残炎の砌

 残炎の砌、という古風な書き出しで始まる残暑見舞いがわたしの元に届いたのは、昨日のことだった。
 書かれていたのは隣県にある小さな漁港への案内と待ち合わせの日時。そして最後に、「鈍行に乗ってくるように」という謎の一言が添えられて。
 差出人は八木俊典、年の離れたわたしの恋人。
 おそらくこれは残暑見舞いのテイを取ったデートの誘いだ。おそらく彼は、現地で待っていてくれるのだろう。
 はがきというアナログな方法と、鈍行というわたしたちの世代には耳慣れないレトロな言い回しを使ったところも、いかにも彼らしいと思った。
 俊典は時折、こういう一風変わったやり方で、わたしを楽しませようとすることがある。

 夕暮れ、わたしは俊典の提案に従い、急行ではなく下りの鈍行――普通列車――に乗った。東京駅から目的地までは約三時間。自由気ままな一人旅。
 都心を離れるにしたがって、高層ビルが少しずつ減り、青と緑の占める割合が増えてくる。青は空や川、緑は木々の葉や畑や田んぼの作物のいろだ。
 郷愁を誘う美しいこの光景は、わたしの恋人が命をかけて守り続けたもののひとつ。命を燃やしその身を削り、限界を超えるまでヒーローであり続けていた彼を、わたしはなにより誇りに思う。

 傷だらけになり尚立ち上がるその背を見つめ続けることは、決して楽なことではなかったけれど。

***

 終点を知らせるアナウンスで、目が覚めた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。ひどく美しい夢を見たような気がする。だが、どんな夢であったか思い出せない。水晶でできたプリズムを通した光のような、けっして捕らえられることのない、けれどひどく美しい、そんな夢であったような気がする。

 終着の地は想像していた通り、鄙びた無人駅だった。駅のホームにひとけはなく、改札を出ると、少し先にちいさなバス停が見えた。
 バスを待つ人のためだろう、古ぼけた椅子がひとつ置かれている。都市でよく見かけるバス停のベンチではなく、家庭のダイニングに置かれているような、なんでもない木製の椅子だった。
 風雨にさらされ傷だらけになった椅子。そこに見慣れた長身が座していた。黒のポロシャツにベージュのチノを着た俊典の右腕は、ギブスで固められている。
 気配で気づいたのか、彼が顔を上げ、そしてわたしのほうを見た。改札からバス停まではそれなりの距離があるのに、さすがだなとひそかに思った。

「やあ。時間通りだね」
「よく言うわね、電車の時間に合わせて待ち合わせ時間を決めたくせに。このあたりじゃ電車なんて一時間に一本しかないじゃない」

 のんきに笑う俊典になんとなくいじわるを言いたくなって、そういらえた。
 それはこの三時間ばかり、退屈な一人旅を強いられたせいではない。
 原因は彼自身にある。
 オールマイトが横浜の街で戦闘を繰り広げたのは、つい数日前のこと。あの光景をわたしがどれだけの想いで見ていたか、そこに思い至れぬひとではないはずだ。それなのに。
 すると俊典は少し困ったような顔をして、そして笑った。
 ああほらやっぱり、あなたは全部わかってる。

「で、どうしたの? こんな遠くに呼び出して」
「花火をね、一緒に見ようと思ってさ」

 花火、と呟いたわたしに、そう花火、と俊典がこたえる。
 この小さな漁村では、八月の最終日曜にささやかな花火大会がおこなわれるという。
 花火大会なら東京でもある。もちろん、俊典の住む雄英高校の近くでも。それなのになぜ彼は、こんな小さな鄙びた漁村に、わたしを呼び出したのだろう。

「さあ行こう、もうすぐはじまる」

 わたしの手を取り、俊典は歩き出す。わたしもそれに合わせて、歩を進めた。

 俊典が足を止めたのは、漁船がいくつか停泊している、小さな港湾が一望できる高台の駐車場。
 海のほうへと伸びるコンクリートの防波堤の上で、幾人かの人々が作業をしているのが見えた。おそらくあそこが打ち上げ場所なのだろう。
 駐車場には数台の車が止まり、人々が花火の開始を待っている。それなりの人数がいたが、ほとんどあかりのない港湾であるためか、人々の中で今のオールマイトの姿がまだ定着していないのか――おそらくその両方だろう――俊典をオールマイトだと気づく人はいなかった。

 ひゅるる……という音と共に、一番最初の花火が打ち上げられた。
 小さな漁港の、ささやかな花火大会。それでも花火はきれいだった。黒い海の上に打ち上げられた火薬が、見事に大輪の花を咲かせてゆく。

 花火に見入っているふりをしながら、黙ったまま夜空を見上げる硬質の横顔に視線を移した。
 肉が落ちても尚、彫りの深い顔立ち。いや、肉がないからこそ彫りの深さがより際立つ。すっと伸びた鼻梁とナイフで削いだような頬、秀でた額にしっかりとした眉骨、そして落ち窪んだ眼窩とその奥に潜むスカイブルーの瞳。
 そのときわたしは気がついた。晴れわたった空の色をした瞳からは、未だ光が消えていないと。
 ああ……そうか、と心の中で呟いた。
 このひとの心は、依然として象徴であり続けているのだ。
 ヒーローとして事実上の引退を発表したとしても、たとえ個性が失われたとしても、オールマイトの精神は未だ、平和の象徴。

 最後の一発が打ち上げられた。
 巨大な錦冠菊。大輪の花が開き、金色の花弁が垂れ下がるように尾を引いて、こちらに向かって落ちてくる。
 黄金の花びらは涙のように長く長く流れ、そしてやがて、夜の闇へと溶けていった。

 花火が終わった港から、人々がひとりふたりと去って行く。それでも俊典は場を去ろうとはせず、わたしもそんな彼になにも言わずただ隣に立っていた。

 残炎の砌という、はがきの一文を思い出していたから。

 残炎とはすなわち残暑のことであり、書いて字の如く消え残る炎のことでもある。消え残る……彼のなかの平和の象徴としての心。

 なにも言われなくても、俊典がわたしをここに呼んだ理由がわかったような気がした。だから。

「ごめんとか言わないでよ」

 先手を取って、口を開いた。

 俊典がはっとしたように、こちらに向き直る。
 わたしは静かに微笑んだ。かつてこのひとが血を吐き臓器を失いながら、人々の前で笑っていたように。

「引退しても、まだ、終わらせる気はないんでしょう?」
「……うん」

 俊典の頬に、手を伸ばした。彼は黙って身をかがめる。私に向かって。いつものように。

「自分にできることをしようと思ってるんでしょう?」
「うん……」
「だったらそうすればいいのよ」
「だけど」

 わたしの上に、さらさらと流れて落ちる金色の髪。

「そのかわり、ちゃんと笑っていること。作り笑顔じゃなくてね、あなたが納得して、ちゃんと笑ってくれていること。それだけ約束して。わかった?」

 オールマイトは満身創痍で戦ってきたが、それは誰かに強制されたものではない。彼の生き方を哀しいという人もいる。わたしも以前はそう思っていた。世界を支える世界樹になろうとした彼は、平和に殉じた者であり、象徴という名の人柱であったのではないのかと。
 けれどその考えは、オールマイトという偉大なる存在を愚弄するに近しいことだ。オールマイトは自らの意思によってその身をもって世界を支えることを選択し、確固たる意思によって戦いの場に身を置いてきた。そこには一切の後悔もないだろう。
 だから。

 眼下に広がる黒い海に、漁船の灯りがぽつりと見える。あの船は夜の闇をゆく。港に帰って来るのは深更だろうか、払暁だろうか、それとも早天の頃だろうか。
 いずれにせよ、船はかならず港へ帰る。
 だからわたしは港にならおう。オールマイトの中に消え残る焔が潰えるその日まで。
 背を曲げてわたしを見つめる、彼をそっと抱きしめた。

 ……彼の、オールマイトの残炎は、その命つきるまで潰えることはないであろうと、本当は知っているけれど。

 わたしの頬に落ちてきた金色の前髪を、指先ですくった。
 俊典の髪は、天高く大輪の花を咲かせる錦の菊。尾を引くように落ちてくる、あの大玉の、金色の光。

「いつまでも、待っているから」

 微笑みながらそう告げる。
 と、俊典はほんの一瞬眉を寄せ、そして笑った。冠菊が光露を流しながら咲くように。

2021.9.8
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