カフェ・ロワイヤル

 しとしとと、卯の花下しが降る夜だった。時刻は午後十一時を回ったところ。

「私が帰宅した!」

 張りのある低音と共に玄関扉を開けたのは、暗い色のスーツに身を包んだ、私の愛しい長身痩躯。

「おかえりなさい。濡れなかった?」

 そう言いながら出迎えると、彼はやわらかな声で、大丈夫、と微笑んだ。

「それより、すまないね」

 軽く眉を下げた彼、俊典に、いいえ、と静かに応えた。
 今日は付き合い始めて初めて迎える、俊典の誕生日だ。一緒に祝おうという約束を守れなかったことを、きっと気にしているのだろう。
 けれど彼は平和の象徴、オールマイトだ。引退したとはいえ、多忙なのは仕方ない。そもそも彼の帰宅を待っていたわたしより、誕生日だというのにこの時間まで現場を離れられなかった彼の方が、よほどしんどいに違いなかった。
 そんな俊典が、へにゃりと眉を下げて言う。

「なまえ、こんな時間に悪いけど、あとでコーヒーを淹れてくれない?」
「デカフェでいい? お誕生日のケーキもあるけど、それはどうする?」
「もちろん、いただくよ」

 甘さを含んだ低温でそう答えた俊典の瞳は、とても優しい。

「先にお風呂に入る?」
「そうだね。どうだい? 一緒に入るっていうのは」
「わたしもう入っちゃったから、また今度ね」
「それは残念」

 対して残念そうでもない軽やかな笑い声を残して、彼はバスルームへと消えていった。

***

 いつもいい匂いのする俊典だが、お風呂上がりは特にそうだ。いつもの香水と香調は同じだが、今の彼から漂うのはもう少しやわらかで優しいウッディ。彼がアンバサダーを務めているハイブランドの、男性用のサボンの香りだ。

「座って」

 ダイニングカウンターの椅子を引きながらそう告げると、ジェントルな俊典はありがとうと微笑む。彼が座ったのを確認し、わたしはカウンターの向こうに回って灯りを絞った。細くたよりない灯りの下で、ちいさなホールケーキの置かれた白いカウンターが、ぼんやりと光る。

 薄暗い中でコーヒーを淹れる。我が家にはサイフォンとドリップ式など、コーヒーを淹れる器具はいくつかあるけれど、今日はシンプルにハンドドリップに選んだ。

 丁寧に淹れたデカフェのコーヒーを、俊典お気に入りのカップにゆっくりと注ぐ。そこにわたしは、ちいさなスプーンをそっと乗せた。先端が鉤状になった、特殊なスプーンだ。その上には琥珀色の液体に浸された、角砂糖が一つ。

 いい香りだ、と、俊典が微笑んだ。そうね、と応え、わたしはマッチに火をつけて、それをスプーンの上の砂糖に近づける。

 ぽっ、というちいさな音と共に、ブランデーに浸された角砂糖に、青白く暗い炎がともった。

「ますます、いい香りだ」

 漆黒の液体で満たされた螺旋レリーフが特徴的な乳白色のカップの上で、青白い炎が踊る。それは幻想的な美しさだった。

「お誕生日おめでとう」
「ありがとう。ろうそくのかわりだね」

 笑みを湛えて俊典がささやく。青白い炎は、カップの美しさだけでなく、彼の彫りの深い顔立ちをも、同時に際立たせていた。
 炎が燃え尽きたあとのスプーンを、俊典がコーヒーにいれ、そっとかき回した。平和の象徴と謳われる俊典は、こうしたちょっとした仕草すら無駄がなく、美しい。
 そしてわたしたちは、互いに自分のコーヒーを一口飲んで微笑み合う。
 軽く息をついてから、わたしは立ち上がり、灯りをいつもの明るさに戻した。暗がりになれた目にいつもの灯りは眩しくて、ひとつ、ふたつと瞬きをした。対して俊典はというと、さもなんでもないという顔で、カウンターの上のケーキを静かに取り分けてくれている。

「ありがとう。順応、早いのね」
「……昔、そういう訓練もしたからね。明順応だけでなく暗順応も早いよ。慣れるものさ」

 オールマイトはナチュラルボーンヒーローだとよく言われるが、何の努力もなくその言葉をほしいままにしているわけではないのだと、こういう時に気づかされる。この人は象徴になるために、世界を救う柱であるために、どれだけの努力を重ねたのだろうか。

 勝手にあれこれ考えて勝手に苦しくなったこちらの心情に気づいているのかいないのか――おそらくは気づいていて尚知らぬふりをしてくれているのだろうが――俊典が青い瞳でわたしを見つめる。

「それよりさ、君が用意してくれたこのケーキ、とても美味しそうだね。これならこの時間でも、ぺろりと食べられそうだよ」

 生クリームがふんだんに使われているケーキは胃袋のない俊典には重いかと、わたしが選んだのは三号サイズのフルーツタルトだ。ベリーをはじめとするさまざまなフルーツが乗っているから、さっぱり食べられると思ったからだ。
 こういう細かいところまで拾ってくれるのだから、八木俊典というひとは、本当に心憎い。

「プレゼントもあるの」

 と、俊典の瞳と同じ色のリボンがかかった細長い箱を手渡した。中身は彼がよく来ているダークなスーツに合いそうな色味のネクタイだ。

「これはさ、君が私に『首ったけ』ってことだよね」

 俊典は格好よくて立ち居振る舞いもスマートなのに、こういうおじさんくさいことをたまに言う。しかしそれを否定するのもおかしな話なので、肯定の意味で微笑んだ。実際のところ、わたしが彼に夢中であることは間違いないのだから。

「これからも、毎年こうして私の誕生日を祝ってくれるかい?」

 唐突に俊典が呟いた。
 その言葉に潜んだ深い意味を噛みしめて、わたしは静かにうなずく。喜びに心震わせながら。

「わたしでよければ、よろこんで」

 ありがとう、と、彼がわたしの手を取って、薬指に口づけた。

「ここにつける指輪は、明日買いに行こうね」

 うん、とうなずいたわたしの甲にまた唇を落としてから、俊典がブランデーの香りがするコーヒーを口元へと運ぶ。流れるような所作に見惚れながら、わたしはまた、小さく笑んだ。来年も再来年も、それから先もずっとあなたと過ごせるであろう喜びを、深く深く噛みしめながら。

2024.6.10
2024オールマイト誕
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