そんな声が聞こえてきたのは、夏と呼ぶにはやや遅く、秋と言うにはまだ早い、そんな季節の変わり目の昼下がり。カジュアル中心の大量量販店の一角でのことだった。
「ヒーロー名鑑の写真より、実物の方がずっと美人だな」
若い男女二人連れの、男性のほうがそう続ける。
容姿をほめられると照れてしまうが、やっぱり嬉しい。
「でもヒーローには高級ブランドとか着てほしくない? なんか幻滅しちゃう」
「べつに何を着たっていいじゃないか。美人は何を着ても美人なんだから」
「ヒーローは夢を売る職業じゃん。もうすこし考えればいいのに。庶民的過ぎ」
女性の意見は厳しいけれど、そういう考え方もあると理解はできる。
自己プロデュースの一環として、身に着けるものに気を使っている同業者はけっこう多い。本人のキャラクターイメージの問題であったり、スポンサー企業のブランドイメージの関係であったり、その理由はいろいろだけれど。
わたし個人は、流行ものや普段着はファストファッションで充分だと考えている。だからそうしている。一流品に比べると見劣りするかもしれないが、ここのものはそんなに質は悪くない。
世の中には色々な考え方の人間がいるものだ。批判や自分の考えと異なる意見があって当然。そう思い、売り場から去ろうとしたその時だった。
「だいたいさあ、自分で『マドンナリリー』とか名乗っちゃう神経がわかんない」
「……おい……声がでかいよ。聞こえたらどうする。失礼だろ」
「だって、マドンナだよ? 自分で自分をマドンナって……痛すぎじゃん。アラサー女がさあ」
「そういう言い方はよせよ」
女性はわたしのアンチなのだろうか、先ほどから言葉に毒と棘がある。
自分を「美しいマドンナ的な存在だ」と思ったことなど一度もない。この名にちなんだお話の主人公のような慈愛の精神を持ち続けたい。そう願ってつけた名だ。
こうした誤解を受けることも覚悟しての命名ではあったけれど、それでもやっぱり、面と向かって「痛い」と言われるのは堪える。
秋物のボトムが欲しかったのだが、購入意欲がそがれてしまった。目的のワイドパンツはまた後日と、さりげなく店をあとにした。
ところが、よくないことは続くものだ。
大量量販店の向かい側は、マタニティとベビー用品専門店。その入り口に、見知った男の姿があった。
短い間だったけれど、一緒に暮らしていた男だ。定職につかず、わたしの収入で生活し、他の女をわたしの家に連れ込んでいたろくでなし。
そのダメ男が、お腹の大きい女性と談笑している。女性は手ぶらなのに、彼はたくさんの荷物を持っていた。
わたしには見せたことのない、優しい気配り。それを目の当たりにしていたら、別れ際の彼の言葉を思い出してしまった。
「おまえはさ、たしかに優しかったよ。なんでも許してくれたよな。金を入れなくても、働かなくても、いつも大丈夫だって笑ってた。それが俺にとってはつらかったんだよ。おまえといるといつも、自分がダメな奴だって気にさせられた。だから俺は、ますますダメになっていったんだ」
あの時は、浮気をしておいてどうしてそんなことを言うのだろうかと思った。ひどいひとだなと。
だが、ちゃんと父親の顔をして女性の隣りにいる今の彼をみていると、わかる。彼の言葉は真実だったと。
わたしは優しくなんかない。ただ無責任に相手を肯定していただけだ。根拠のない肯定は、時に人を傷つける。人を救うどころか、堕落させる手伝いをしていただけだったのだ。
さきほどの出来事と相まって、情けなさに泣きそうになる。マドンナリリーという名前は、やはりわたしには過ぎた名だ。
***
新築特有の匂いがまだ残る部屋で、橙色の光がビルの谷間に消え、空を闇が侵食していくようすを、ただ見ていた。
陽が落ちるのが早くなった。ついこの間まで生ぬるかった風も、いつの間にかずいぶんと爽やかなものへとかわっている。
「もう秋になるのね」
ダークな気分をいつまでも引きずっていてもしかたない。夕飯の支度をしようと立ち上がり、キッチンへと向かった。
職場直結のこの新居は、最新式のセキュリティに守られている。最新式なのはそれだけではない、キッチンをはじめとする水回りの設備も同様だ。
そのぴかぴかのキッチンで、夕飯は昨日仕込んでおいた鳥ハムで簡単にすまそうかと冷蔵庫を覗き込んだ瞬間、来客を知らせる電子音がなった。
こんな時間に誰だろうとモニターを覗くと、そこに映るのはひょろりと長い痩せた姿。
ああ、と大きく息をついた。
「私が、食材とワインを持って、来た!」
どうしてこのひとは、こんな日に。
「どうしたんです?」
「せっかく同じ敷地内に住んでいるんだ。会いたいときに会いに来てはいけないかい?」
「……いいえ」
オールマイトから白ワインと数種のチーズの入った紙袋を受け取り、テーブルに置いた。オールマイトは職場では下戸で通しているし、プライベートでもあまり飲まない。だが時折、わたしのためにこうしてお酒を持参してくれることがある。
「来てくれて嬉しい」
甘えるように包帯の巻かれた右腕にもたれかかると、そのまま優しく抱きしめられた。
「君こそどうしたの? 元気がないね」
元彼に言われた事を思い出して落ち込んでいる、などと言うわけにはいかない。未練がないのはわかってもらえるだろうが、オールマイトにとって面白い話題ではないだろう。
だから、長い腕に抱かれたまま、ファストファッションの店でおきたことだけを口にした。
*
「梨香。私はね、君のヒーローネームは、君に相応しいものだと思っているよ」
わたしの話を聞き終えたオールマイトが優しく言った。このひとの柔らかい低音は、なぜか心を和ませる。深くて低くて、優しい響き。
「そうでしょうか」
「そうさ。きっとね、その女性は君に嫉妬したんだよ」
「嫉妬、ですか」
「自分のパートナーが別の異性を手放しでほめたりするのは、あまり面白くないもんだ」
「まあ、わからなくもないですけど」
「それだけじゃない。女性は、パートナーが浮気すると浮気した男ではなく相手の女性を恨む人が多いって聞いたことがないかい? それと同じ感じで、君を攻撃したんじゃないかな」
「女は相手の女を責めるっていうのは、確かに聞いたことがあります。でも不思議。いちばん悪いのは浮気した男なのに」
「君は男を責めるタイプ?」
「んー、たぶん責めないと思いますね。でも場合によってはそのままお別れしちゃうかな」
「………………肝に命じておくよ」
「なんですか、今の間」
「いや別に」
本当は、浮気されたくらいでこのひととお別れする気などない。そんなことはきっとできない。ちょっと牽制してみた。それだけだ
でも今の間と彼の表情から、言って正解だったなとひそかに思った。
「まあ、いいですけど。ところで俊典さん、お食事は?」
「夕方軽食を取ったけど、ちゃんとした食事はまだ」
「じゃあ簡単に作りますね。ワインは白? それとも赤?」
「甘めの白だよ。ワインクーラーに入れて冷やしておこうか」
オールマイトが氷の準備をしてくれている間に、メニューを考え調理に入る。
彼の持ってきてくれたブルーチーズをパスタのソースにつかわせてもらい、パセリ入りのクリームチーズをレンジで温め、鯖缶と和えてリエット風のペーストを作った。その他のチーズは薄く切ったバケットを添えて、そのままお皿に盛りつける。
刻んだレタスとトマト、ほうれん草と玉ねぎとピーマンの上に昨夜の鳥ハムをのせて、ドレッシングをかけてサラダも完成。
おもてなしの夕飯としては質素だが、栄養価的にはそんなに悪くもないだろう。たぶん。
それにしても、来るとわかっていればもう少し見栄えのいい食材を用意しておいたのに。いつもいきなりなんだから、と贅沢な愚痴をこぼしそうになった自分に気づいて苦笑した。
さっきモニターの向こうで彼の顔を見た瞬間は、あんなに嬉しかったくせに。
「ありあわせの物で申し訳ないけど」
「いや、とても美味しそうだ。白ワインにも合いそうだね。君はいつも、短い時間で美味しいものをさっと用意してくれるからすごいな」
「ありがとう」
オールマイトの持ってきてくれたワインは、量販店でもよく見かけるフルーティーな香りの飲みやすいものだった。
「このワイン、美味しい」
「それは良かった。飲んだことがない銘柄だったから心配だったんだ。値段も安かったし」
「こういう甘めなものもたまにはいいですよね。でも珍しい。俊典さんは重めの赤や辛めの白が好きなイメージがあるから」
「ん。でもほら、これみたらやっぱり買っちゃうよね」
ラベルには、マドンナ・リープフラウミルヒと書かれている。ミルヒの意味はたしか牛乳……だっただろうか。
「リープフラウミルヒ」
「うん。聖母の乳って意味らしいね。聖母教会で作られたワインをそう呼んだのが始まりらしいよ」
「ああ、だからマドンナ」
「そうそう。近隣のワイナリーで作ったワインもリープフラウミルヒと呼ぶらしいけど、聖母と表記できるのは、元祖である聖母教会の畑で採れた葡萄をつかったワインだけなんだ」
「俊典さんはなんでも知ってますね」
「なに、ネットから得ただけの情報さ。それから梨香、敬語が混じっているよ」
「あ」
少し前から、二人の時は敬語をやめてほしいと言われている。でももう、敬語が癖になってしまっている。ですます口調が混じってしまうことは許してほしい。
「まあ、おいおい慣れてくれればいいけどね」
わたしの気持ちを見透かしたのか、オールマイトがふっと笑った。
軽くて甘い、聖母の名前を冠したワイン。ドイツの白ワインは総じて甘めのものが多いが、これも然り。ジュースのようにいけてしまう。そのうえオールマイトがあまり飲まないものだから、ついつい飲みすぎてしまった。
そのせいだろう。言わずにおこうと思っていた言葉が、ぺろりと口から滑り出た。
「俊典さんも、わたしといると疲れますか?」
「も?」
「あ……いえ、俊典さん『は』」
少し険のある目つきになってしまったオールマイトから、さり気なく視線をはずした。口から出てしまった言葉は消せない。
だから、なんでもないです、などと話題を変えるつもりはなかった。
それに、きいてしまった以上、彼の答えを知りたい。
自分が劣っているとか、ダメになるとか、オールマイトにそういう意識はないだろう。
でもわたしのこの性格が、彼を癒すどころか疲れさせているかもしれない。そう思うと、やっぱり少し怖かった。
「梨香、君が誰に何を言われたのかは知らないけど」
オールマイトはそこで言葉を切った。視線を彼に戻すと、まっすぐこちらを見つめてくる青い瞳とぶつかる。晴れわたった空と同じその色は、とても綺麗だ。
「私は君の存在に癒されているし、救われているよ」
「……ありがとう」
「君はどうだい? 私は君の助けになっているかな?」
もちろんだ。今日あなたが来てくれたことが、どれだけわたしの心を軽くしたことか。だからそのまま感謝の言葉を口にした。
「もちろんですよ。俊典さんにはいつも助けてもらってます。たとえば今」
「そうかい? じゃあ私も、このあとたっぷり君に癒してもらおうかな」
正面に座るオールマイトが、そってわたしの手を取った。甲を一撫でしてから、わたしの手を包んだ大きな手。
ただそれだけのことなのに、ワインよりもずっと甘いなにかが身体の中でひろがっていく。
「いいですよ。どんな感じの香りにします? たまにはオレンジ系とか?」
「いや、リープフラウミルヒがいいな」
「……またセクハラおやじみたいなことを。私、癒しの香りは出せても母乳は出せませんから」
「マニアックなプレイがしたいわけじゃないよ。ただ、マドンナの柔らかい部分に癒されたいなと思って」
きわどいことを言いながら、オールマイトがにっこり笑った。
こんな風に邪気なく笑まれると、可愛いなんて思ってしまう。困ったものだ。このひとが行為の時、邪気だらけの悪いオトコになるのも知っているのに。
「あっちのマドンナは甘めだったけど、こっちのマドンナの味はどうかな」
「もう。俊典さんふざけ過ぎ」
「ふざけてなんかないさ。私はいつも真剣だ」
立ち上がったオールマイトがわたしの額にキスをした。
背の高い彼は、わたしたちの間にあるテーブルなんてものともしない。額から唇へと、優しいキスは降りてくる。
次への予感に、イランイランの香りがじわじわとたちのぼりはじめた。
「やっぱりこのマドンナが、私にとっては一番甘くて一番美味だ」
長身痩躯にそうささやかれ、わたしはちいさくばかねとこたえる。
ワインよりもずっと甘い、初秋の夜はこれからだ。
2016.12.18
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