ルージュの囁き

こちらは分岐タイプの夢小説になります。
「大人の彼女に可愛い色」「可愛い彼女に大人な色」をテーマに二種類の夢小説を書きました



 いつもと変わらないざわめきと、いつもと変わらないパウダリックな化粧品の香り。いつもと変わらぬ、百貨店のコスメフロア。そこにそのひとはやってきた。金色の髪をひるがえして。

 目を引く男性だ、と思った。

 長めの前髪と、無造作に伸ばされた後ろ髪。でも不潔な感じは一切しない。彫りの深い顔立ちをしている。秀でた額にすらりと伸びた鼻梁、落ち窪んだ眼窩と、その奥で光る青い瞳。四十代 いや五十代だろうか、わたしから見たら年配の、だが雰囲気のある男のひと。

 驚くくらい背が高く、驚くくらい痩せている。まるで、ハロウィンをテーマにしたアニメに出てくる骸骨紳士みたい。
 さりげなく羽織っているトレンチコートの生地は、あのハイブランドを象徴するコットンギャバジン。手元には王冠マークで有名なスイス製のクオーツが光る。ピカピカに磨き立てられた革の靴と、仕立ての良さそうなスーツ。

 かなりの洒落者であることは間違いない。ただひとつ残念なことは、スーツとトレンチの双方が体に合っていないこと。
 スレンダーな体にぴたりと沿うような服を着たら、きっと、もっと素敵だろうに。

 それでも、目前の男性からは独特のオーラがにじみ出ていた。ちょっと素人ではない感じ。俳優だろうか、モデルだろうか、それとも。

「すみません」

 男性が静かに声を上げた。低く落ち着いた、それでいて聞き取りやすい声だった。
 この声、どこかで聞いたことがあるような気がする。いったいどこでだっただろう。

「はい、いらっしゃいませ」

 記憶の中の声の主がわからぬまま、笑顔をつくって、にこやかに対応した。接客業も長くなると、頭の中で考えていることと、外に出る表情がまったく別のものとなる。

「口紅を見せてもらってもいいかな」
「はい。奥様への贈り物ですか?」
「うん。妻とはかなり年が離れているんだけれども、若い彼女に、私はいつも心配ばかりかけているからさ。せめてこれくらいはね」

 ぽつりと、男性が答えた。

 彼がぶかぶかのスーツを着ている理由が、なんとなくわかったような気がした。
 きっと大きな病気をして、一気に痩せてしまったに違いない。それまでは高級そうなスーツのサイズに比例した、立派な体格をしていたのだろう。
 男性は上階にあるジュエリーショップの紙袋を下げていた。世界五大ジュエラーと呼ばれるブランドのひとつだ。おそらく中身は、共に病と闘ってくれた奥様へのプレゼントだろう。

「奥様はどんな色がお好きなんですか?」

 うん、とうなずいて彼は語り始めた。
 奥様の雰囲気、好きな色、よくつけている口紅やアイシャドウの色味、そして驚くべき事にパーソナルカラーまで。
 パートナーに口紅をプレゼントする男性は多くいるが、相手のパーソナルカラーまで把握しているひとはめったにいない。この方は奥様をずいぶん愛していらっしゃるのだなと、素直に感心してしまった。

 お話を伺った上で、いくつかのルージュを出し、スパチュラでとった紅をパレットの上に並べる。男性は神妙な表情でそれらを見つめていたが、やがて長い指でひとつのルージュを手に取った。

「これをひとつ」

 彼が選んだのは意外な色だった。
 それは今年の新色のひとつ。発色も良く、今期最大の推し色だが、今伺った奥様の好みとはまったく逆の色味でもある。これは大きな冒険だ。

 けれど、と内心でひとりごちた。
 お伺いしたパーソナルカラーから考えれば、おそらくしっくりくるはずだ。ただひとつ問題があるとすれば、この色が奥様の好みにあうかどうか、というところ。

 わたしの考えていることを察したのだろう、目前の男性が微笑する。それはどこか懐かしい、人を安心させるような笑い方。

 やっぱり、わたしはこの人の、この笑い方を知っている。

「自分では選ばないような色を、プレゼントしてみたいんだ」
「かしこまりました」

 わたしはそれ以上は何も言わず、静かに頭をさげた。お客さまの選択は絶対である。
 それに、この人ならたぶん大丈夫、とひそかに思った。

 メイクやファッションにこだわりのある女は、他の人間に口出しをされることを嫌うものだけれど、このひとなら、そのあたりも波風立てずにやってのけそうな気がした。
 普通の男ではできないようなことをさらりとこなしてしまいそうな、そんな一種カリスマめいた雰囲気が、目前の男性にはたしかにあった。



 あれから二週間もたつというのに、いまだにあの時の男性のことを思い出すのはなぜだろう。本当に、印象的な男性だった。

 あの口紅を、奥様はつけてくださったのだろうか。

 そう内心で独りごちながら、美容液をお求めくださったお客さまを送り出した、その時。

 再びそのひとが現れた。

 あの日と同じコットンギャバジンのトレンチの裾をひるがえし、彼はこちらに向かってくる。トレンチの裏地は、キャメル時で赤と黒と白で構成された特徴のあるチェック柄。

 あの日とひとつ違っていたのは、隣に若い女性をつれていたことだ。彼のお話どおりの雰囲気の美しいひとを。
 そしてその美しいひとの唇を彩るのは、我がブランドの新色だ。かわいさと大人の色香が同居した、秋の装い。

「とてもお似合い……」

 小さくもらしたこの賛辞が女性のメイクへの言葉であったのか、それとも仲睦まじいおふたりに向けたものなのか、はたまたその両方か、自分でもわからなかったけれど。

 不意に、青い瞳がこちらに気づいた。
 乾いた肌の上に、ゆっくりと浮かんだ微笑。それはやはり、わたしを心から安心させるような笑み。
 わたしはほんの一瞬、その笑みに見とれ、そして次に深々とお辞儀をした。
 しあわせなお二人に幸あれと願いながら。

2021.10.3

ここから先は分岐となります

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