目前に、眼元に深い影をおとした彫りの深い面ざしがある。このひとと朝を迎えるのは三度目だ。だが今回は、今までとは状況が大きく異なっている。
わたしは昨夜、このひとに幾度も愛撫され、貫かれ、別世界へと連れていかれた。
高校時代のアルバムを見ていた時、いきなり唇を奪われた。
そのまま膝の上にのせられて、口づけながら体中のあらゆるところに触れられた。どのタイミングで衣服を脱がされたのかも覚えていない。
どれくらいそうしていただろうか。与えられる快楽にわたしが自らの体を支えていられなくなった頃、オールマイトがわたしを抱き上げベッド上へと移動した。
そこで経験したのは、今までに得たことのない悦びだった。
潮流に翻弄される流木のように、浮いては沈み、沈んではまた浮く、その繰り返し。快楽の渦のさなかで、幾度も耳孔に注ぎ込まれたわたしの名。あの低音を思い出すだけで背中に甘いしびれがはしる。
情熱の一夜を思い出し、ひとり頬を染めていると、隣で眠っていたオールマイトが目を覚ました。
「おはようございます」
そうあいさつした瞬間、オールマイトが非常に気まずそうな顔をした。それは瞬きするくらいの、ほんの一瞬の出来事。
ゆらぐ視線、青ざめた頬、硬く引き結ばれた口唇。
オールマイトはすぐにいつもの笑顔に戻ったが、この刹那の出来事にわたしはすべてを悟ってしまった。
おそらく、欲に流されてしまったことをオールマイトは後悔している。
オールマイトはわたしに好意を抱いてくれている。それはわたしの勘違いではないだろう。
けれど、わたしは未だにオールマイトの年齢や本名を知らされていない。それがどういうことなのか、そこをもう少し考えてみるべきだった。
オールマイトはきっと、誰とも深い仲になる気はない。そもそも、一度言われていたではないか。
君と恋愛関係になる気はないと。
君の気持ちを利用して自分の欲を満たすような、卑怯者にはなりたくないと。
だからきっと、こういう形でわたしと一夜を過ごしてしまった事は、オールマイトにとって不本意であるに違いなかった。
「オールマイトさん、そろそろ支度しないと……お互い遅刻してしまいます」
「そうだね……いや……でもその前に、ちゃんと話さないといけないな」
オールマイトは笑んでいる。困惑したような、思いつめたような雰囲気をまとったまま。
わたしはこのひとの、こんな笑顔を見たかったわけではなかった。
「昨日は少し強引だったね」
「いいえ」
オールマイトの声が掠れているのは、たぶん昨夜の情熱の名残ではない。
ここで謝られたらつらいなと思いかけ、わたしは心の中でかぶりを振った。きっとこのひとは謝罪なんてしない。そのかわり自分の行動に対して責任を取ろうとする、そんな気がした。
だから、オールマイトが何を言おうとしているのか、なんとなくわかってしまった。
「あのさ、順序が逆になってしまったけれど」
ずっと言われたいと思っていた。
ずっとそうなったらいいと思っていた。だけど、この先を言わせてはいけない。
「これをきっかけに、私と……」
わたしは人差し指でオールマイトの唇を押さえ、首を振った。
「つき合おうとか言うのはやめてくださいね」
つきまとってごめんなさい。
そんなつらそうな顔をさせてごめんなさい。
本意ではない言葉を言わせるようなことになって、ごめんなさい。
「お互い大人なんですし、こういった間違いが起きることもあります」
「だけど、君はそういうタイプの女性じゃないだろう?」
「オールマイトさんは、前にわたしと恋愛関係になる気はないっておっしゃいましたよね」
「……言ったね」
「わ…わたしもそうです。オールマイトさんのことは好きですし、追いかけてはいたいですけど、恋人としてつき合えるかと言われると、ちょっと無理かなって思うんです」
「無理か」
「……奥さんにお会いした夜をきっかけに、徐々にそう思うようになったというか……」
元妻の名を出した瞬間、オールマイトの表情がこわばった。
なにがマドンナリリーだ。笑わせる。
癒すどころか、わたしはこのひとに自分の気持ちを押し付けていただけだ。
どうしてこんなことになる前に気がつかなかったのだろう。
「そうか……」
「そうです」
わたしはこのひとの癒しになれるなら、それだけで幸せだ。心からそう思っていた。だからこそ、重荷になるのは嫌だった。
「じゃあ、こういうことになってしまった以上、施術をお願いするのも、こうして会うのも、もうやめたほうがいいね」
オールマイトが静かに言った。
その声に悲しげな響きが含まれているような気がして、わたしは少し驚いた。そんなわけはないのに。そうきこえさせたのは、きっとわたしの願望によるものだろう。
男の欲が度し難いなら、女の欲も度し難い。
そしてこの朝を最後に、オールマイトとわたしは、学校以外の場での関わりを絶った。
***
芝生が敷き詰められた校舎裏の一角で、わたしはひとり佇んでいた。
昔から、悲しいことや嫌なことがあるといつもここに来る。ここからのぞむ夕日は、とても綺麗だから。
沈みゆく赤々とした夏の太陽を見ながら、あきらめきれないひとを想った。
あのひとは相変わらずだ。血をはき、臓器を失いながらそれでも敵と対峙する。
オールマイトを見ていると、幸福の王子を思い出す。
幸福の王子は、自我を持った王子像が、苦しむ民衆のために自分の体の一部を分け与えていく物語。オスカー・ワイルドの手による童話だ。
マドンナリリーと同じ自己犠牲の物語であるのに、神様の元で王子はつばめと共に暮らすという幸せな結びであるのに、わたしはこのお話が大嫌いだった。
宝物を失った王子が溶鉱炉に投げ込まれる場面が衝撃的だった。
王子の足元で息絶えたつばめを思うと切なかった。
個性を使って人を癒そうとしたマドンナリリーと異なり、己の身を犠牲に人々を救おうとする王子の姿が、ただひたすらに悲しかった。
平和の象徴、正義の象徴。
民衆によって祭り上げられ偶像化された英雄は、それを知りつつ、自らの身を削り、柱となって人々を救う。
オールマイトは幸福の王だ。
サファイアの瞳も剣のルビーも黄金の肌も失ってそれでも人々を憂う王子の姿と、満身創痍の英雄の姿が重なる。
わたしは思わず、大きな溜息を落とした。
「ずいぶんデカいため息だな」
背後からかけられた声に、口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。振り返った先にいたのは、二つ年上の先輩教師。
「……相澤先輩」
「あのひととはうまくやってるか?」
主語がないが、誰の話をしているかすぐにわかった。
「もう、会っていません」
「いつからだ?」
「六月の半ばからだから、もうひと月になりますね」
「……そっちに転んだのか……ヘタレめ……」
西にわずかな朱を残した濃紺の空の下で、相澤がぽつりとつぶやいた。
「はい?」
「何でもない。まあ、気を落とすな」
「先輩」
「なんだ?」
「今、ここで泣いてもいいでしょうか」
「好きにしろ。おまえはそのためにここに来たんだろ?」
冗談のつもりの言葉にするどいカウンターを入れられ、あやうく涙をこぼすところだった。
わたしがどんなときにこの場所に来るのか、付き合いの長い相澤は知っている。ではこのひとは、わたしを励ますためにここに来てくれたのだろうか。
「わたし、先輩を好きになればよかったです。そうしたらきっと、まともな恋愛ができたでしょうに」
「おまえ、俺にも選ぶ権利があるってことを忘れんなよ」
「ですよねー」
わたしが今まで相澤を男性として見ることができなかったのと同じように、相澤もきっと、わたしを女性としては見られないことだろう。
互いを異性として見てこなかったからこそ、この心地よい関係を長年保っていられたのだ。彼は尊敬できる先輩で、わたしはただの後輩。それでいい。
「ところで先輩の方はどうなんです?」
「さあな」
相澤は言葉を濁した。
このひとは近しい相手をとても大事にする。
合理性に欠ける、浮気という行為に及ぶこともないだろう。相澤に恋人がいたとしたら、そのひとはきっと幸せであるに違いない。
「林間合宿が終わったら、先輩も一息つけますね」
「だといいがな。今年のガキどもは問題児ばかりだ」
もう、嘘ばっかり。生徒たちが可愛くて仕方がないくせに。
「明日からの林間合宿、頑張ってきてくださいね」
「ああ」
ぶっきらぼうに答えながら、相澤が目だけで笑んだ。
***
だが、その林間合宿で、あってはならない事件が起きた。
合宿所がヴィランの襲撃を受けたのだ。二十六名が負傷し……生徒の一人が拉致されてしまうという大きな事件だ。
合宿に不参加の教員にもすぐに召集がかかり、長い、長い会議となった。
会議は、学校としての方針や対外的な対応、生徒の安全を守る方法、そして職員内に内通者がいるかもしれないということにも及んだ。
そういうことはあまり考えたくないが、あれだけ万全を期して行われた合宿が襲撃を受けたのだ。その発想に至ってもしかたのないことだろう。
内通者をあぶりだすことよりも生徒の安全を図ることの方が大事だという校長の言をうけ、そちらの追及は後回しになったが、いずれは何らかの策がとられることだろう。
仲間を疑うことは、とてもつらいことだけれど。
そしてなにより、今回一番の問題は拉致された生徒がいるということだ。彼やその家族がどれほど不安でいることだろう。それを思うだけで心が痛む。
シャワーを浴び終え、今日は疲れたと息をついたその時、玄関のチャイムが鳴った。
生徒の拉致という大きな事件があった後だ。明日には担任ふたりと校長による記者会見も予定されている。そんな事情もあって、施術の予約はすべてキャンセルさせてもらっている。それなのに。
いったい誰だろう……そう思いながらインターフォンの受話器を取った。
「こんばんは」
受話器の向こうから聞き覚えのある掠れた低音が流れてきた時、これは幻聴なのではないかと己の耳を疑った。
声の主は、ひと月ほど前の夜わたしに甘く濃い快楽を与えた、あの幸福の王だった。
「……芳月くん?」
「……ごめんなさい。すぐ開けますね」
わたしは慌てて扉をあけた。
「オールマイトさん、どうしたんですか?」
「こんな時間にすまないね」
「……いえ……」
もう会わないと決めたのに、どうしてこのひとはここに来たのだろう。
そしてどうしてわたしの体は、こんなにも自分の気持ちに正直なのだろう。
甘い花の香りが、じわじわと狭い玄関の中を満たしてゆく。
帰ってくださいと言うことも、どうぞと促すこともできず、わたしは阿呆のようにただ立ちつくしてしまった。
するとオールマイトが、まっすぐわたしを見つめながら口唇を開いた。
「君に、どうしても会いたくなった」
「え?」
あまりにも意外すぎる言葉だった。
会いたい? どうして?
けれど嬉しい。
どうしたらいいのだろう。何と応えたらいいのだろう。
オールマイトは、最後に会ったあの朝と同じくらい、困った顔をしていた。
「明日、ヴィランの住処を叩く」
「……」
「その前に、どうしても君に会いたかった」
もう限界だった。
何かを覚悟しているようなオールマイトの表情と今の言葉と、それだけでもう充分だ。言葉もなくただぼろぼろと涙をこぼしているわたしを、オールマイトが抱きしめた。
「ずるい男ですまない」
またしても意外な言葉を告げられ、わたしは顔をあげた。
オールマイトは、やっぱりあの時と同じような困ったような顔をしている。
わたしはやっと、ひと月前の自分が大きな勘違いをしていたことに気がついた。
あのとき、このひとは後悔していたのではなかった。ただ逡巡していただけだ。
自分のために妻が病む、そんな経験をしてきた人だ。女性と新しい関係を持つ時に、迷いを持たない方がおかしい。
「ありがとうございます…今日来てくださって……」
「相変わらず優しいんだな……君は私とこんなふうになるのは、本意ではないだろうに」
わたしは静かにかぶりを振った。
「……ずっと……会いたかったです」
「芳月……」
「梨香です」
呼んでください。あの夜のように、わたしの名を。
「オールマイトさん。わたしはやっぱり、あなたが好きです」
「梨香……」
オールマイトは少しの間わたしの顔を見つめていたが、やがて静かに口をひらいた。
「俊典だ」
「はい?」
「八木俊典。それが私の名だ」
やぎとしのり、と心の中で呟いたわたしの上に、優しい唇が下りてきた。
***
数時間後、わたしとオールマイトは同じベッドの中にいた。
オールマイトは、明日の敵が六年前に自分に重傷を負わせた相手だということを語った。詳しくは話せないが、その相手とは長年の因縁があるのだと。
それをきいてぞっとした。
全盛期のオールマイトをそこまで苦しめた相手だ。アジトへ突入するメンバーは精鋭ぞろいだときく。それでも大丈夫なのだろうかと、不安が消えない。
けれどそれを口に出すのは憚られた。
今回の戦いがどれほどの危険を伴うか、それを一番知っているのは、オールマイト本人だろう。
わたしの髪をさらさらと梳く大きな手が、小刻みに震えていた。このひともきっと、怖いのだ。その怖さを克服するために笑って敵と対峙する、この国の柱。
サファイアの瞳のかわりに肺の半分を失い、金箔の肌のかわりに胃袋を失って、それでも民衆を守ろうとしている幸福の王は、こんなにも儚い。
「ところで今夜はどうします? このまま泊まって行かれますか?」
背の高いオールマイトが身体をのばせるよう、ベッドの足元にビーズのクッションソファを置きながらそうたずねた。
オールマイトが微笑んで答える。
「君さえ許してくれるなら」
「では、このままお休みになりますか?」
「うん……ありがとう」
何かを考えるように視線を巡らせてから、オールマイトが言った。
「帰ってくるよ。必ず」
ああ、やはり、明日はそれだけの覚悟を必要とする相手なのだ。
答えに詰まって、わたしはオールマイトの薄い肩に顔をうずめる。
わたしはそのまま、彼が安眠できるようにとラベンダーの香りを放ち続けた。それにほんの少しのベチバーとオレンジ・スイートをプラスして。これは不安と緊張を解くブレンド。
本当は、このひとの隣に立てるような個性が欲しかったけれど。
わたしにできるのは、こんな些細なことだけだ。
安眠の香りが効いたのか、しばらくすると長身痩躯が軽い寝息を立てはじめた。
彫りの深い面ざしを見つめながらわたしは願う。この幸福の王が、どうか無事でここに帰ってくるように。
あと数時間もすれば、夜の闇を切り裂いて、夏の太陽が姿を現すだろう。
決戦の日の朝がやってくる。
長くて熱い一日が、始まろうとしていた。
2016.6.17
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