水辺の
トラットリエで

 アイアンのアーチを抜けると、正面には深い水をたたえた外堀が見える。向かって右手にはカフェ、左手にはトラットリエ。
 お堀に沿うように建てられたカフェレストランが、今夜のデートに俊典が選んだ店だった。

 秋の夜だ。水辺に吹く風は爽やかを通り越してやや冷たい。それでも目前の長身痩躯は、迷うことなくテラス席を選び、そして今、静かに笑みながら食事を口元へと運んでいる。

 どうしたの、と俊典がたずねる。少し冷えてきたから、とわたしがいらえる。ああ、と小さく笑って、よければ、と、彼がわたしにストールを手渡す。
 カシミア百パーセントの、軽くて温かいストール。

「用意がいいのね」
「年の功ってやつさ」
「あなたは寒くないの?」
「私はね、意外に丈夫なんだよ」

 低くやさしい声で、俊典が笑う。
 このテラス席を俊典が選んだ理由は、なんとなくわかる。暗い水辺に面したレストランのテラス席は、かぼちゃの形をした可愛いランタンに照らし出されている。今日のこの日にぴったりな、かわいいランタン。
 そして柔らかな黄色い小さなあかりの下でとる食事は、なんだかとてもロマンチックだ。静かでムード溢れる、ハロウィンの夜。

 俊典は今夜、いつもの派手な芥子色のスーツではなく、光沢のある素材の黒のスリーピースを身につけていた。シャツは白、タイとジャケットの裏地は深い赤。俊典は高身長で彫りが深くて手足が長い。だからこういう格好をすると、懐かしの映画に出てくるドラキュラ伯爵のように、見えなくもない。

「本当はマントを羽織ろうかどうしようか迷ったんだけどね。それじゃまるきり仮装してるみたいになっちゃうからさ」

 いかにも、というわかりやすい仮装ではなく、雰囲気だけを楽しむという、大人のする大人の仮装。それが今日のデートのテーマ……であるらしい。

「でもまさか、君も仮装につきあってくれるとは思わなかったよ」

 エビのグリルにナイフを入れながら、俊典が微笑む。仔牛の赤ワイン煮を口に運びながら、わたしも、笑みだけを返した。
 仮装というほどのものでもない。ロング丈のワンピースにハイヒールを合わせただけのファッション。ひとつ今夜にふさわしい小道具があるとすれば、それは靴だ。ヒール部分がヒールカップを掴んでいる手の形になっている、ちょっと独特なデザインの、けれどハロウィンの夜にふさわしいハイヒール。

「特にそのヒール、とてもすてきだ」

 ありがとう、と、顔をあげた。
 お堀の向こう側には、背の高い建物が立ち並んでいる。オフィスビルに、タワーマンション。暗い水の向こうに見えるその灯りの一つ一つに、人々の暮らしが息づいている。そしてその人々の暮らしを守り続けているのが、目の前にいる痩せたひと。

 その時、こほり、と俊典が小さく咳き込んだ。薄い唇の脇から漏れる、一筋の朱。
 失礼、と彼は小さく囁いて、口元の血を拭う。
 世界を支え平和を守り続ける英雄が、実は満身創痍であることを、世間は知らない。

 ひどくせつない気分になって、わたしは口唇をひらいた。今思ったこととは、まったく関係のない言葉を。

「ねえ、例のセリフは言わないの?」
「例の?」
「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ、ってやつ」
「言わないよ。それだと君がお菓子を持っていたら、いたずらできなくなっちゃうからね」

 白身魚にソースをからめながら、俊典がばちりとウインクをした。付け合わせのカブにナイフを入れながら、わたしは続ける。

「そうね、あなたはお菓子があろうとなかろうと、したいことをするし、したくないことはしない」
「おいおい。人聞きが悪いな。私が君の嫌がることをしたことがあったかい?」

 さあ、と微笑んだそのタイミングで、カメリエーレが空になったメインのお皿を下げるために、わたしたちのテーブルに近づいてきた。

「ごめんなさい、食後の飲み物を変更してもいいかしら?」

 わたしのきまぐれな言葉に、俊典が軽く眉を上げた、でも彼はなにも言わない。ランタンのやわらかなあかりの下で、静かに指を組んでいるだけで。

「エスプレッソにグラッパを入れて、カフェ・コレットにしてもらえる? ええ。わたしのぶんだけ」

 かしこまりました、と答えてカメリエーレが空いた皿と共に厨房へと戻っていく。

「冷えたから?」
「そう冷えてきたから」
「カフェ・コレットだけで温まる?」
「そうね、無理かもしれない。秋の夜は長いから」
「それなら、私が一晩中温めていてあげるよ」

 テーブルの上に置かれたわたしの手に、俊典の大きな手が重なる。わたしは特には答えずに、彼の瞳を見つめたまま、微笑んだ。

 カメリエーレがドルチェと食後の飲み物を運んで来た。ドルチェはハロウィンらしくかぼちゃのタルトだ。

 暗く深い水をたたえたお掘、その向こうには背の高いビル。目の前には金色の髪をした、優しくて強くて背の高い恋人。ときおり風に揺れながら、わたしと彼を照らしているのはかぼちゃのランタン。手元には黒く熱い飲み物と、かぼちゃのタルト。

 トリック・オア・トリートも派手な仮装もない、今宵は、そんな静かなハロウィン。

2021.10.31

オールマイトが雄英の教師になる前のおはなしです

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月とうさぎ