ある日常

「お疲れ様でした。いかがでしたでしょうか?」
「セキュリティは悪くない。あとはそれを管理する人間たちの問題だな」

 夏の名残の太陽が照りつける中で、そううそぶいたエンデヴァーに向かって、頭を下げた。
 新学期にむけ、雄英は全寮制へと変わる。あれだけの事件があったにもかかわらずお子さんを預けてくれる保護者の信頼に応えるべく、学校側は最大の努力をしていくつもりだ。
 まずは寮にどのような設備が整っているか、どんなシステムで生徒たちを護るのか、その眼で確かめ、安心してもらう必要がある。そのため学校側は希望する保護者に対して、ヒーロー科の教師同伴の上での寮への見学の機会を設けた。
 本日はその最終日。
 一度の見学者を三名までに絞ったせいで、生徒たちが入寮するギリギリまでかかってしまったが、それも仕方のないことだ。
 嫌な話になるが、教師や生徒の中にも内通者がいるとの疑いがある。保護者もまた例外ではない。

「ご指摘、ありがたく受け取らせていただきます」
「うむ。新学期からもよろしく頼む」

 そう低くつぶやき、フレイムヒーローは背を向けた。ゆっくりと門に向って歩を進めるその姿は雄々しく猛々しく、そしてとても哀しかった。
 オールマイトが引退して以来、マスコミによって煽られた不安の炎は大きくなるばかりだ。その矛先は、我々残されたヒーローへと向けられている。
 その最たる犠牲者が、繰り上げでナンバーワンに祭り上げられてしまったエンデヴァーそのひとだろう。
 エンデヴァーではオールマイトの代わりにならないと、エンデヴァーでは無理だと、そんな声を、この短い期間で何度耳にしただろう。

 この国は何度同じことを繰り返すのか。一人に重積を負わせたことが、現状につながっているというのに。
 オールマイトが幸福の王なら、エンデヴァーは茨の冠と共に玉座についた受難の王だ。
 今後、ますます彼に対する風当たりはきつくなるだろう。
 頭上から、夏の終わりを謳歌する蝉の声がきこえる。短い夏、短い生を謳歌する哀しい生き物。
 だがそれは、わたしたちもきっと同じだ。なんということもない日常を生きて、そして死ぬ。

 茨の道を歩み続けてきただろう努力のひとの、これからのヒーロー人生がどうか満ち足りたものになるようにと、ひそかに祈った。
 わたしにできることは、それくらいしかない。

「梨香」

 と、いきなり背後から声をかけられ、飛び上がらんばかりに驚いた。

「オールマイトさん。学校で名前を呼ばれるのは困ります」

 驚きを隠せぬまま、オールマイトを見上げた。背の高い彼から、ほんのりと甘くて苦い白檀バニラが香りたつ。

「……正直、おもしろくないよね」

 不穏な声だった。なんだろう、なにかを含むような、嫌な感じ。
 片方の口角だけを軽く上げて笑む恋人が、別のひとのように見えた。

「ここは学校ですよ。学校では今までどおり、いち教師として接する約束じゃないですか」
「そういうことを言ってるんじゃないんだよ」
「はい?」

 オールマイトが肩をすくめて天を仰いだ。
 相変わらず、アメリカナイズされた仕草が似合うひとだ。

「君がエンデヴァーのファンだったなんて、知らなかったよ」
「別にファンってほどでもありませんよ。すごい方だとは思いますけど」
「いや。さっきのはそんな表情じゃなかった」

 拗ねたような声音に、ふてくされたような言い方だった。
 なんだか子どもみたい。そう思ったとたん、ぴんときた。

「あの……オールマイトさん。つかぬことをおききしますが」
「なんだい?」

 返ってきたのは、やっぱり、不機嫌そうな低い声。

「それはもしかして、やきもちでしょうか?」
「…………格好の悪い話だけど、そうだよ」
「ふふっ……」

 思わず笑い声が漏れてしまった。聞こえたのだろう、オールマイトが目を丸くしている。

「なに? もしかして君、喜んでないか?」
「ふふっ。そりゃ喜びますよ。だって、ふふっ……オールマイトさんがやきもち妬いてくれるなんて……ふふふっ」
「……君、喜びすぎ」

 苦虫をかみつぶしたような顔で、オールマイトがつぶやく。
 でも喜び過ぎと言われても、かつてかみさまのように思っていたひとにやきもちを妬いてもらえていると思うと、やっぱり頬が緩んでしまう。
 止まらない笑みをごまかすように空を仰ぐと、愛するひとの瞳と同じ色をした空に浮かんだ白い雲が、ゆっくりと風に乗って流れていくのが見えた。
 いつのまにか、こんなに空が高い。

「とにかくさ、あんな顔して他の男を見られたら、私も面白くないんだよ。俳優やアイドルならまだしも、同業者に」
「あんな顔ってどんな顔ですか?」
「なんていうのかな、愛しいものを見るような目だよ」
「そんな気持ち一切ありませんよ。ただ、昨今のエンデヴァーさんに対する風当たりの強さについては、やっぱり考えてしまいます。もともと繰り上がりで得たトップの座に満足する人でもないでしょうし、今の状態はさぞおつらいだろうなと」
「……たしかにそうかもしれないけど、君はさ、今みたいな感情が恋愛につながっていきそうだから、とても嫌なんだよ」
「何言ってるんですか。エンデヴァーさんは妻帯者ですし、うちの生徒の保護者ですよ」
「そんなの好きになっちゃったら関係ないだろ。しかも彼はいい男だ」
「たしかにエンデヴァーはカッコいいですけど、オールマイトほどじゃありません」

 つるりと本音が滑り出た。でもこの本音は、そう悪い方向には働かなかったようだ。
 オールマイトは、顔をしかめたまま赤面している。
 わたしのトップヒーローは、案外、わかりやすいところがある。

 教師としてああありたいと目標としている人がいる。ヒーローとして尊敬しているひともまたたくさんいる。
 それでもわたしにとっての頂点は、ただひとりだけ。

「わたしにとっての一番はオールマイト、あなたです。ヒーローとしても、私人としても」
「君はずるいな」
「オールマイトさんほどじゃありませんよ」

 そう言って再びふふっと笑うと、いきなり長い腕で抱きしめられた。待ってと制止の声をあげようとした、その唇を塞がれた。
 強引な口づけは、いつも部屋でかわしているような濃厚なものではなく、至極あっさりしたものだった。ほんの短い間、触れているだけの軽いキス。
 解放されてすぐ、わたしは抗議の声をあげた。

「ちょ……ここ学校です……」
「知ってる。でもこのエリアは、まだ生徒は立ち入り禁止だ」
「それでも教師は出入りしてます。噂になったらどうするんですか?」
「そんなもの、とっくの昔になってるよ。わたしたちのことは、皆知ってる」

 たしかにその通りだ。つき合う前から噂を流されていたこともあり、わたしたちのことは、教師全員の知るところとなっている。
 それでもやっぱり、場をわきまえて欲しいと思う。

「まあそうですけど……それでも職場恋愛をおおっぴらにするのはどうかと思います」
「構わない。私は気にしない!」
「わたしは気にします。それにいくら立ち入り禁止だからって、生徒たちにもし見られたら……」

 と、オールマイトがいきなりわたしから視線をはずした。不思議に思い、青い瞳が向けた先をみやる。
 ああなるほど、と納得した。そこに見慣れた先輩教師の姿があったからだ。

「オールマイトさん」

 低く呟きながら、相澤先輩が近づいてくる。ゆらり、と怒りのオーラが立ち昇るのが見えたような気がした。

「あんたたちがどんなふうにいちゃつこうと勝手ですけどね、場所は考えて欲しいもんです。生徒たちに見られたらどうするんです?」

 静かだが、怒りを含んだ声だった。もそもそと話すくせに、相澤先輩は怒ったときの迫力がすごい。
 もともと馬が合わない……というか、大抵において言い負かされているオールマイトは、もうたじたじだ。

「あ……でもホラ。ここはまだ、生徒は立ち入り禁止だから……」
「立ち入り禁止と書かれると侵入したくなるのが、ガキってもんですよ」
「あ、そうかもね。私も昔、立ち入り禁止の屋上とかに入り浸ってたよ」

 あんたの昔の悪事に興味はねえんだ、と、もそもそと相澤がつぶやく。
 ハイ、すみません、とオールマイトが背中を丸める。

「……それを注意しようにも、教師同士が公衆の面前でいちゃついてたら、叱れるものも叱れなくなるでしょうが」

 黒い瞳がギラリと光った。まさに正論。こちらとしては、返す言葉もない。

「ウン……ごめん……」

 叱られた大型犬のようにしゅんとなってしまったオールマイトを無視して、相澤先輩がわたしの方に向き直る。

「芳月、お前はもういいぞ」
「でも、わたしも同罪ですし」
「ここでお前に説教したら、きっとこのおっさんがかばうだろ。だからお前への注意はまた後でする。今は下がってろ」
「……ハイ……」

 雄英教師がいかに優秀とはいえ、オールマイトを本人の前でおっさん呼ばわりできるのは相澤先輩だけだろう。
 けれどわたしは知っている。相澤先輩もオールマイトを尊敬しているということを。高校時代、彼もまた、オールマイトに憧れていた。
 それでも公人として、言わねばならないことはきっちり果たす。それが相澤消太というひとだ。言い方があんななのは、まあ、性格によるものだろう。
 この先輩もまた、わたしが尊敬しているひとの一人だ。

「オールマイトさん。全寮制になるにあたって、あんたには注意してほしいことが他にも山ほどあるんでね。ちょっと指導室まで来てもらえますか」
「エ? なに? 私、指導されちゃうの? 素行の悪い生徒みたいに?」
「あんたは素行の悪い教師なんだから、仕方ないでしょう」

 そう言い捨てて、すたすたと先を歩く相澤先輩の後を、オールマイトがしゅんとしながらついていく。
 きっとオールマイトは、この先輩にはずっと頭が上がらないのだろうな、とひそかに思った。

 と、その時、風がわたしの髪を揺らした。
 生ぬるい、晩夏の夕暮れの風。
 それでも、夏の盛りに吹いていた熱風よりはずっといい。あと数日すれば、夕暮れが秋の気配を匂わせはじめることだろう。
 来週には、生徒たちが入寮してくる。

 この秋あらたな一歩を踏み出す彼らと、これから怖い先輩に叱られるであろう我が恋人に、幸あれかし。

2017.3.2
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月とうさぎ