切り替えポイントの多い路線あるあるのアナウンスが流れる中で、注意したいけど掴まるところがないんだよ、と内心でつぶやいた。
満員という程でもないが、車内はそれなりに混んでいる。こういう時、身長百五十センチに満たないわたしにとって、低い方のつり革やスタンションポールが空いていないときはつらい。
悔しいことに、隣に立っている男性は、低いほうのつり革をゲットしたにもかかわらず、輪の部分ではなくその上のベルトを掴んでいる。わざわざそんなことをするのなら、お隣の高いつり革につかまってくれると助かるのにな、と、ひそかに思った。
まあ、それも仕方のないことかもしれない。つり革――この場合は高い方――に手が届かないなんて、平均的な身長の男性には想像も出来ないだろうから。
と、そのとき、アナウンスの通り、車両が大きくぐらりと揺れた。
頑張って足を踏ん張ってみたものの、重力には勝てず、ととと、とたたらを踏む。体勢を大きく崩し、まずいと思ったその刹那、背後から伸びてきた大きな手が、わたしをバッグごと支えてくれた。わたしの身体には、まったく触れずに。
そのスマートさに感心しながら、手の主を振り仰ぐ。大きな手の主は、それに見合った長い手足を有した、とても背の高いおじさまだった。
本当に背が高いひとだ。居心地悪そうに背を曲げているけれど、きちんと背筋を伸ばしたら天井に頭がついてしまうんじゃないだろうか。
目が合うと、おじさまはわたしのバッグを支えていた手をさりげなく離し、つり革の上にあるポールを掴んだ。その拍子に、ふわりと白檀とバニラが混じったような深みのある香りが流れてきた。香水だろうか。
いい香り、と思いつつ、「ありがとうございます」と告げると、返ってきたのは「どういたしまして」という、ごくごくありがちな応え。
あれ、と思った。その声に聞き覚えがあったからだ。低い落ち着いた、それでいて優しげな声。
不躾だとはわかっていたが、どうしても確かめたくて、もう一度おじさまを見上げた。
キャップに革ジャン、白Tシャツにカーゴパンツというカジュアルファッションをした彼は、メトロ内にもかかわらず、濃いめのサングラスをかけている。
目元がはっきり見えないけれど、このおじさま、やっぱりどこかで見たような。
いや待って。
このひと、もしかして。
キャップから覗く長めの前髪はきらめく金色。ナイフでそぎ落としたような肉付きの悪い頬。二メートルを超える長身に、棒のように細く、だが長い手足。そしてなにより、サングラスで隠れていない部分のお顔にも見覚えがある。
間違いない。このひと、オールマイトだ。オールマイト……電車乗るんだ。
ひとりプチパニックを起こしつつ、お行儀悪く彼を凝視し続けているわたしに、おじさま……いや、オールマイトは片方の眉を軽く上げ、やれやれといったふうにちいさく息を吐いた。
そして口元に人差し指を当てて、ウインクをひとつ。まるで「ナイショだよ」と言わんばかりの。
心臓に、風穴一発。
さすが、拳一つで天候を変えたと言われる伝説のヒーロー。ウインクひとつだけでもすごい威力だ。
それでもオールマイトに迷惑をかけたくはなくて、うんうん、と必死にうなずき、了承したことを彼に知らせる。
オールマイトが微笑みを返してくれたタイミングで、電車が駅へと到着した。そのまま彼は流れるような動きで降車する。わたしはそれを、何も言えずに見送った。
あんなスマートでかっこいいおじさまが、この世に存在するんだ。
内心でそう独りごち、大きく大きく息をつく。
元ナンバーワンヒーローにすっかりやられてしまったわたしの前で扉が閉まり、メトロはまた、走り出す。
2025.5.27
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