部屋に通された瞬間、思わず声を漏らした。
高級旅館であることは建物やロビーのしつらえからでもうかがい知れたが、通された客室の作りに驚いた。まず、客室扉の中にある玄関ホールで靴を脱ぎ、廊下を進む。つきあたりの開き戸をあけると十畳ほどの和室がひとつ。床の間にいけられているのは季節の花木だ。中央には掘りごたつと、それを取り巻くように置かれた布張りのソファ。そしてなにより目を引いたのは、和室と窓の間にある客室露天風呂だった。
客室からも豊かな緑を楽しめるようにとの配慮からだろう、和室と浴室の間はガラスで仕切られている。――とはいえ、ブラインドが設えられているのでそれを閉めれば丸見えになることはない……ないはずだ。
せっかくお部屋に露天風呂があるのだから、使用しないという手はないだろう。となると、入浴時にあのブラインドは閉めてもいいのだろうか。いやそれ以前に、一緒に入ろうと言われてしまったらどうしよう。
「なまえ、どうかした?」
案内してくれた仲居さんに心付けを渡して、俊典さんがこちらを振り返る。それに「イイエ……」と片言で答え曖昧な笑みを返した。
ああどうしよう、こういうとき、どんなふうに振る舞えばいいのだろう。なにせ俊典さんとは「そういう仲」になったばかり。お泊まりの旅行ははじめてだ。
彼は大人だから、誰かとこうした高級旅館に泊まることなど、なれっこなのに違いない。チェックインしてから今までのそつのない行動からも、それはわかる。
ガラス張りの露天風呂に張り付いてしまった視線をむりやりはがして、ぐるりと部屋を見渡した。
そう、少し落ち着かなくては。ここで大きく深呼吸、と大きく息を吐いたその時、壁だと思っていた場所が、引き戸であったことに気がついた。もう一つお部屋があるのだろうか。
すすす……と引き戸に近づいて、そっと扉を開いてまたびっくり。
「ワァ…………」
引き戸の向こうは八畳ほどの部屋だった。そこに置いてあるのは、クイーン、いやキングサイズのベッドがふたつ。つまりは寝室というわけで。
「ああ、私、身体中ボルトだらけだからさ、ベッドのほうが楽かなって思って和洋室にしたんだよ」
「はいそうですねそれは確かにその通り」
と、一息に告げて、引き戸を閉めた。
どうしよう、目の前がぐるぐるする。
「……ねえ、なまえ。君さっきから様子が変だけど、もしかして具合でも悪いのかい?」
「イイエ!」
情けないことに、声が裏返ってしまった。もうこれは、いったんひとりになって気持ちを落ち着かせるしかないだろう。俊典さんには申し訳ないけれど。
「あの……俊典さん。いまから大浴場に行ってきてもいい?」
「えっ? もうかい?」
「うん。わたし、温泉には何度も入りたいタイプなの」
「ああ。わかった。じゃあ私も行こうかな」
「俊典さんは運転してきて疲れてるでしょ? 少し休んでからにしたら?」
「ああ……それもそうだね。そうしたら、ゆっくりはいっておいで」
へにゃりと眉を下げて、彼が笑った。
「ありがとう。じゃ、いくね」
大慌てで支度をし、わたしは豪華な客室をあとにした。
***
「ハァ……」
湯船に浸かりながら、大きなため息をついた。
まさかお部屋にガラス張りの露天風呂がついてるなんて思わなかったし、和室の他に寝室があるなんて思わなかったし、なによりあんな大きなベッドがあるなんて思わなかった。
気持ちはずいぶん落ち着いてきたけれど、ついてすぐお茶も飲まずにお風呂に直行したわたしを、きっと俊典さんは訝しく思ったことだろう。いくらいっぱいいっぱいになってしまったとはいえ、あんなふうに部屋を出てきてしまったのは本当によくなかった。
せっかく俊典さんが取ってくれた宿なのに。とても素敵なお部屋だったのに。
「戻ろ……」
お風呂から出て、ふかふかのバスタオルで身体を拭く。さすが四万の病にも効くと言われる効能豊かな温泉だ。なにもつけていないのに、お肌がすべすべなうえにしっとりしている。飲泉もできるようで、お風呂を出た先に、飲泉用の設備がしつらえてあった。飲んだ場合の効能を見ると消化器疾患にも良いとあったので、あとで俊典さんと一緒に飲んでみようと思った。
***
「おかえり」
「お待たせしました」
部屋に戻ると、俊典さんが浴衣でくつろいでいた。彼もお風呂に入ったのだろう。
俊典さんは胃袋や片方の肺がないせいか、普段の顔色はあまりよくない。けれど上質の温泉で血行が良くなったのだろうか。ほんのりと頬が上気している。どこか色っぽくて、ますますどきどきしてしまう。
「お茶でもいれようか」
「あ、わたしが!」
焦ってこたつに寄った拍子に、互いの指先が触れた。慌てて手を引くと、指が湯飲みに触れ、ことりという音と共に倒れた。
ああ、なんという失態。穴があったら入りたい。
そう口の中で呟いて、口を大きくへの字に曲げたその瞬間、俊典さんが困ったような顔をして、長い前髪をかき上げた。
「まいったな」
そう言った俊典さんは、やっぱり困ったように、笑っている。その頬がさっきより赤みを増しているように見えるのは、わたしの気のせいだろうか。
「その……君の浴衣姿があんまり色っぽいものだから、どきどきしてしまった」
「え?」
笑わないでくれよ、と、彼が照れくさそうに眉を下げた。
「こういうの、あんまり慣れてないからさ」
「えっ、だって、あんなにスマートにチェックインしてたのに?」
「あれは大人としてのたしなみ。大切なひととの初めての旅行でする緊張は、また別だよ」
大切なひと、という言葉が嬉しくて、口元が緩んでしまう。
「だから、露天風呂つきの部屋とか、デカいベッドのある別室とか、気合いを入れすぎてしまった。がっついているみたいに感じられたならごめん。そんなつもりはなかったんだ」
「そんな……そんなのぜんぜんっ……。わたしも俊典さんとの初めての旅行と思うとどきどきしちゃって、気持ちを落ち着かせるためにお風呂に行ったの。でも感じ悪かったよね。ごめんなさい」
「なんだ、じゃあお互いおんなじように緊張してたってことか」
「うん」
掘りごたつの上に置かれた大きな手に、そっと自分のそれを重ねる。
「こんな素敵な旅館をとってくれてありがとう。おふろもとても良かったよ」
「どういたしまして。ごはんもきっとおいしいと思うよ」
「たのしみ」
「部屋の露天風呂から望む空もなかなからしいよ。満天の星が見えるんだって。もちろん、ブラインドを下げれば、部屋にいる私から入浴している君は見えないからさ」
そう言いながら照れたように笑う俊典さんは、とても優しい。
「ああ……もう本当にどうしようもなく、このひとのことが大好きだ」と、しみじみ思った。
「俊典さん……」
「ん? なんだい?」
「もしよかったら、ごはんのあと、露天風呂に一緒に入ろ?」
エッ、という言葉と共に吐血しながら、俊典さんが目をむいた。その表情がなんともいえずかわいくて。
心の底から湧き上がる幸福な気持ちを自覚しながら、わたしは口元を拭くためのおしぼりを、そっと彼に差し出した。
2025.3.24
サイト十周年リクエスト企画「オールマイトと温泉旅行に行くお話」
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