最たる愛を君に

 冬将軍の息吹がけやきを揺らして吹き荒ぶ。このあたりはビルが多いから、脂肪のないこの身体にはつらい。だが身を切るような寒風をうけて縮こまる背とはうらはらに、私の心はのびやかだった。
 なぜって、今日はなまえと一緒に暮らして初めて迎えるバレンタインデーだから。

 そうだ、浮かれている。年甲斐もなく。
 たかだかバレンタインに、こんなにうきうきした気持ちになるのはいつぶりだろう。まるでティーンの頃に戻ったみたいだ。

 毎年この時期になると、事務所には山のようにチョコレートが届く。ファンからの心遣いはありがたい。嬉しいと思う。だがそれらのプレゼントと、なまえからの贈り物はまた別だった。

 と、その時、視界の端に小さな春の訪れを見つけ、足を止めた。
 グレイに染まる街の中、花屋のショーケースに並ぶ花々。小さな子どもでも知っている、その花の名はチューリップ。
 ひとくちにチューリップと言っても、その品種はさまざまだ。よく見かける一重のもの、百合のように反り返った花弁をもつもの、花弁の縁がフリルのように波打っているもの。そして幾重にも重なる華やかな花弁をもつもの。
 特に私の気を引いたのは、八重咲きのチューリップだった。重なって咲く花びらが華やかで、根元から縁に向かって薄桃色のグラデーションを描く色合いもかわいらしい。
「あ……」
 瞬間、なまえへの想いを自覚した時のことが脳裏によみがえった。
 あれはあたたかな春の日だった。振り返りながらこちらに向かって微笑んだなまえは、天使のようで。
 あの日私は、この笑顔をずっとずっと見ていたい、と心の底から思ったのだ。

***

「ただいま」

 リビングダイニングの扉を開けたとたんに漂ってきたのは、濃厚なチョコレートの香り。手作りしてくれたのかと思うと、ますます心が浮き立った。

「おかえりなさい」

 こちらを振り仰いで笑うなまえの笑顔は、あの日と同じやわらかさ。

「花束?」
「そう。バレンタインだからね」

 と、こたえて、チューリップとスイートピーの花束をなまえに手渡した。

「日本では女性がチョコレートをくれる日だけれど、アメリカでは男から女性に贈り物をするのがポピュラーなんだよ」
「そうなの?」
「うん」
「嬉しい。ありがとう。八重咲きのチューリップってかわいいのに豪華ね。パステルカラースイートピーとの組み合わせも、春らしくてとてもすてき」
「このチューリップ、君によく似ているよね。華やかなのにかわいらしいところが」

 え、と頬を染めたなまえに微笑みかける。
 こういう初々しい反応が、やっぱりとてもかわいくて。

「アンジェリケって言うんだって。君は私の天使だから、名前もぴったりだ」

 店員が私に教えてくれたのは、花の名前だけではなかった。チューリップには、色や花の本数ごとに花言葉があるという。
 だから私は十一本のアンジェリケを入れてもらった。

「ところで、いいにおいだね。ガトーショコラかい?」
「ええ。今日はバレンタインだから」

 はにかみながら君が視線を投げた先には、ハートのかたちのガトーショコラがひとつ。きれいに粉砂糖が振りかけられて、皿にはベリー系のソースで、これまたハートが描かれて。
 沸き立つ気持ちを抑えつつ、おいしそうだ、と低くささやく。

 男ってのは単純だから、いくつになってもこういうベタな演出に弱いんだ、と言いさして、そしてとどめた。それはほんの少し、違うと思ったから。

 手作りのケーキやベタな演出にこんなにも心が浮き立ってしまうのは、きっと相手が君だからだ。

 君が私の隣で笑っていてくれる。それが嬉しい。
 だからこんなイベントが、楽しくて楽しくてしかたがないんだ。

「ねえ、君は十一本のチューリップの花言葉を知っているかい?」

 いいえと答えた君の頬に手を当てて、同じ高さまでかがみ込んだ。このあとの行為を予測した彼女が、なにも言わずに目を閉じる。

「最愛、だよ」

 低く小さくささやくと、目を閉じたままなまえがうなずく。
 そんな彼女を心の底から愛おしく思いながら、八重咲きの花と同じ色の唇に、キスを落とした。

2019年に書いたバレンタイン小話「カフェモカをあなたに」の過去編



2022.2.13
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