「うわぁ、真っ白」
リビングの窓から見下ろした朝の街は、この辺りでは珍しい雪景色。
粉雪が降りしきる外はずいぶん寒いのだろうが、暖房が効いている室内はあたたかだった。
いつもより少し遅めの、休日の朝。
俊典をもう少し寝かせておいてあげたいが、血糖コントロールの関係もある。そろそろ起こしたほうがいいかもしれない。
なまえはそう心の中でつぶやいて、キッチンへと向かう。
全自動のコーヒーマシンにコーヒー豆をセットし、スイッチを入れた。エスプレッソが抽出される間に、スチームミルクとチョコレートシロップを準備する。
今朝のコーヒーはカフェモカだ。甘いチョコレートシロップは、バレンタインデーの朝の、糖分補給にぴったりだから。
もちろん、バレンタインのプレゼントはちゃんと別に用意してある。
例年、バレンタインデーになると、なまえと俊典は互いに贈り物をしあう。つき合いはじめた頃から今まで、ずっとそうだ。
――アメリカのバレンタインは、男からも女性にプレゼントを贈るんだ。
一年目のバレンタインの時、俊典はそう言いながらチューリップとスイートピーの花束をなまえに手渡したのだった。
「できたかな」
抽出されたエスプレッソをお揃いのマグカップに入れ、その上からチョコレートシロップとスチームミルクを注ぐ。
本当は、ホイップクリームを浮かせたいところだ。けれど起きぬけの生クリームは、胃袋を全摘している俊典には優しくないかもしれない。なまえはそう考えて、今回はやめることにした。
「おはよう、ダーリン」
サイドテーブルにトレイを置いて、なまえは俊典の髪にキスを落とした。
ん……という鈍い声と共にひらかれた、青い瞳。
「おはよう、ハニー」
上体を起こしながら俊典がこたえ、そしてなまえにキスをかえした。
いつもの、幸せなルーティン。これはふたりのお決まりの所作。
「いい匂いだね」
「今朝はカフェモカにしてみたの」
「美味しそうだ」
「どうぞ」
ベッドの上の俊典にマグカップを手渡した。ありがとう、と、彼が答える。
なまえはベッドに腰をおろした。伝わってくる、俊典のぬくもり。
「うん。おいしいね」
「ありがとう」
「そういえば、雪は? 予報の通り積もっているかい?」
「ええ。五センチほどだろうけど」
「そうか。じゃあ、今日は家でゆっくりすごそうか。いいかい?」
「ええ」
もちろんそれは、なにもなければ、の話だろう。
めったに雪が降らない東京は、数センチの積雪で交通機関が麻痺してしまう。けれど事件は年中無休。雪の休日だからといって、オールマイトでなければ捌けない事件が起きれば、容赦なく出動要請はかかる。
できれば今日は、事件が起こりませんように。
なまえは願わずにいられない。
OFAとの闘いで臓器の一部を失った俊典に残されたヒーローとしての時間は、とても短いと聞いている。
非番の日くらいは、休ませてあげたい。
そう思いながら、サイドテーブルにカップを置いた瞬間、俊典にやさしく手首を掴まれた。
「まずは、怠惰な獣になってみようか」
「怠惰でいられる?」
挑発するように微笑むと、俊典が両の口角を軽く上げた。そこに潜むのは、大人の男の深い色香。
「あるいは、本能に忠実な獣に、かな」
低いそのささやきが終わる前に、そっと肩に回された腕。
雪に閉じ込められたふたりは、これからお互いの中に閉じこもる。なまえは俊典の腕の中に、俊典はなまえの、その中に。
「起き抜けのカフェモカは美味しかった。でも」
「でも?」
「一番甘いのは、チョコレートじゃなくて、ダーリン、君だよ」
「お上手ね、ハニー」
お決まりのやりとりと共に降りてきた、優しい唇。
チョコレートよりも甘い時間が、これからはじまる。
2019.2.14
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