて、大きく、ため息をついた。
***
そのまま私は雄英の教師となり、神野の悪夢と呼ばれる事件を経て、事実上の引退を果たした。
その後、彼女に連絡しようかと何度も思った。思うたび、それはあまりにも虫がよすぎると己を諫めた。
それに一抹の不安もあった。彼女はもう、別の恋に生きているかもしれない。もしそうであったとしたら、私からの連絡など、煩わしいだけだろう。
どうしたらいいのかわからず、時間だけが過ぎてゆく。
だがこの胸の奥にひとつだけ、忘れられない約束があった。闇の中に下がるランタンのように、輝き続ける言葉がある。
――来年もまた、ここに来ようよ――
それはあの日に屋上庭園でかわした、小さな小さな約束だった。
***
そして、十一月最後の土曜日がやってきた。
最後までどうするか迷ったが、行かないことを私は選んだ――というか選ばざるをえなかった。
雄英のヒーロー科は土曜も六限まで授業がある。そのうえ夕方から緊急会議が入ってしまった。会議が終了したのは、二十時をまわってから。今から行っても、間に合うかどうか。
これも神のおぼしめしだ。結局のところ、私と彼女はそういう星の巡り合わせだったということだ。
書類をまとめ、ため息をひとつ。
だが、でも、しかし。
決めたはずなのに、未だにらしくない葛藤を続けている自分がいる。
――もしも……もしも彼女があの場所に来ていたとしたら――
寒そうに手をすりあわせていたあの子の姿が、脳裏に浮かんだ。
慌てて、腕時計を眺めた。時刻は八時半を過ぎたばかり。
大急ぎで新幹線にのれば、ギリギリ間に合うかもしれない。
「よし!」
声を上げて、立ち上がった。
「オールマイト?」
「……すまないが、ちょっと出てくる!」
叫ぶや否や、コートをつかんで外へと飛び出す。
途中、足がもつれてひっくり返って血を吐いた。
なんてことだ、格好悪い。自分の娘みたいな年齢の女の子に会うために、なりふり構わず走るなんて、こんなことは初めてだ。
大通りに出たところでタクシーをつかまえ、そこから一番大きな駅へと向かった。車内で掌についた血を拭い、頭を上げる。
以前のようには走れない。こんな体がもどかしい。だがこれも、未来へのバトンと共に個性を譲渡したあの日から、すべてわかっていたことだ。
後悔はない。自分の人生に後悔などしない。それが私の生き方だ。
そうだ、そのはずだった。だから――。
だから行こう、東京へ。あの屋上庭園へ――。
***
「ひとあし遅かったか……」
屋上庭園に足を踏み入れ、ちいさく独りごちた。
庭園こそはあいていたが、イルミネーションは、すでに消えてしまっていた。まだちらほらと人が残っていたが、彼女の姿はない。
――当然だ。
大きく息をついてから、腕時計を眺めた。
時刻は二十二時四十五分。庭園が閉まるまで、あと十五分。
そうだ。もし彼女がここに来ていたとしても、この寒い中、そんなに長く待っていられるはずがない。
わかっている。わかっているがと呟いて、未練がましく、ぐるりと中を歩き回った。
あの日と同じように、庭園内の木々は電球やランタンで飾られている。
あの日と違うのは、電飾が消えていることと、ここに彼女がいないこと。
階段を昇り、壁際を一周したけれど、やはり彼女はいなかった。
「帰るか……」
がくりと肩を落として、出口に向かった、その時だった。
「八木……さん?」
背後からかけられた声に、心臓が跳ね上がった。覚えのある、いや、忘れたことなどなかった声だ。
反射的に振り返り、そして大きく破顔した。振り返った先に、いたのは彼女。忘れもしない、愛しい人だ。
隣のコーヒースタンドで買ったばかりなのだろう。彼女は湯気の立つカップを手にしていた。
「……うん……来ちゃった」
答えながら、己のそれよりもはるかに小さな両の手を、紙カップごと包み込んだ。氷のように冷え切った手。この寒いなか、君はどれだけ私を待っていたのだろうか。
「覚えてて、くれたんですか……?」
「忘れるはず、ないじゃないか」
冷たい風の吹く都会の屋上、すでにイルミネーションは消えている。だが、なぜだろう、小さなあかりが点されただけのこの庭園が、これまでになくきれいに見える。
なにを話したらいいだろう。どこから話したらいいだろう。
いや、そんなものはあとでいい。
今はまず、この小さなてのひらを温めることから始めたい。
もう二度と、君が凍えることのないように。
2020.11.27
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