幸福の王 後編

 わたしはその光景を、職場のモニターを通して見ていた。声もなく、ただ立ち尽くしたままで。

 横浜の街は、壊滅的なダメージを受けていた。
 全能と巨悪の激突による衝撃に耐えかね、崩れたコンクリートの建物、爆風に煽られ四散したガラス。関東有数の都市とは思えぬ、その惨状。
 強者たちの争いに終止符を打った最後の一撃は、都市の大地に宇宙からの火球が激突したかのごとき巨大な穴を穿った。

 その中心で、ギリシャ神話の英雄の如く起つひとの名はオールマイト。 
 勝利を誇示する咆哮をあげるでもなく、ゆっくりと静かに空に向かって突き出された血まみれの拳。
 怒涛のように湧き上がる、彼を呼ぶ歓声。
 限界を超え、すべてを使い果たした青い瞳は、この時なにをみつめていたのだろうか。

 人々は、そこに古代の英雄をみただろう。
 平和の象徴という伝説が、全能という生ける神話になったその瞬間をみただろう。
 けれどあれは、全身を自らの血で染め上げそれでも笑うあの英雄は、わたしのだいじな幸福の王だ。
 無言のままに拳を掲げて完全なる勝利を示すその姿が、鉛の心臓が砕けた瞬間の幸福の王子の姿と重なる。
 悟ってしまった。一つの時代が、ここに終わりを告げたことを。
 
 勝利のスタンディングからどれくらいの時間が流れたのか。わたしにはとても長く感じられたが、もしかしたらほんの数分だったかもしれない。

 モニターは街の惨状を流し続けている。
 がれきを撤去するたびに巻き起こる砂塵。すすめられていく救助活動。街が受けた被害は膨大だった。負傷者の数もかなりのものになるだろう。
 
 カメラが切り替わり、主犯が移動労に収監される姿が映し出される。オールマイトの活躍により、巨悪はとらえられたのだ。そう思い人々が安心し息をつく中、オールマイトがこう告げた。

――次は、君だ――

 犯罪者たちへの警鐘ともとれる、その言葉。
 だが、きっとこれは、次世代を担う誰かに向けたメッセージだ。

 あの夜、オールマイトは帰ってくるよと言ったあと、こう続けた。
「弟子がいるんだ……彼のためにも、君のためにも、私は必ず戻ってくる」と。
 今のメッセージはきっと、その弟子に向けられたものだろう。どこの誰かは知らないが、きっとそのひとは、オールマイトの意思を継ぐ者。次世代の、平和と正義の象徴だ。

 この時、初めて涙がこぼれた。
 わたしの幸福の王は、やっと、重い荷物の一部を下ろしたのだ。

 思わず嗚咽の声を漏らしてしまったそのとき、ぽん、とわたしの肩に手が置かれた。いつのまにきていたのだろう。ミッドナイトがわたしのうしろに立っていた。

「あんたはいつもみたいに柔らかく笑って、あの人を迎えてあげなさい」

 教師としても女としても先輩にあたる美しい人の言葉に、はいと頷く。

 我が国のヒーロー史に残る一日は、こうして終わった。

***
 
 真夏の太陽がじりじりと肌を焼く。
 わたしは白い花を中心としたこぶりのアレンジメントを手に、日光を遮ることができない交差点を渡っていた。額にじわりと汗がにじむ。

 日傘を持ってくればよかったなと思った時に、あれ、と思った。
 どうしてだろうか。都会の真ん中にいるというのに、なぜかこの近辺は森林の匂いがする。すがすがしいような、生命力を感じさせるような、そんな香りだ。

 交差点を渡りきり、広い歩道を歩きながらわたしはひとり苦笑した。森林の香りは、自らが無意識に発していたコウヤマキであることに気がついたからだ。
 コウヤマキの効能はリラックスとリフレッシュ。
 どうやらわたしは、大変緊張しているらしい。
 
 帰ってくるとは言ったけれど、そのあとのことをあのひとは何一つ約束しなかった。
 このままわたしとの関係を続けるのか。それとも、決戦前夜限りの泡沫で終わらせるつもりなのか。

 オールマイトとの恋愛を成就させようとするのは、大蛤の吐き出した息の上に立つ楼閣に昇ろうとするようなものなのかもしれない。
 どんなにあがいても、楼にたどり着くことができない。近づけたと思うと消え去る楼は、また遥か遠くに姿を現す。この恋の名は蜃気楼。

 本当は、諦めたほうがいいのだろう。わかっている。事件から一夜あけても、オールマイトからはなんの連絡もなかった。それが意味することがわからないほど、子供ではないつもりだ。
 だけど、このまま身を引くことはできない。

 オールマイトの入院先は極秘にされていた。だから、本当だったら、わたしはオールマイトの入院先を知る事すらもできなかったはずだ。
 怪我を負ったオールマイトをヴィランが狙う可能性は0ではない。またマスコミが押し寄せても各位に迷惑がかかるだろう。 
 オールマイトの入院先を教えてくれたのは根津校長だ。せっかくもらったこの機会を、逃す手はない。
 この際は、後ろ髪のない運命の女神の前髪をつかんで、こちらに引き倒すくらいの強引さを持ちたかった。
 オールマイトの前髪をひっつかんで、タクシーの中に引きずり込んだあの時のように。

 病院の大きな自動ドアをくぐったとたん、ひやりとした空気に包まれた。
 適度な温度の空調。すっと汗がひいてゆく。けれど手のひらの上だけは、ベタベタとしたいやな汗の感触が残っていた。
 
 緊張しても仕方ないのにと息をついたその時、向かって左手にあるエスカレーターから、見知った長身が下りてくるのに気がついた。
 がっちりした体格のいい男性だ。わたしは彼を、何度か見かけたことがある。
 警察官で、オールマイトが親しくしているひとだ。名前はなんと言ったろうか。そうだ、塚内、塚内さんだ。

 塚内はひとりではなかった。一緒にいるのは小柄な老爺だった。目の奥の強い光と年齢に見合わぬ身のこなし。老爺はおそらく同業者だろう。
 神野区でのあの戦いで、オールマイトのサポートをしていた小柄なヒーローがいた。きっとあれはこの人だ、直感的にそう思った。
 ふたりとも、シアトルスタイルのカフェのカップを手にしている。
 オールマイトを見舞った後、二階のカフェでドリンクを買ったのだろう。

 向こうも、こちらに気がついたようすだった。
 一拍おいて、塚内が私に向かって手を挙げる。一度会議の場で挨拶をしただけなのに、よく覚えていてくれたなと、妙なところで感心してしまった。

「やあ、マドンナリリー」
「塚内さん、こんにちは」

 老爺がわたしを見上げて、けげんそうな顔をする。

「誰だ?」
「ああ、グラントリノさん。このひとはオールマイトの彼女ですよ」
「ほう。あの正義バカにも久しぶりに春が来たか」

 グラントリノと呼ばれた老爺は、わたしを見上げて嬉しそうに笑った。

「お嬢さん。あんな堅物だが、よろしく頼む」
「いえ、わたしとオールマイトさんはそんな関係じゃ……」

 まだはっきりしないのに、誤解を与えてはいけない、わたしは慌てて手を振った。そこにかぶさってきたのは、塚内の愉快そうな声。

「なんだ、オールマイトのやつ、まだしどもどやってたのか」
「はい?」
「私とプライベートで会っていても、オールマイトが話すのはあなたのことばかりです」

 わたしのことばかり? あのひとが?

 あまりに意外だったので、わたしはぽかんと口を開けた。その顔を見た塚内がくすくすと笑う。

「彼はね、あなたの前では自分の感情を抑えているだけだと思いますよ」
「そうでしょうか……」

 ぽろりと本音がこぼれ出た。グラントリノが腕組みしながら、ふむふむと言いながらふたたびわたしを見上げた。

「……お嬢さん。アンタ、オールマイトとどこまでいっとる?」
「は? え? あの……ええ?」

 どこまでって、性的な意味で聞かれているのだろうか……初対面の相手にそんなことを聞かれたのは初めてだ。
 おそらく今、わたしは赤面していることだろう。異常なまでに顔が熱い。
 塚内も驚いたのか、汗を拭きだしながら両手をわたわたと動かした。

「ちょ……グラントトリノさん。今どきそういう発言はセクハラになりますから」
「そっちの意味じゃないわ! どこまで知ってる仲なのか、って聞きたかっただけだ」

 本当だろうか……ちょっと怪しい。

「だが今のお嬢さんの反応で、いろんなことがわかった。オールマイトはあれで慎重なところがあってな。懐をひらいているように見えて、なかなか自分の領域に人を入れようとはしない。だが、あんたはそこに入ったな?」
「たぶん……わたしの勘違いでなければ……」
「だったら自信を持つといい。その上でお嬢さんに頼みがある」
「はい」
「どうかあいつを、俺の大事な弟子を支えてやってくれ」

 グラントリノは小柄な体をかがめて頭を下げた。

「そ……そんな……どうか頭をおあげになってください」
「ん、じゃあ頼んだぜ」

 ひょいと頭をあげて、グラントリノがにかりと笑う。
 いや、そんないい笑顔で頼まれましても、と応えようとしてわたしは口をつぐんだ。
 笑んでいるグラントリノの目の奥に、強い光を見たからだ。それは、弟子の身を案ずる師匠の目。
 これに応えなければ、マドンナリリーの名が廃る。

「はい。頑張ります」
 
 わたしのいらえに、塚内とグラントリノが満足そうな笑みをみせた。

 大それたことを言ってしまった。けれどわたしはそのためにここに来たのだ。
 蜃気楼のようだったあの人との関係を、現実のものにするために。そして愛しい幸福の王が、溶鉱炉に沈むことなどないように。

 ふたりの男性と別れ、わたしはエレベーターに乗り込んだ。

***

 オールマイトの病室は最上階にあった。
 またしても森林の香りを放ち始めた自分に苦笑しながら、わたしは病室の扉をたたいた。どうぞ、とのいらえがあったので、そっと扉を開ける。

「梨香……」
「ごめんなさい。来ちゃいました」
「どうしてここが?」
「校長先生が教えてくれました」

 まったくあのひとは、と諦めるようにオールマイトが笑った。座るよう促されたので、ベッドの脇の椅子に腰かける。

「これ、お見舞いです。飾らせていただいてもいいですか」
「ああ、綺麗だね。ありがとう」

 病室には強い夕日が差し込んでいた。夏の日差しは強いのに、ブラインドも閉めずこの人はなにを見ていたのだろう。
 見舞いに向かない強い香りの花を飾るついでに、窓の外を見おろした。ああ、とわたしは息をつく。視界に飛び込んできたのは、病院前の大通りを行きかう人の群れ。
 きっとこの人は、自分が守った人々を眺めていたのだ。
 オールマイト、全能の名を持つ悲しい英雄。けれどわたしは、あなたがとても誇らしい。なのにどうして、あなたはそんな悲しげな顔でうつむいているのだろう。

「私は、もう戦えなくなってしまった」

 ぽつりと漏らされた低音は、とても弱々しいものだった。

「死んだんだ……」
「はい?」
「平和の象徴は死んだんだ。私はもう、オールマイトじゃない」

 あいつを支えてやってくれ、と言ったグラントリノ声が蘇る。あれはこういうことだったのだ。
 オールマイトはただ、悲しそうだった。
 もちろん、オールマイトも自分の役目がまだ終わっていないことを知っているだろう。この人はそのために、あの熾烈な戦いの中、限界を超えて勝利を収めたのだ。
 けれど後進を育てるという目標とはまた別のところで、自分の力が潰えてしまったことに対する絶望は、想像するに余りある。

「だから、私は君とは……」
「おかしなことを言いますね。あなたは戦えなくなってもオールマイトでしょう? あなたは一時代を築いたヒーロー界のかみさまですよ」

 必死でオールマイトの言葉を遮った。君とは、の続きを言わせたくはなかった。

「でもね、わたしが好きになったのはかみさまじゃないんです」
「梨香?」
「わたしが好きになったのは、体温を持ったひとりの男のひとです。そのひとがヒーローであるかどうかなんて、わたしには関係ありません」

 限りなく白に近いごく淡い緑色の壁を見つめながら、わたしは息を吸いこんだ。かすかに花の香りがする。わたしがここに持ち込んだ、白い花の香りだ。

「君を犠牲にするわけにはいかない。私はね、そういうところを治してほしいと思っていたから、君の気持ちに応えようとしなかったんだよ」
「そうですか。でもわたし、ずっとこうして生きてきたから、どこからどこまでが自己犠牲なのか皆目見当もつかないんです」
「ばかなことを」
「ええ、わたしばかなんです」

 そう言ってにっこり笑うと、オールマイトが心の底から困ったような顔をした。

「だから、あなたが叱ってください。わたしが自己犠牲の精神を発揮していると思った時には」
「梨香」
「それにわたしは自己犠牲の女ですから、ここで手を離したりしたら、また別の悪い男にひっかかってしまいます。騙されても気づかぬふりして尽くし続けて、深みにはまってしまうんじゃないかな」
「それは脅しか? 性質が悪いぞ」
「あなたの優しさも、同じくらい性質が悪いですよ」

 身に覚えがあるのだろう、オールマイトがぐぅ、と妙な声を上げた。

「君に、つらい思いをさせる」
「このまま離れる方が、ずっとつらいと思います」
「きっと君を泣かせる」
「今突き放されたら、もっと泣きます」

 本当にこのひとは……人のことばかり考える幸福の王。これ以上話しても時間の無駄だ。
 わたしは椅子から立ち上がって、ベッドのふちに腰掛けた。ベッド上にいた長身痩躯が、怯んだように体をずらした。

「はい」

 ベッドの縁に座ったまま、わたしは微笑みながら腕を広げた。それを見たオールマイト――八木俊典の顔が大きく歪む。

「長い間、お疲れ様でした」
「……っ……君は本当に……」

 いいから。いつまでも意地を張っていないで、たまには誰かに甘えなさい。わたしにあなたを包ませて。

「梨香。私ね、まだ君に伝えていないことがあるんだよ」
「でしょうね。かまいませんよ。おいおい教えてくだされば」

 あばらの浮いた胸元。
 折れそうに細い腕。
 あの逞しかった肉体がここまで衰えたのは、胃袋がなくなったせいだけではないだろう。
 胃を全摘して、普通に生活しているひとはざらにいる。だからこのひとには、きっと秘密がまだまだある。
 けれどそれでもかまわない。抱える秘密ごと、私はこのひとを受け止めよう。
 共に戦えなかったけれど、隣に立つことは最後までできなかったけれど、この薄い身体を癒すことだけは、わたしにもできる。

「俊典さん、どうぞ」

 オールマイトは逡巡するかのように下を向いてから、やがて顔をあげた。その眼に宿っているのは、消えるはずのない強い光だ。

「で、どうします?」
「そりゃ、決まってるだろ」

 抱きしめようと広げていた腕ごと、大きな身体に閉じ込められた。耳元で、かすれた低音がそっと囁く。

「生涯かけて、私を癒して」

 オールマイトの青い瞳に映っているのは、半泣きのわたしの顔。大きな左手がわたしの頬を愛おしそうに撫でた後、やさしい唇が下りてきた。

 立ちのぼりはじめたイランイランの香りのなかに、かすかに百合の芳香が混じる。それはわたしがこの病室に持ち込んだ花が放つもの。

 甘いけれど涼やかな芳香を放つ、その花の名はマドンナリリー。
 聖母を象徴する百合だ。

2016.6.29
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月とうさぎ