俊典さんのほうが早いなんて珍しい、と思いながら、靴を脱ぎ、大きな革靴の隣に自分のそれを並べ、室内へ。
「ただいま」
「おかえりなまえ」
という、ありがちなやりとりをして、鞄を置いた。
俊典さんがいる部屋にわたしが帰ってきた場合、たいてい彼が近づいてきて、軽いハグやキスをしてくれるのだけれど、今日はそれもない。それどころか、ソファに座ったまま文庫本を読みふけり、顔すらも上げてはくれなかった。
「……俊典さん、なんか怒ってる?」
「いや。怒ってはいないよ」
そう応えた彼の視線は、変わらず本に注がれたままだ。
さすがに軽いいらだちを覚えた。つかつかとソファに歩み寄り、彼の隣に腰を下ろす。俊典さんは軽く身じろぎしたが、やはり視線を合わせてはくれない。
「うそ、怒ってるでしょ」
「嘘じゃないさ。私はオールマイトだ。嘘はつかない」
「家にいるときはオールマイトじゃなくて、八木俊典、でしょ?」
「そうだけど、いずれにせよ、私は嘘をつかないよ」
「じゃあなんで、こっちを見てもくれないの? いつもみたいに笑ってよ」
「……」
「ねえ。怒ってないならなんでそんな感じなの? 教えてよ」
「いやだ」
いやだ、って、その言い方、まるで小さな子どもみたい。
こんな俊典さんはじめてだ。いつもは大人で穏やかで、申し訳ないくらい優しいひとなのに。
「嫌って言われても、このまま空気悪いのわたしも嫌なんだけど。わたしがなにかしでかしたなら、ちゃんと理由を教えてくれない?」
「私が勝手に不快な気分になってるだけだ。話してもろくなことにならないよ」
「……それはわたしがらみのこと?」
「……」
「そうなのね。だって俊典さん、八つ当たりみたいなマネは絶対しないもん」
俊典さんはたしかに嘘をつかない。けれどこうして、本当のことを言ってくれないことがある。
「俊典さん、こういうとき何も言わずに耐えるのが大人の対応だと思ってるでしょう。実際にそういう場合もあるけど、今みたいに不機嫌なのがダダ漏れになっちゃってる時は、ちゃんと理由を教えてもらえないと、こっちも対応のしようがないんだよ」
「じゃあ言わせてもらうけどさ」
と、俊典さんが顔を上げた瞬間、場の雰囲気が一変した。空気がぴりぴりと震えている。こちらをまっすぐに見据える落ちくぼんだ眼窩の奥で光る青い瞳は、常とは異なる輝き帯びていた。
いつもの穏やかな俊典さんとは別人みたいだ。
かつてのナンバーワンヒーローの片鱗を垣間見てしまったような気がして、正直気圧された。俊典さんが無表情のまま、わたしの手首を取った。ただそれだけなのに、動くことができない。
「今日の昼、会社近くのカフェで仲よさげに話していた男、誰だい?」
「へっ?」
たしかに覚えがある。
今日のお昼は確かにカフェでランチを食べた。彼は大学時代の友人で、東京に出ていたが、最近になってこちらに戻ってきたらしい。せっかくなのでと、待ち合わせて一緒にお昼を食べたのだ。だが、それだけだ。
「……彼は学生時代の友人だけど」
「へえ。それにしちゃずいぶん仲よさそうだったじゃないか」
わたしの手首を掴んでいた手を離して、俊典さんが背を向ける。
意外な気分で、長い手足をもてあますようにそっぽをむいている俊典さんを、じっと見つめた。
ええと、もしかして、これは……いわゆるひとつのアレというものですか。
「あのさ、誤解してるみたいだけど、二人でランチしたわけじゃないよ。少し遅れて、もう一人来たんだから」
続けて、俊典さんも何度か会ったことのある友人の名を告げる。と、彼の周囲に漂っていた剣呑な空気が瞬時に和らいだ。
「もしかして、俊典さん、ヤキモチやいてた?」
きまり悪そうに、俊典さんが口をへの字に曲げた。
「ああそうさ、だから言いたくなかったんだ。そうだよ。年甲斐もなくヤキモチをやいているよ。こんなオジサンなんかより、同じくらいの年齢の男の方がいいんじゃないかってね」
「ええ……そんなわけないじゃん。わたしが好きなのは俊典さんだけだよ」
俊典さんは、オールマイトという誰もが知りうるヒーローで、スーパースターで、拳一つで天候を変えたこともある伝説の英雄で、オール・フォー・ワンの脅威から世界を守り続けた一柱で……その存在はある意味神にも等しいというのに、こんなどこにでもいる一般人の女に、こんなヤキモチをやくなんて。
あまりのことにあぜんとしていると、こちらの想いをくみ取ったのか、俊典さんが口を開いた。
「私にとって君はね、それだけ特別な存在ってことだよ」
こちらに背を向けるようにしてぽつりと告げた俊典さんの、骨張っていごつごつした腰に、そっと手を回した。
「さっきも言ったけど……わたしが好きなのは俊典さんだけ。俊典さんが一番だよ」
痩せているけれど、二メートルを超える身体を支える骨格はしっかりしている。薄いけれど広いその背中に、わたしは自分の額をつけた。
俊典さんは背が高いから、互いに座っているというのに、私の額は彼の肩には届かない。
「うん……。すまなかった」
「それだけ?」
からかうように見上げると、ばつ悪そうに眉を下げた彼の視線とぶつかった。
「わたしは俊典さんが一番好きってちゃんと言ったのになあ」
「……私が世界で一番好きなのはなまえだよ」
「うん」
「誠心誠意、君だけだ」
「うんうん」
「愛してるって言葉じゃたりないくらいだ」
「もういっちょ」
「……ねえ、このやりとりもしかしてずっと続く?」
「まあねえ……さっきの俊典さんかなり怖かったし」
「うん。あれは本当に悪かった。焼き餅は遠火で焼けって言うけど、本当だな」
と、彼は申し訳なさげに頭を下げた。
「じゃあ、次で最後」
にっこり笑ってそう告げる。と、俊典さんは軽く片方の眉を上げてから、ちいさくひとつ、咳払いをした。
「なまえ、君がいてくれるから、この世界は美しい。なまえのいない世界なんてもう考えられない。……いい年してヤキモチを焼いちゃうようなダメなオジサンだけど、これからもずっと私のそばにいてくれるかい?」
「俊典さんはダメでもなければオジサンでもないでしょ」
「年齢的にはオジサンだよ。で、答えは?」
「もちろん! 俊典さんこそ、ずっとわたしの隣にいてね」
言い終えたと同時に長い腕が伸びてきて、やさしく抱きすくめられた。彼の腕は長いから、わたしの全身など簡単に包まれてしまう。それがとっても嬉しくて「だーいすき」と告げながら骨張った腰をもう一度抱きしめかえすと、「私もだ」という甘く低い声と共に、優しいくちづけが降りてきた。
初出:2025.6.26
サイト十周年リクエスト企画「オールマイトにヤキモチをやかれるお話」
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