「……こんなところにバーがあったのねぇ」
見逃してしまいそうな、まさに隠れ家のようなバーだった。密やかな看板、控えめなあかり、そしてどこか高級感のある、重厚なオーク材の扉。
今日はいつも通る道を、一本奥に進んだ。それだけでこんなすてきな発見があるのだから、やはりこの街は楽しい。
重たい扉を開けて、中に入った。やや薄暗いが、雰囲気は悪くない。静かで、ゆっくりとお酒が楽しめそうな、本格的なバーだ。
カウンターが空いていたのでその一席に座り、モスコミュールを注文した。モスクワのラバという名の、ウォッカベースのカクテル。その名の由来は「ラバに蹴飛ばされたようにいきなりガツンと効いてくる」からだそうで、レディキラーと呼ばれる、飲みやすいがアルコール度数の高いカクテルのひとつでもある。
やがて、銅のマグがわたしの前に静かに置かれた。そういえば、モスコミュールは、グラスではなく銅のマグカップで供するのが本来の姿だと聞いたことがある。
ラバの絵が描かれた金属のマグは、うっすらと汗をかいていた。中身がきりりと冷えている証拠だ。わたしはちいさく微笑んで――美味しい物を前にするとそうする癖があるからなのだが――銅のマグに唇をつけた。
キンキンに冷えた金属と、きりりと冷えた琥珀色のカクテル。添えられたライムの香りも鮮やかで、ジンジャーエールのぴりりとした辛みと甘さがウォッカのうまさを引き立てている。これはあたりだ。
ところが――。
「あれ、おねえさんひとり?」
向こうのボックス席に座っていたサラリーマンの一人が、わたしに近づきながらそう告げた。
うるさい、と正直思った。女がひとりでこういう店にいると、声をかけてくる人――たいていは中年の男性だ――がたまにいる。女一人で無聊をかこっているように見えるのだろうか。それこそ大きなお世話というものだ。
「ひとりです」
「そりゃさみしいでしょ。よかったらおじさんたちと一緒に飲まない?」
飲まない、と心の中で呟いて、「すみません、お気持ちだけで」と断りを入れた。それでも男は立ち去ろうとせず、わたしの隣に腰をおろした。
こうしたタイプの男は、しつこいだけでなく無下に断ると怒りだすことがあるので、対応が難しい。かといって、見知らぬ無礼な男に、にこやかに対応してやる義理もなかった。
さてどうやって追い払おうか、とモスコミュールを飲みながら算段していると、背後から、低いが優しい声が響いた。
「失礼、そこは私の席なんだ。どいてくれないかな」
声の主は、見上げるほどの大男だった。だが上背はあるものの、体つきは貧相だ。骨格だけはしっかりしているが、肉付きが悪すぎる。胴体は柳のように細長く、手足は枯れ枝のように細い。
酔客も同じように感じたのだろう。痩せたのっぽさんの声を無視し、席をどこうともしない。
すると男性は、もう一度告げた。先ほどよりも、低く毅然とした声で。
「どいてくれないか」
はっとした。落ち窪んだ眼窩の奥にある、青い目に宿った光の強さに驚いたからだ。酔客も同様に感じたようで、気圧されたかのようにごくりと生唾を飲み込み、一拍おいたその次に、慌てて立ち上がった。
酔客が自席に戻ると、件の男性がわたしの隣に腰掛けた。
礼を言うべきか否か、密かに迷った。この大男が安全である保証はひとつもない。体つきは貧相だが、ただ者とは思えない雰囲気がある。たった今ちらりと見せた、眼光ひとつをとっても。
そしてこの男性がなんの下心もないと断言できぬ程度にわたしは年をとっていて、また同時に、若くもあった。
数秒の逡巡ののち、わたしは礼を言うことに決めた。いずれにせよ助けてもらったのは確かなのだ。
「ありがとうございました」
「いや、気にしなくていいよ。私のことは隣にある壁くらいに思ってくれてかまわない。ひとり酒を楽しみたい気分だったんだろう? ゆっくり飲んでくれ」
こちらを見下ろして微笑む青い瞳は、ひどく優しかった。
そして彼はそれ以上わたしに頓着することもなく前を向き、いつものミントを、と注文した。彼は、この店の常連であるようだった。
やがて、彼の前に背の高いグラスが置かれた。限りなく透明に近い液体の中に、ミントがぎっしり詰まっている。ミントジュレップ、いや、モヒートだろうか。
大きな手が、モヒートのグラスを手に取るのを、目の端で眺めた。もう彼はわたしと会話をするつもりはなさそうだった。だからわたしもなにもなかったかのように、しずかにモスコミュールをかたむける。
やや薄暗いキャンドルだけが灯るバーで、隣り合わせただけの、そんな邂逅。
やがて、隣の男性が静かにグラスを置いた。彼の視線がこちらに注がれているのに、わたしは気づいた。いや、正しくは、彼を釘付けにしているのは、わたしではなく手元のマグだ。そして、彼はゆっくりと微笑んだ。
「サラトガクーラーを」
「えっ?」
思わず声を出してしまったわたしに驚いたのか、彼がびくりと大きな身体をこわばらせた。
「……ごめんなさい」
意外だったものだから、という言葉を、わたしはかろうじて飲み込んだ。
サラトガクーラーは、ざっくり言えばモスコミュールからウォッカをのぞいたレシピで作る、ノンアルコールのカクテルだ。けれど誰が何を頼もうと自由だし、それに反応するのは余計なことであり、下品なことに違いなかった。
「いや、いいさ。こうしたバーにひとりで訪れ、ノンアルコールを飲む男は珍しいだろうからね」
彼は笑った。それはどこかで見たことがあるような、太陽のような笑みだった。
「私はね、お酒は飲めないんだけど、バーの雰囲気が好きなんだ。重厚な扉とか、カウンターとか、バーテンダーの後ろに並ぶお酒の瓶とか、キャンドルのやさしいあかりとか、そういうすべてをひっくるめた空気が」
「ええ、わかります」
静かに応えた。確かに、バーというものには魅力がある。この雰囲気は、家では味わうことができない。自宅で照明やカウンターテーブルを工夫してお酒をたしなむことはできるけれど、やはり大きく違うのだ。
だからわたしも、こうしてひとりでも足を運んでしまう。さっきみたいな男に声をかけられるようなわずらわしいことがたまにあっても。わたしはきっと、バーならではの空気感のようなものが好きなのだろう。そして隣の男性も、それは同じで。
「ありがとう」
と、彼はしずかに呟いて、コリンズグラスに満たされたサラトガクーラーを口にはこんだ。グラスのふちにライムが飾られた琥珀色のモクテル……ノンアルコールのカクテルは、見た目は、わたしの飲むモスコミュールとほぼ同じ。
このひとともう少し話がしたい、と、ひそかに思った。なぜだろう、このひとは妙に人を惹きつける。先ほどのサラリーマンはあんなにうっとうしいと思ったくせに、不思議なものだ。
「先ほど飲んでいらしたのも、モクテル?」
「そう。モヒートからラムを抜いてもらっているんだ。甘すぎず爽やかだから、この季節から夏の終わりまで、よく飲む」
そう言って、彼は肉の薄い顔に笑みを浮かべた。
「でも今日は、君が飲んでいるのと同じものを飲みたくなっちゃってさ。それ、モスコミュールだろ?」
「そうです」
「でも私はお酒が飲めないから、本当にラバに蹴っ飛ばされたみたいになっちゃうな、って思って」
「それで、サラトガクーラー」
そう、と彼は笑った。
よかった。彼もそう迷惑ではなさそうだ。
「空だね」
彼がわたしのマグを指して、また笑んだ。
「おかわりを頼むかい?」
「ええ」
そしてわたしは、彼ではなく、バーテンダーに向かって告げる。
「モスコミュールのおかわりをください。悪いけど、二杯目はマグではなく、こちらの彼と同じコリンズグラスで作っていただける? おそろいを楽しみたいの」
バーテンダーは表情一つ変えず、承知いたしました、と応えた。
わたしは片方の眉を軽く上げ、隣に座る彼を見上げる。言いたいことは、伝わっただろうか。
「……大胆だね」
そうかもね、でも、いつもはこんなじゃないのよ、と続けるかどうか迷ってやめた。余計な言葉は、野暮になるだけ。
「名前を教えてくれないか?」
微笑みながら、名前を教える。すると彼は、いい名前だね、と微笑んだ。
「あなたの名前は?」
「俊典だ」
彼の名を知ったタイミングで、目の前にサラトガクーラーとほとんど同じに見える、琥珀色の飲み物が置かれる。背の高いコリンズグラスのふちには、緑のライムが飾られて。
「それでは、君の瞳に乾杯」
「……キザなのね」
大仰なセリフに少し呆れてそう呟くと、俊典は少し恥ずかしそうに笑った。
「失礼、古い映画が好きでね」
「悪くないわ」
同じ見た目のグラスを重ねて、微笑み合った。
おそらくはこのあと、グラスだけでなく身体をも重ねることになるだろうと、予感しながら。
***
「あの時はあなたがオールマイトだなんて、夢にも思わなかったわよ」
都会の真ん中にある隠れ家のようなバーの片隅で、周囲に聞こえぬよう、ごくごく小さな声でささやいた。俊典は空とぼけたふうでしずかに笑んでいる。ヒーロー活動中の笑い方とはずいぶんと違う、落ち着いた笑い方。わたしはもちろん、そのどちらもが大好きで。
「あれから、三年か」
互いの手元にはコリンズグラス。どちらのグラスも、同じ淡い琥珀色の液体で満たされている。グラスのふちには、カットライムが飾られて。
よく似たふたつの飲み物は、ほんの少しだけ中身が違う。わたしのグラスはウォッカが入ったモスコミュール。そして彼はアルコールを含まないサラトガクーラー。
普段この店では、モスコミュールは銅のマグで供される。だが、彼がサラトガクーラーを頼むとき、バーテンダーはなにも言わずに、わたしのカクテルを彼と同じグラスで作ってくれる。
「ほんと、早いものね」
本当に早いものだ。あれから三年も経つなんて。
あの夜、わたしたちは予想した通りグラスだけでなく肉体をも重ね、そしてそのまま恋に落ちた。身体から始まる恋もあるのだと、初めて知った暮春の夜。
「あの日私は、まさにモスクワのラバに蹴られたかのように、君に恋をしたんだよ」
「やあね。せめてモスコミュールを飲んだかのようにって言ってちょうだい」
告げながら、わたしはほんの少しだけ眉を寄せ、次にちいさく微笑んだ。
対する俊典は、ははは、と声を上げ高らかに笑う。それはヒーローの時と似た笑い方だった。
俊典の笑いのツボはわたしとは少し違うので、今のようにちょいちょい戸惑うこともある。彼の笑いはアメリカンジョークに近いときもあれば、日本古来からある駄洒落のときもあり、ほんとうにさまざま。今のはどちらだったのだろう。
「この美味なる飲み物と」
と、俊典がいきなりグラスを掲げたので、慌てて彼にならった。プライベートの平和の象徴様は、意外にもこうした唐突なところがあるのだ。俊典が、満足げに目を細める。
「私たちのこれからに」
乾杯、と言い合って、ふたつのコリンズグラスを合わせた。
吹きゆく風に、うっすらと草葉の香りがただよう。桜はすでに散り、街路を彩るのは淡紅色の花海棠。それは朧月もあでやかな、暮春の夜のことだった。
初出:2022.5.3
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