星降る夜に

 軍用車を元にして作られたアメリカ製のSUVに乗り込んだ瞬間、人々の視線を背中に感じた。圧倒的な威圧感を有するこの車は、とにかく目立つ。けれどいま人々の注目をあつめているのは、おそらく、車ではない。

「梨香、どうかした?」
「……さっきのレストランでもそうでしたが、見られているなと思いまして」
「ああ。君はいま話題のひとだからね。大丈夫。そのうち慣れるよ」

 違う……そうじゃない、と内心でつぶやいた。
 たしかにわたしは一般人ではなく、雄英高校で化学教師をつとめるヒーローだ。ヒーローネームはマドンナリリー。治癒の個性を使って、献身的にひとを救おうとしたシスターの物語が、その名の由来。

 だがわたしの個性は残念ながら癒やしではなく、様々な効果のある香りを身体から放つ、芳香だ。もちろん癒やし効果のある香りは出せるし、痛みを和らげる香りも、咳を鎮める香りも出せる。刺激臭で敵を攻撃することもある。

 ただしこの個性は、種々の症状を和らげることはできるが、治すことはできない。攻撃に関してもそれは然りで、異臭で足止めはできても、ミッドナイトのように意識を奪うまでには至らない。
 現場では主に、攻撃力の高いヒーローの補助を務めている。昨年度のランキング順位も、そう高くはなかった。

 そんなわたしが、なぜ、現在話題のひとになっているのか。
 それは国内最大手の化粧品メーカー、至宝堂との仕事によるものだ。少し前に、至宝堂が、エッセンシャルオイルをベースにしたスキンケアブランドを立ち上げた。
 わたしこと芳香ヒーロー・マドンナリリーは、そのプロデューサー及びミューズとして抜擢された。香りのブレンドにも、かなり踏み込んで参加させてもらっている。
 新ブランドの化粧品はスマッシュヒットを飛ばした。CMやポスターの評判もいい。
 そのためファッション誌や美容雑誌の表紙を飾る機会も増えた。化粧品業界だけでなく、他業種からCM出演のオファーも来ている。

 けれど、わたしの知名度なんて知れたもの。

「人々が注視しているのはわたしではなく、俊典さんだと思うんですけど」
「まあ、それもあるだろうね」

 しれっと、オールマイトが答えた。
 本人もこうして自覚している通り、引退してもオールマイトは正真正銘のスーパースターだ。この国で彼を知らぬ人など、どこにもいない。

「で、たぶん彼らが気にしてるのは、私と君の関係についてじゃないかな」
「はい。おそらくは」

 先ほどまでいたレストランでのことを思い出しながら、静かに答えた。
 真実の姿が明らかになって以来、彼とのデートは互いの家、もしくは個室のある会員制のお店がほとんどだった。だがなぜか、今日は違った。
 オールマイトが予約してくれたのは、中世ヨーロッパの教会をモチーフにした、ややカジュアルなレストラン。席は個室ではなく、他の席より一段高い場所――中二階の特別席だ。特別席から店内を見おろせるように、下の席からも特別席にいる人間がよく見える。
 そこに女性連れのオールマイトが現れたのだから、人々が注目しないはずもなく。

「それに、大丈夫ですか?」
「なにが?」
「さっきのレストランのことですよ。さすがに写真は撮られていないようでしたが、あの感じだと、ネットに書き込む人がいるかもしれません。噂になってしまいます」
「うーん。でも、私と君との関係は、噂じゃなく事実だしね」

 繊細な問題に対する、曖昧な回答。
 どうリアクションすべきか判断しかね、しかたなく無言でうなずいた。それを受けたオールマイトは少し目をほそめ、うんとつぶやいてから、静かに車を発進させた。

***

「梨香、寒くないかい?」

 車から降りてすぐ、オールマイトが心配そうにたずねてきた。
 わたしは過去にも一度、オールマイトとこの場所にきたことがある。体育祭の日のことだ。
 あの時は五月だったが、今は秋。気温は比べるまでもなく低い。

「大丈夫です。言われたとおり防寒対策はしてきましたから」

 ロングのダウンを羽織りながらこたえると、オールマイトがほっと息をついた。

「それはよかった。冷えは大敵だからね。でも本当に、寒かったら言ってくれよ」

 そういって笑ったオールマイトは、アメリカ製のフライトジャケットを羽織っている。よく見かける襟がリブニットのものではなく、コヨーテファーの、防寒性の高いモデルだ。難しい微妙な丈のジャケットでも、背の高いオールマイトはさらりと着こなす。まったくこのひとは、なにを着てもさまになるのだから、まいってしまう。
 少し歩いて、以前ふたりで星を見たのとほぼ同じ場所に、腰を下ろした。
 オールマイトが持参してくれた大判のブランケットに、ふたり一緒にくるまった。彼が後ろからわたしを抱きすくめるかたちで。
 半年前に星を見た時と同じ相手、同じ場所なのに、状況はずいぶん変わったと静かに思った。彼への恋が叶うはずなどないと思っていた、あの頃。

「どうしたんだい?」
「なんだか、しあわせだなあと思いまして」
「それは、私のほうこそだよ」

 わたしを抱く腕に、やさしく力が籠められた。答えの代わりに、細いけれども広い胸に、身体をあずける。
 彼は黙ったまま、わたしの髪にキスを落とした。

「あいかわらず、すごい星だな。今にも降ってきそうだ」
「ほんと。きれいですね」

 今宵は月の見えない新月の夜。漆黒のキャンパスを煌めく満天の星が彩る、星月夜。ありきたりな表現だけれど、今にも手のひらの上に星が落ちてきそうな、そんな空。

「……あのさ」
「はい」
「あの四つの星が見えるかい?」
「はい。秋の四辺形でしたっけ?」
「うん。で、あの四角形のまんなかあたりにある小さな星、わかる?」
「ええ。小さめだけど、青白く輝く綺麗な星ですよね」
「そうそう」

 と、オールマイトは少し恥ずかしそうに笑った。

「君はあの星の名前を、知っているかい?」
「いえ、知りません」

 秋の四辺形の南下に見える小さな星の群れは、たしかうお座だったと思うのだけれど。四角形の中に位置する星の名までは、覚えていない。

「マドンナリリーっていうんだ」
「はい?」
「あの星の名はね、マドンナリリー。ヒーロー名じゃなくて本名の梨香にしたほうがよかったかな?」

 耳から入ってきた情報を脳が正しく処理できるまで、少しかかった。

「あの……それって……もしかして……」
「うん。星の命名権をね、買っちゃった」

 満面の笑みでいらえるのは、我が国一の英雄様。

「いや……買っちゃったって……そんな爽やかに笑まれましても……」

 星に、人の名をつける。
 たしか、アメリカにそんなサービスを展開している会社があった。各国の有名人が利用していることも知っている。某国の女王陛下や皇太子妃、ハリウッド俳優、我が国のやんごとなき身分のお方や、大物歌手の名を冠した星もあると聞いた。
 けれど――。

「驚かせてごめん。婚約指輪とは別に、記念になるようなプレゼントを贈りたかったんだ」
「俊典さん……」

 AFOとの戦いが終結した日、百合の香りが漂う病室で言われたことを思い出した。
 ――生涯かけて私を癒やして。
 あれがプロポーズであることはわかっていた。その後、なかなか話は進まなかったが、普段の言葉のはしはしからも、彼がわたしとの未来を視野に入れてくれていると、気づいてもいた。

「病室でのプロポーズから三か月近く経ってしまったけれど、君の気持ちはかわってないかい?」

 答える前にたちのぼり始める、甘くエキゾチックなイランイランの香り。
 わたしは昔から、好きな人を前にするとこの香りが出てしまう。胸ときめくようなことがあると、いっそう濃く、強く。
 愛のしずくという別名を持つ香りは、なにより饒舌に、わたしの心情を語ってしまう。

「よかった」

 今にも落ちてきそうな満天の星の下で、オールマイトが満面の笑みを浮かべた。

「本当に、君の香りには癒やされるな」

 オールマイトがわたしの頬に手をあてた。

「私の妻に、なってくれるね?」
「わたしでよければ、よろこんで……」

 甘い花の香に混じる、シナモン交じりの白檀バニラ。これは、オールマイト愛用のトワレの香り。

「生涯かけて、私を癒やして」

 かつてと同じ言葉に、はい、といらえると、ありがとう、の声と共に、そっと額にくちづけられた。それは触れるだけのキス。

「……幸せすぎて、こわいです」
「私もだ」

 徐々に、彼の唇は降りてくる。まぶたに、鼻の頭に、頬に、そして唇に。
 ああ本当に、怖いくらいにしあわせだ。

 黒漆を流し込んだようなつややかな夜空に輝く、金や銀の星の群。そこに、蒼銀に輝く小さな星がある。
 その星の名は、マドンナリリー。
 わたしと同じ名を持つ星だ。

2018.11.7
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