レッドローズの
香る朝

 きりりとしたつめたい空気の中に、微かな花の香りが漂っている。やや青く、甘やかで華やかなこれは、大好きな花の香りだ。

 そう、これは薔薇。わたしの大好きな、薔薇の花の香り。

 そう内心で呟いて、ぱっと目を開ける。そこでわたしは初めて、自分が朝方の浅い眠りに身を任せていたことに気がついたのだった。

「おはよう。私のお姫様」

 目覚めたばかりの脳に飛び込んできた、歯の浮くような台詞。覚えのある低音に驚いて、身体を起こす。転じた視線の先には、予想の通り、長身痩躯の姿があった。
 どこから手配したのだろう。彼はサービス用のワゴンを押していた。その上には淹れたての紅茶と、赤い薔薇の花束と、そしてプレゼントボックスがひとつ。

「どうしよう……夢みたい」
「ん? どうしたんだい?」
「だって、明日まで帰れないって言ってたのに」

 ヒーローとして実質的な引退を果たしたとて、彼――オールマイトは多忙だ。現場で拳を震えなくとも、別の方法で戦うことはできる。そう言いながら、オールマイトはいつも調査で全国を飛び回っている。
 だから今日も、離れて過ごすことになるだろうと思っていた。それなのに。

「今日は君のお誕生日だからね。なまえのためになにがあっても帰らなきゃ、って思ったのさ」

 ばちりとウインクをして、オールマイトがまた笑う。

「まずはお目覚めの紅茶をどうぞ」

 そういって、彼がわたしに紅茶を差し出した。白いカップに入れられた紅茶は、わたしの好きなお店のブレンドティーだ。
 ありがとう、と受け取って、澄んだゴールデンオレンジのお茶で喉を潤した。渋みの少ない、それでいてコクのある味。

「おいしい」
「それはよかった」

 それからこれは、と続けたオールマイトが、わたしの前に花束とプレゼントボックスを差し出した。もちろん、万事抜かりない平和の象徴様は、わたしが手にしていた飲みかけのカップを受け取ることも忘れない。

「お誕生日おめでとう。開けてみて」

 箱のパッケージに見覚えがある。期間限定品専用のこのパッケージデザインは、発売が決まったときから欲しいと思っていたものだ。

「どうして?」
「私は君のことならなんでもわかるんだよ、プリンセス」

 さあ、と促され、箱を開ける。シンプルなボトルに薔薇色のラベルが美しいそれは、薔薇の香りの香水だった。

「つけてみてもいい?」
「もちろんさ」

 どこにつけるかほんの少しだけ迷い、無難に手首を選んだ。袖をまくってワンプッシュ。瞬間強めにレモンが香り、そのあとを青みを含んだ薔薇がやさしく追いかけてきた。

「……いい香りだね」

 わたしの手首に顔を寄せ、オールマイトがささやいた。

「薔薇だけじゃなく、リーフとシトラスの香りが潜んでいる」

 手の甲に口づけながら、彼は続ける。このひとはいつもこうだ。わたしをどきどきさせるのが、とてもうまい。

「あとは蜂蜜かな? どこか華やかな甘さだ」

 まるでなまえ、君みたいだ。と言い添えて、オールマイトはわたしにウインクをした。

「さてお姫様、このあとは何をご所望ですかな?」

 もったいぶった言葉とは裏腹に、いたずらな声と表情。
 ああもう、と心の中でため息をついた。このひとすっかり楽しんでいる。それを証明するかのように、どぎまぎしているわたしを見おろして、オールマイトは満足そうに口角を上げた。

「朝食とケーキと私、すべて用意してあるけれど、どれにするかひとつ選んで」

 この状況でそんなこと言われて、どれを選ぶかなんて決まりきったことだ。
 ぜんぶわかっているくせに、と、ややうらめしい思いでオールマイトを見上げる。と、彼は青い瞳を軽く細めて、納得したように微笑した。

「私でいいのかい?」

 それには応えず、ぷいと横を向く。すると彼はまた愉快そうに青い目を輝かせ、優しくわたしの頬に手をそえる。

「今日は君のお誕生日だからね、たくさんサービスさせてもらうよ」

 フレッシュな薔薇の香りが漂う中、重ねられた唇。
 彼の言葉に「待って」と返したはずのわたしの声は、アダムの林檎の向こうに消えた。

2023.1.19
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