999+2

 ふっくらとしたつぼみを付け始めた桜の下を、ゆっくりと歩く。ここ数日気温が高い日が続いているので、例年より桜の開花も早そうだ。いつもより早めの春の訪れが嬉しくて、冬のコートではなくトレンチで来てしまったが、今夜は彼の家に泊まることになるだろうから、たぶん問題ないだろう。
 見上げた先には六本木の摩天楼。ビルの隙間からのぞく夜空は春特有の藍色で、そこにぽっかりと浮かんだきんいろのお月様が美しい。

「今夜八時に私の部屋で」

 この連絡が来たのは今朝のこと。これだけ見ればキレてもいいところだろうが、ホワイトデーは空けて置いてねと前々から言われているし、平和の象徴として世を救い続けている彼の多忙さを思えばしかたのないことだ。
 わたしの恋人はナンバーワンヒーロー、オールマイト。

***

「やあ、いらっしゃい」

 八畳はあろうかという玄関ホールで、俊典が微笑んだ。いつ来ても、広い家だなと思う。マイトタワーの正面に位置するタワマンの最上階にある、一番いい部屋だ。四十畳近くある吹き抜けのリビングと、ダイニングとキッチン。マスターベッドルームに、ゲスト用のベッドルームとバスルームが二つ。住人がひとりしかいないのに、トイレにいたっては三つある。
 そんな贅沢な家の広いリビングに通された瞬間、はっと息を飲んだ。吹き抜けのらせん階段の下に、巨大な赤い塊のようなものを見たからだ。

「驚いたかい? ホワイトデーのプレゼントだ。受け取って」

 どうだい、とばかりに胸を張る長身痩躯はそれはそれはかわいいけれど、ちょっとこれはさすがにどうかと思ってしまう。なぜって。
 らせん階段の下にどーんと置かれていたのは、何百本もの赤い薔薇。
 この豪華な家と数百の薔薇との組み合わせはまるで映画のワンシーンのように素敵だけれど、これだけの数の花を持ち帰るのは不可能だ。

「本当は君の家に届けようと思ったんだけど、この数の花だと置き場所に困るかなと思って」
「……お気遣いありがとう」

 本当に、そこに思い至ってもらえて助かった。
 この花の塊――もはや束などと言っていい大きさではない気がする――を、わたしの部屋に置いたら大変なことになるだろう。
 天井が高くて広いこのリビングに置かれているからこそ、こんなにも映えるのだ。

「本当にすごいわね。何本あるの?」
「九百九十九本ある」

 俊典がそっとわたしの肩を抱いた。

「薔薇はね、本数や色で花言葉が変わるんだって」
「九百九十九本だと?」
「何度生まれ変わってもあなたを愛する、だよ」

 乾いた唇が、わたしの額に落とされた。
 悲しいことを、とわたしはとたんに泣きたくなる。
 これがふつうの男性であれば、ロマンチックねと笑えただろう。けれどこのひとは違う。ヒーローは危険と隣り合わせの職業だ。実際俊典も、数年前に命に関わるような怪我を負った。その結果、彼は片方の肺と胃袋を失っている。
 そしてそれを、彼に守られている人々は誰も知らない。平和の象徴が、満身創痍の身体で世界を支えていることを。

「どうしたの?」

 わたしがかわいい女であれば、心の声を飲み込んで、ありがとうと微笑みながら彼に身をあずけるのだろう。けれど残念ながら、わたしは少しばかりかわいげのない女で。

「お花も言葉も、とても嬉しい。けれど生まれ変わることなんか考えないで、まずはいまの人生をわたしとまっとうしてちょうだい」

 俊典の顔をしっかりと見つめて、そう告げた。青い瞳がぐらりと揺らぐ。ほんの、一瞬だけ。
 そして彼は少し決まり悪そうに笑うのだ。いつものように。曖昧に。
 オールマイトは嘘をつかない。だから、かなえられない約束はしない。わたしたちは、すでにそのことを知っている。けれど――。

「どうせなら、ここにある薔薇をふたつ足して」

 わたしはそっと耳元のピアスをはずして、巨大な花器の上に置いた。今日つけてきたのは、偶然にも、中央にダイヤが配されたプラチナ製の薔薇のピアスだった。

「これで、千一本の薔薇」
「千一本? 花言葉は?」

 少し困ったように笑みつつ、俊典がたずねる。

「永遠に、よ」

「…………なるほど、我々もそうありたいね」

 少しの間のあと静かに告げて、俊典がわたしの頬に手を当てた。
 青い瞳に宿るのは、やさしい愛の色。だからわたしも「永遠に愛してる」と瞳で告げる。
 そしてかわいげのない女と嘘をつかない男は、そっと口づけをかわすのだ。永遠を意味する薔薇の花の前で。

2023.3.14
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月とうさぎ