春暁

 春眠暁を覚えずというが、わたしは昔から、春になると早く目が覚めてしまう。春ならではの心地よい夜明けが好き。
 こんなふうに、無駄に早く起きてしまった朝、わたしは野菜スープを作る。じっくり煮込んだやわらかなスープは、胃袋のない俊典さんには良いだろうから。

 東南向きのキッチンは、早朝もやさしいあかるさに包まれている。窓から注ぎ込むやわらかな陽光を感じながら、ラックから白いハートの鋳物ほうろう鍋を取り出して、コンロに置いた。
 外からは、鳥の鳴く声が聞こえてくる。おだやかな春の朝。

 セロリや玉葱、にんじんなどの香味野菜を刻んで、オリーブオイルでじっくりと炒める。しんなりして香りが出てきたら、かぶやマッシュルーム、キャベツを投入。その都度ひとつまみずつの塩を足すのを忘れずに。次に缶入りのトマトを潰し入れ、水とジャガイモを加える。ここから十分ほどは、することがない。

 ちょっと一息つこうかと春らしい苺フレーバーの紅茶を戸棚から出したその時、リビングダイニングの扉が開かれた。顔を出したのは、わたしの愛しい長身痩躯。

「おはよう。いい匂いだね」
「ごめんなさい、起こしてしまった?」

 時刻は六時、通勤時間がほとんどない俊典さんは本当だったらまだ寝ているはずの時間だった。

「いや。春の朝は気持ちがいいよね」

 わたしの問いに曖昧にこたえ、俊典さんが微笑んだ。このひとはこういうところがやさしい。とても。

「今朝はなんだい?」
「ミネストローネ」
「いいね。パスタも入れてくれる? 今日はなんだかお腹が重くてさ。パンが入りそうにない」
「了解」

 ジャガイモが柔らかくなったのを確認し、缶詰の白インゲンとショートパスタを鍋に入れた。
 その間、俊典さんがわたしのかわりに紅茶を淹れてくれる。彼が選んだ今朝のカップは白地に金のラインが入った、鮮やかなブルーの花が描かれたもの。わたしはこのカップがとても好きだ。金に青だなんて、まるで俊典さんみたい。
 鍋からはことこととやさしい音がする。そこにふわりとただよう、苺の香り。

「昨夜は、風が強かったね」
「そうね。せっかく咲いた桜も散ってしまったかな」
「おそらく」

 しずかに、俊典さんが答える。
 嵐のような強風が駆け抜けた昨夜。ごうごうとなりわたる風の音を聞きながら、わたしは目前にいるひとの生き様を思い起こしていた。嵐のただ中を満身創痍で立ち続けた、平和の象徴。わたしの、愛しい貴方。

「どうしたんだい?」
「いいえ、なんでも」

 わたしはキッチンの窓から、外を見やる。やわらかな春の日差しに包まれた梢は、昨夜風に打たれてうなり声をあげていたのが嘘のように穏やかだ。

「スープ、できたよ」
「ああ、いただこうか」

 スープボウルにお野菜とパスタがたっぷり入ったスープをそそぐ。

「おいしそうだね」

 真っ白い歯を見せて、微笑む俊典さんは、まるで春の太陽のよう。
 これからの俊典さんの人生も、この春の陽のようであるといい。そんなことを思いながら、わたしも彼に微笑みを返す。

「いただきます」

 大きな両の手を胸の前で合わせて、俊典さんがまた、大きくわらった。

初出 2021.3.15 2021年春のBOOSTお礼文
サイト掲載日 2021.7.13

孟浩然の「春暁」をモチーフとして使わせていただきました。

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