誘惑

 氷輪を背に、夜空を駆ける。この都市を代表するトラス式のタワーが見えてくれば、なまえの部屋はもうすぐだ。芝公園からほど近い位置にある中層階のマンション、それがなまえの住まい。
 なまえの部屋のベランダに降り立ち、ノックを三回。これが私たちの合図だ。

「さすが、約束の時間ぴったりね」

 カラカラという音と共に掃き出し窓が開かれて、満面の笑みを浮かべたなまえが私を出迎えた。それに「まあね」と応え、ブーツを脱いで室内へ。
 途端、芳しいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。

「いい香りだ」
「深煎りのキリマンジャロにしたの」

 ああ、と私は眉を上げる。今夜の為の選択だ。なぜって、深くローストしたキリマンジャロは、濃厚なショコラととても合うから。

「楽しみだな」

 チョコレート色の髪にキスを落として、微笑んだ。
 キッチンカウンターに視線を移すと、なまえお気に入りのカップが二客スタンバイしているのが見えた。それはイギリスのアンティーク。谷間の霧という名のキャンだ。そしてカッティングボードの上には、太く長い茶色の菓子が。

「……ソシソンだね?」
「あたり。用意するから、手を洗ってきてちょうだい」
「アメリカのママみたいな言い方だね」
「そうよ。手を洗わない悪い子にお菓子はあげないの」
「それは大変だ。ピカピカにしてこなくてはね」

 ふふ、と微笑んだなまえの唇に触れるだけのキスをして、洗面所へ。

***

 部屋に戻ると、サラミという名をつけられたチョコレートはすでに切り分けられ、カップと同シリーズのプレートの上に、行儀良く並べられていた。

「ハッピーバレンタイン。どうぞ召し上がれ」

 なまえの言葉に「ありがとう。いただきます」と応えて、ショコラを一口。

「うん、おいしいね」

 チョコレートにスパイスやナッツ、ドライフルーツをくわえて固めた大人のショコラの断面は、サラミソーセジとよく似ている。

「甘くて濃厚で、少し刺激的な大人の味だ。まるで私たちの仲のようじゃないか」

 私の軽口に、なまえは軽く眉をあげて応え、静かにコーヒーを口元へと運んだ。深煎りコーヒーの黒とグレンミストの白に、華やかなクリムゾンレッドの唇が重なる。
 瞬間、私の奥底で、小さな欲が鎌首をもたげた。

「この美味しいショコラとコーヒーを味わったあと」

 微笑みながら、なまえの白い手を取る。

「君を食べたいんだけど、許可はいただけるかな?」
「残念ね、許可はできない」

 にべもなく、なまえが言った。ほう、と応えて、私は片方の眉を軽く上げる。
 こうも冷たく断られるなんて、珍しいことだ。
 するとなまえが軽く目を細め、妖艶に笑んだ。

「なぜって、今夜はわたしがあなたを食べるからよ」

 あまりのセクシーさに、不覚にもほんの一瞬、反応が遅れた。
 君ってひとは、まったく油断ならないな。よく知っているつもりでいたけれど、まだこんな隠し球も持っていたとは。

「……それは、とても楽しみだ」

 かすれた私の声に笑みを返して、なまえが静かにコーヒーカップを傾ける。黒と白と、そして深紅を重ねながら。

2023.2.14
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月とうさぎ