いつかのクリスマス

 冷たい十二月の風が、なまえの頬を打った。ビル風の吹くこの街の冬は、存外寒い。手袋をしたなまえの指先は、すでに痛むほどかじかんでいる。
 けれど冷え切った身体より冷えているのも、指先よりも痛いのも、実は心のほうだった。

***

 クリスマスイブに東京の夜景を見よう、と言い出したのは彼のほうだ。
 けれど前日になって、連絡が入った。急遽、実家に行かねばならなくなったと。
 しかたなくひとり街に出て、彼と行くはずだったタワーに足をのばした。

 この都市を象徴する名前のついた紅白のトラス式タワーは、予想通り混雑していた。エレベーター待ちの列に並ぶ、その大半はカップルだ。
 やっぱり別の場所にすればよかったかなと思いながら、列を折り返し、そして次の瞬間、なまえは凍りついた。

 そこに、彼がいた。
 女子アナみたいなファッションの、アイドルみたいにかわいい子と。

 彼女が誰か、知っている。
 彼がなまえの前につきあっていた、大学でも有名な美女。
 ふたりは笑い合っていた。しあわせそうに、たのしそうに。

 これ以上見ていられない、となまえは感じた。と同時に、自分がここにいることを彼らに気づかれてはならない、とも思った。それだけは避けたい。
 吹けば飛ぶような、それはちいさなプライドだった。

 そっと列から外れ、なまえは歩いた。タワーの前の通りを進み、交差点を渡って、大使館の前を抜けてその先へ。途中、高級住宅地へと向かう路地へと分け入り、ひたすらに。
 気がつくと、なまえは高い塀の並ぶ住宅地の中にある児童公園にたどり着いていた。小さな遊具がいくつかと、ベンチがいくつかあるだけの、ちいさな公園。
 ふらふらと倒れるようにベンチに腰掛けて、息をついた瞬間、どっと涙があふれ出た。

 なんとなく、こうなるような予感はあった。
 もともと、アプローチしたのはなまえのほうだ。
 彼が振られたと聞いて、すぐに告白したのだった。空いた隙間を埋めるように、彼はなまえを彼女のいた場所に入れてくれた。すんなりと。
 けれど、心のどこかでわかってはいた。彼がなまえとつきあったのは、失恋の悲しみを癒やすためであると。彼は常に優しかったけれど、どこかうわのそらだった。

「だからって、こんな……」

 ひどい、と思った。

 なにも、一緒に行こうと約束した場所で彼女と会うことはないじゃないか。
 実家に行くなんて、そんな嘘をつかずに、彼女とよりをもどしたのだと、はっきり言えばよかったじゃないか。

 みじめだった。悔しかった。そしてなにより、悲しかった。
 だから、誰もいない夜の公園で、なまえは声を殺して泣き続けた。

***

 かじかんでしまった手を、擦りあわせた。あれからどれくらい経つのだろう。

 と、その時、なまえは隣のベンチに人が座っていることに気がついた。
 いつからそこにいたのだろう。今のいままでまったく気配を感じなかった。不審者だろうか。

 ぞっとしながら人のいる方向に視線を移すと、背の高い……高すぎる、男の人と目があった。

 男は驚くくらい背が高く、驚くくらい痩せている。肉の薄い骸骨のような顔の中で、ギラギラと輝いている青い瞳。
 目が合った瞬間、男は白い歯をむき出しにして、にっ、と笑った。

 ――――やっぱり不審者だ。

 なまえの口唇が、悲鳴の形にひらかれる、その刹那。

「驚かせてごめん」

 かぶせるようにかけられた声に、なまえは叫ぶのをやめた。
 男の声に聞き覚えがあったからだ。それは人を安心させるような、心地よく響く低音だった。

「だけどね、こんな時間にこんなところで、女の子がひとりでいたら危ないよ」

 続く言葉を聞きながら、この声、絶対にどこかで聞いたことがある、となまえは思った。
 けれどそれがどこだったのか、そして誰の声だったのか、思い出せない。

「こんな時間?」

 男の言葉をオウム返しし、なまえは公園の時計を見上げた。時刻は十時。
 あれから三時間もここにいたのか。指先が痛くなるはずだ。

「このあたりは治安がいいけど、閑静な住宅地だけに夜の人通りは少ない。早く大きな通りに出て、家に帰った方がいい」

 男の人はこちらを見ながら静かに微笑んでいる。見た目はちょっと怖いけれど、感じのいいひとだとなまえは思った。
 身につけているのは、茶のコートと派手な芥子色のタキシードだ。こんな色のタキシードを着るのはお笑い芸人かオールマイトくらいだろう。
 だが、妙に似合っている、となまえは思った。

 男の人は、白と赤と緑の花束を抱えていた。見事なクリスマスカラー。
 奥さんにでもあげるんだろうか。いや、こんな時間にひとりでいるくらいだ。自分と同じように誰かに振られたばかりなのかもしれない、などと、意地悪なことを考えた。

「……」
「しょうがないね」

 無言のままのなまえにしびれを切らしたように、男の人はベンチから立ち上がった。
 背の高い人だと思っていたが、立つとますます大きく見える。痩せているが、骨格はしっかりしてそうだ。襲われたら勝てそうにない。
 帰れと言われて素直に従わなかったことを、なまえはひそかに後悔した。

「はい」

 だが、予想に反して手渡されたのは、ほんのりあたたかい使い捨てカイロ。

「使いかけで悪いけど、ないよりはいいだろ? で、いったいなにがあったの?」

 ひどく心に染み入る声と、柔らかい笑顔。
 この笑い方も、どこかで見たことがあるような気がする。

「失恋したんです」
「……それは……ショックだね」
「はい」

 答えながら、さらりと話してしまった自分に驚いていた。見ず知らずの人に個人的な事情を話すなんて、どうかしている。
 けれど、誰かに聞いて欲しかった。自分の気持ちを、悲しさを。すべて。
 だから、今までのいきさつを、目の前の男の人にぶちまけた。

 実家にいるはずの彼が、なぜか他のひとといたこと。そのひとは、彼の前の彼女だということを。

「街が恋人たちであふれかえるクリスマスに失恋だなんて、笑っちゃいますよね」
「……」
「おかげで、見るはずだった夜景も見られなかったし、やんなっちゃうな」
「……」
「きっと、クリスマスが来る度に思い出すんでしょうね。この日のことを」
「……そうか」

 と、今まで黙っていた男の人が、ぽつりと呟いた。

「それはあまりに悲しいな……」

 男の人は続ける。

「あのさ……」
「はい?」
「よければ、おじさんが君に、なかなか見ることができない夜景を見せてあげるよ。ちょっと寒いけど、それでよければ」
「え?」
「ああ、警戒しなくても大丈夫。この近辺にはもう一つ、展望台のある大きなタワーがあるだろ」

 と、男の人は住宅街の向こうにそびえる、巨大なタワーを指さした。

「六本木の? あそこの展望台はこの時期ひとでいっぱいですよ」
「ん。行くのはその上」

 たしかに、六本木にはかなり背の高いタワーがある。そして展望台のあるフロアの上階にあるのはただひとつ、この国で一番有名なヒーローの事務所だ。

「上って? オールマイトの?」

 すると男の人は大きく破顔して、なまえの手を引き歩き出した。

 これ、まずくはないだろうか。やはり大声を出すべきだろうか。なまえが躊躇していると、男の人がまた、低くささやいた。

「大丈夫。君が嫌がるようなことはしないよ」
「じゃあ、その手を離して下さい」
「……ああ、これは失礼」

 男の人は、にっと笑って手を離し、懐から名刺を取り出した名刺をなまえに渡した。

「私はね、こういう者です」

 名刺は写真付きのものだった。
 顔写真の隣に、大きくオールマイト事務所と印字がしてある。下に書かれている八木俊典、というのは、このひとの名前だろう。
 どうやら男の人……八木は、オールマイトの関係者のようだった。

「オールマイトの事務所のひとなの?」

 八木は笑ったまま答えない。しかし八木の写真入りの名刺には、たしかにオールマイト事務所と書かれている。

 ま、いいか、となまえは思った。
 もし本当に行き先がタワーの最上階であるのなら、オールマイト事務所の関係者しか入れまい。
 そしてオールマイトの事務所の人が、見ず知らずの若い女になにかするとも思えなかった。そんなことをしたら、オールマイトの立場が危うくなる。あれほどのひとの周りにいる人間が、そこに思い至らぬはずがない。

「大丈夫だよ」

 なまえに向かって微笑みながら、もう一度、八木は言った。
 それはやっぱり安心できる、とても優しい声だった。

***

「さ、どうぞ。忘れられないクリスマスを、君に」

 八木はそう言って鉄扉に手をかざし――指紋認証のためだ――開いた。とたん、襲いかかってきたのは、刺すような北風。

 が、なまえは北風などものともせず、「うわあ」と感嘆の声をあげた。
 目前に広がるのは、360度遮るもののない見事な夜景。

 八木に連れてこられたのは、オールマイト事務所のそのまた上、つまり屋上。
 彼は本当にオールマイトの関係者のようだった。
 通行証がなければ通れないゲートをくぐり、専用のエレベーターホールから、最上階直通のエレベーターを使わなければ、最上階へ。
 最上階のエレベーターホールの奥にある鉄扉――これも指紋認証で関係者以外は出入り出来ないようだった――の先にある階段をあがり、この場所にたどり着いた。

「寒くて悪いけど、景色はすごいぞ。海抜280メートルの世界だ。東京中が見渡せる」

 寒いなんてもんじゃない、とコートの襟をかき合わせながらなまえは思った。

 だが、景色は素晴らしかった。ほんとうに。
 ここには他に人もいなければ柱もなければ壁もない。低い柵はあるものの、八木の言うとおり、夜景がぐるりと見渡せる。

 北の方に目を走らせると、青白く輝く電波塔が見えた。
 新宿方面には高層ビル群がきらびやかな光を放つ。
 海の方向には虹色にライトアップされた橋。その上を動く赤と金の光線は、車のテールランプとヘッドライトだ。
 次になまえは東の方角に向き直った。正面に見えるは、紅白のトラスタワー。約束が守られていたならば、彼と二人で登ったはずの塔だ。
 塔の下にもまた、たくさんの光が広がっている。

「……八木さんって……なにものなんですか?」
「さあ、なにものだろうね。ただ、ここは寒くて風も強いから、そう長くはいられない。そんなことを話すより、景色を楽しんだ方がよくはないかい?」

 たしかにそうだ。
 なまえはもう一度、東京の街に視線を移した。
 宝石箱のような、人工の星々のような、きらびやかな風景。

 この街の夜はひどく明るい。十時を過ぎているのに、眼下は光に覆われている。美しく、そしてどこか儚くも見える、東京の街。

「私はここから眺めるこの街の景色が好きでね。東京を虚飾の都と言う人もいるけれど、私にとっては故郷だ。そしてこの街にも、風光明媚な地方の町と同じように、人々の暮らしが息づいている」
「……」

 本当にそうだ。儚くも見えるこの街には、たくさんの人が生きている。
 紅白のタワーでみかけた彼と彼女のように幸福に満ちている者もいれば、先ほどのなまえのように、泣いている者もいるだろう。
 それは偽りでもなけれ虚ろでもない、いまを生きる人々の日常。

「そう思うと深いですね。そしてきれいです……とても」
「うん……」

 八木は視線を街に移したまま、しずかにうなずいた。

「印象的だったろう? 忘れられないクリスマスになったかな?」
「ええ、本当に」

 やさしい人だ、となまえは思った。
 きっと八木は、クリスマスと悲しい思い出が結びつかぬように、ここに連れてきてくれたのだ。

「いい思い出になりました」
「そりゃあよかった」
「ありがとうございました。ほんとうに」
「なんの」

 と、八木が笑った。
 よく笑う人だ。明るくて、まるで――。
 なまえは、八木の声が誰に似ているのかを思い出した。

 オールマイトと似ているのだ、声も、そして笑った感じも。
 もちろん、肉のない骸骨のような八木と筋骨隆々のオールマイトでは、体型も顔立ちも違う。けれどどこか似ている気がするのだ。なんといったらいいのだろう、そう、雰囲気のようなものが。

「ああ、そうだ」

 ぱちり、と指を鳴らしながら、八木が言った。
 こうしたアメリカナイズされたしぐさも、オールマイトと似ている気がする。

「君、花は好きかい?」
「……嫌いではありませんが」
「よかったら、これあげるよ。もらいもので悪いけど」

 差し出されたのは花束だ。白と緑と赤、見事なクリスマスカラー。

「いいんですか?」
「うん」

 今まで気づかなかったが、よく見ると赤い花に見えていたのはポインセチアだった。花びらのような苞と葉を持つ、常緑樹。

「ポインセチアの鉢はこの時期よく見ますけど、ブーケになっているのは珍しいですね」
「君、くわしいね」
「母がフラワーアレンジメントをやっているので、その影響で」

 もう一度、差し出されたブーケを見つめた。白いかすみ草と、緑のドラセナ、そして、真っ赤なポインセチアに金色のリボン。
 ああ、とてもきれい。
 不意に、笑みがこぼれた。ポインセチアの花言葉を、思い出してしまったから。

「お、やっと笑ったね。そのほうがかわいいよ」
「ありがとうございます。八木さん、ポインセチアの花言葉ってご存じですか?」
「いや、知らないけど」
「幸運を祈る、です」
「じゃあ、なおさら持っていくといい。いまの君にぴったりだ」
「ありがとうございます。では遠慮なく」

 差し出されていたブーケを、両手で受け取った。
 八木が手にしているときはそんなに大きく見えなかったブーケは、なまえが持つと大きく見える。

「これからの君の、幸運を祈る」
「ありがとうございます」
「さあ、下まで送っていこう」
「はい」

 微笑まれたので、微笑みを返して、二人並んで歩き出した。

 もう二度と、会うことのない人だ。
 けれどいつか、今年のクリスマスを懐かしく思い出す日が来るだろう。
 それはきっと、よりそいあって笑う彼と彼女の姿でも、悲しみにくれた自分の姿でもなく、この美しい夜景とそれを演出してくれたこのひとのことだ。
 身体はひどく冷えていたが、そう思っただけで、なぜか心がぽかぽかした。

 これからの君の、幸運を祈る。

 知らないひとからかけられた、ただそれだけの言葉なのに、こんなに力があるのはなぜだろう。不思議に思いながら、なまえは八木と共に、エレベーターへ向かう階段を降りていった。


――忘れられないクリスマスを、君に――

2020.12.24
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月とうさぎ