とはいえ、水面に映る明かりだけではどうも心許ない。足下に用意された微かな明かりを頼りに、ウッドデッキの上を進んだ。案内された席に着くと、席に小さなランタンが点される。やわらかに揺れる黄色い光は、どこかやさしい。
都会のただ中にありながら静寂が感じられるこの水辺のオープンカフェは、なまえのお気に入りの場所だった。
***
届けられたブレンドコーヒーを手に、ひとつ大きな息をつく。水辺に吹く秋の夜風が、思いのほか冷たかったから。
先ほどなまえから、約束の時間に少し遅れる、と連絡がきた。
それは仕方のないことだ。それなのに私は自分勝手にも、連絡が来たとき、大きく肩を落としてしまった。
一分一秒でも早く君に会いたい、そう思っていたからだ。
自分でもあきれてしまう。こんな子供じみた感情が自分の中にあるなんて、私は君に出会うまで気がつきもしなかった。平和の象徴とまで言われた男を駄々っ子のようにしてしまうのだから、まったくもって、恋というのは度しがたい。
落ちてくる前髪を軽く上げ、コーヒーをすする。
柔らかな黄色い明かりの下で聞こえてくるのは、さらさらと流れる河の音と、風が木の葉を揺らす音。
馥郁とした香りのする黒くて熱い液体が、苦みを舌に残して喉の奥へと流れてゆく。静かで落ち着いていて、そして少しさみしい秋の夜。
秋というのは実にもの悲しいものだともう一度ため息をついたその瞬間、ウッドデッキの方角に、微かな明かりが見えた気がした。近づいてくるそれは、紛れもなく己の待ち続けたひとで、私は思わず、自分の目元を軽くこすった。
「ごめんね。けっこう待った?」
息を切らしながら、君がたずねる。
「いや。コーヒーを一杯飲むくらいの時間だよ」
私の隣に腰を下ろした君に、微笑みを返しながらそう告げる。
なまえは早速メニューを開き、さんざん迷ったあげく、私と同じブレンドコーヒーを注文した。
「なに? 結局それにしたの?」
「うん。いろいろ迷ったんだけど、俊典さんと同じ物が飲みたくなっちゃったから」
そうか、と応えて微笑むと、なまえが不思議そうに、私の顔をのぞき込んできた。
「なんだい?」
「さっきわたしが来たとき、俊典さん少しびっくりしているみたいだったから、どうしたのかなって思って」
「そうかい? 別に驚くようなことはなかったけどな」
「そんなことない。ぜったいびっくりしてた」
「じゃあきっと、君がかわいすぎたせいじゃないかな」
「また、俊典さんはしれっとそういうことを言う」
照れ笑いする頬を軽くつつくと、なまえはくすぐったそうに微笑んだ。そんなようすに目を細めつつ、あのね――と、心の中で小さくつぶやく。
あのね、どうして驚いたのかは、私の心の中に止めておくよ。ウッドデッキを歩いてくる君の姿が、光り輝いているように見えたんだ。それくらい、私は君が来てくれたのが嬉しかったんだよ。何度も言うが、本当に恋ってものは度しがたいな。いい年をした中年男を、ここまで骨抜きにしちまうんだから。
「お待たせいたしました」
と、給仕が、二つのブレンドコーヒーをテーブルに置いた。音もなく。
熱くて黒い飲み物と私たちの上を、さらさらと風が流れてゆく。さきほどあんなに冷たく感じた秋の夜風が、先ほどよりもずっと温かく感じられ、心の中で苦笑する。
きっとこれも、なまえ、君といるからなんだろう。
待ち人、ここに来たれり。まったく、幸福なことだ。
2022.10.23
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