翼あるもの

『翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすために、どんな障害も乗り越えなさい』
                           ―ガブリエル・シャネル―


 夏の終わりの強い西日が、校舎を照らしていた。そのせいだろうか、空調の効いているはずの職員室の空気が、どんよりと重く感じられるのは。
 いや違う、とわたしは心の中で首を振った。空気が重く感じるのは、理由がある。
 誰より大きな翼をもって生まれたはずのわたしの恋人は、この頃少し、元気がない。
 もちろん、彼はいつものように静かに――時に騒がしく――笑っている。だが、わたしにはわかる。あれは彼の、心からの笑みではないと。

「オールマイトさん。どうかされましたか?」

 背の高い大先輩のデスクにブラックコーヒーを置きながら、そう話しかけた。
 なんでもないよ、と、我が国の誇る英雄は静かに笑った。そうですか、とだけ答え、わたしは自席に戻る。
 だが座ったと同時に、ポケットの中の携帯端末がぶるりと震えた。

『今日、君の部屋に行ってもいいかな?』

 画面に表示されているのは、たった今「なんでもない」と答えたオールマイトからのメッセージだ。
 それにはいと返信をして、自分で淹れたコーヒーを一口飲んだ。
 
 いったい彼に何があったのだろう。
 数日前の体育館γ(ガンマ)での出来事が発端だろうか。
 訓練には危険がつきものだ。特に体育館γ(ガンマ)のそれは、セメントスが生徒ひとりひとりの個性に合わせて地形をつくるハードなもの。
 大丈夫ですか。危ないんで。気ィつけろ。
 あの場でオールマイトに発されたそれらの言葉は、ただ単純に彼の身を案じたものだ。それがわからないようなひとではない。
 しかし、わかっていてもなお、寂しいと感じてしまう。それが人間というものだ。
 その手で世界を守り続けた幸福の王であれば、なおのこと。
「今の私は、守られる側の人間として認識されてるんだな、って実感しちゃったよ」
 あのあと、ぽつりとそう告げた彼のさみしそうな笑顔が、忘れられない。

 空になったマグカップを机の上に置き、カーテンの隙間から見える夕焼けを眺めた。燃えるようなオレンジ色の夕日は、なぜかいつもより心に染みた。

***

 部屋に入ってきたオールマイトに、わたしは黙って両手を広げた。

「なに? どうしたんだい?」
「なんとなく、こうしたい気分なんじゃないかなあと思って」
「くっ……」

 オールマイトが楽しそうに目を細めた。これは彼の心からの笑顔。
 甘えるようにハグをして、それから彼は、わたしをひょいと抱き上げた。

「まったく……君にはなんでもお見通しだな」
「なにがあったんです?」
「こないだね、あるところに出かけてきたんだけど、そこでいろいろ思うところがあったんだよ」

 わたしを膝にのせたままソファに腰掛けたそのひとの顔を見て、詳細を語りたくないのだろうと察してしまった。

「大丈夫ですよ、詳しく言わなくても。話せることだけ話してください」
「まいったな。君の個性、本当は千里眼なんじゃないのかい?」
「そんな個性だったら、確かににいいでしょうね」
「いや。透視とか予知なんでものはさ、視たくないものまで視えてしまうだろ? それはそれで、きっとつらいことだろう。私は君の個性が芳香でよかったと心から思うね」

 おどけた口調ではあったが、それは表面だけのこと。やはり今日のオールマイトは、どこか憂いをおびている。

「あのさ……」
「はい」
「これは君が同業者だから言えることだけど」
「はい」
「ヴィラン連合の中心人物。知っているだろ」
「若い男ですよね。たしか、死柄木といいましたか」
「それは、彼の裏社会での通称だ。彼の本名はね、志村転狐」

 絞り出すような悲痛な声に、はっとした。
 たしか、彼の師匠は、志村という名ではなかったか。

「察したって顔だね。そう、君の予想通り、死柄木弔は私のお師匠の身内だ」
「お身内……」
「孫だそうだよ」

 眼を伏せながら、オールマイトが続ける。

「私は、USJを襲撃した死柄木弔を下した。何も知らずに」

 自分を責めるような声。
 ああ。どうしてこのひとはこうなのだろう。
 オールマイトは、死柄木をくだしたことを後悔しているのではない。闇へと墜ちた師匠の孫と対峙しながら、その心を救えなかったことを悔いている。
 そして同時に、恩人の孫がヴィランに墜ちたと知らなかったことに、彼は怒りを感じている。その怒りの矛は、ヴィランだけでなく、おそらくオールマイト自身にも向けられている。
 知らなかったから仕方がない。普通の人ならそう思う。だがオールマイトは違う。知らなかった自分のことを許さない。
 一般人には限りなく優しく、悪と己に厳しい。平和の象徴と謳われたオールマイトというヒーローは、そういう人だ。

 ここで死柄木弔がヴィランになったことを「墜ちた」と表現するのは、我々がヒーローサイドの人間だからだ。
 現実というものは、時に見る者によって姿を変える。我々から見て不幸であることが、ヴィラン側にとって、そうであるとは限らない。
 死柄木という人物の目を通したら、我々が見ているものとはまったく違うものが見えてくることだろう。
 もちろんオールマイトも、きっとそれを知っている。それでも彼は悔いずにはいられない。かの恩人の身内が、巨悪に選ばれてしまったことを。

「平和の象徴などと祭り上げられていたが、私は恩人の身内すら救えなかった大馬鹿者だ。お師匠の孫が、悪に絡め取られたことにも気づかずに……」

 慰めの言葉を探し、そんなものなどありはしないのだとわたしは一人唇を噛んだ。
 この脆くて弱くて、そして誰より強くあろうとしたひとは、安易な慰めなどいっさい必要とはしていない。
 このひとを守り、慰めようなどと思うことそのものが、おそらくこちらのエゴなのだ。
 だからわたしは何も言わずに、オレンジ・スイートにゼラニウムを交えた香りを放った。
 ストレスに効く、癒しの香りを。

 それに気づいたオールマイトが、口角をあげた。

「いい香りだね。オレンジかな」
「はい。オレンジはリフレッシュとリラックスに効果があるんです。胃腸にもいいんですよ」
「それはいいね。胃袋がないぶん、私の腸は大忙しだろうから」

 存分に癒してくれ、とオールマイトがわたしの髪に唇を落とす。
 その瞬間、嫌な想像が鎌首をもたげた。いつか、この死柄木という人物が関わることで、オールマイトの身に何かがおきるのではないのかと。それはわたしの考えすぎなのだろうか。

「私はね。お師匠に返しきれない恩があるんだ」

 それは知っている。オールマイトの中で、志村菜奈という人はとても大きな存在だ。
 彼にとって、師匠であり、おそらくは初めて意識した異性であろうひと。彼がここまでの恩義を感じている理由は、わからないけれど。
 するとわたしの心を読んだように、オールマイトが呟いた。

「詳しいことは話せないけれど、私は……なにも持たずに生まれたんだよ」
「はい?」
「梨香。君は私の足の小指の関節がいくつあるか知っているかい?」

 転瞬、室内の温度が一気に五度ほど下がったような気がした。
 なんと返していいかわからない。今、彼の口から漏れた言葉から察せられることは、ただひとつ。
 オールマイトになる前の彼が、八木俊典が、無個性であったということだ。

「これを知っているのは、ごく一部の者だけだけどね」

 どういう経緯で、彼が個性を手にしたのかはわからない。
 だが世の中には数多くの個性がある。だから「個性を譲渡する個性」というものが存在していても不思議ではない。きっと、そういったことなのだろう。
 そして彼は、まだまだわたしに秘密にしていることがある。今、彼が個性に関することの詳細を語らなかった、いや、語れなかったのはそのためだ。
 けれど、重大な秘密の一部をわたしに話してくれたことが、ただ嬉しかった。
 だからわたしは黙ってうなずく。

「真実を知って、がっかりしたかい?」

 自信なさげにオールマイトが微笑んだ。その作り笑顔を見て、また思う。
 翼を持たずに生まれたこのひとを、誰より強く深く尊敬すると。
 無個性というとてつもない障害を乗り越えて、このひとは翼を勝ち取った。そこに至るまでの努力と苦悩は、いかばかりであっただろうか。
 現在ほどではないけれど、当時もきっと、無個性者に対する風当たりや偏見は強くあったに違いない。
 おそらくそれは、真っ暗な土砂降りの嵐の中を、灯りも傘も持たず、ただひとり歩み続けるような日々だったことだろう。
 そしてだからこそ、あの強い個性が生まれながらに得たものでなかったからこそ、このひとは自己を犠牲に世界を守る、幸福の王であり続けたのだ。

「違いますよ、俊典さん」
「ん?」
「あなたはたゆまぬ努力によって、その翼を勝ち得たんです。それはどれだけ大きな翼をもって生まれた人よりも、ずっとすごいことです」
「……君は、お師匠と似たことを言うんだな」

 ありがとうと続け、泣きそうな顔で愛しい人は笑う。いいえとわたしはいらえて、笑う。
 わたしにできることは、ただそば近くにいることだけだ。この強くて優しい人が、少しでもよい夢を見られるよう、祈りながら。

「君がいてくれてよかった」

 そう告げながらわたしの額にキスを落としたひとの骨の浮いた背中に、大きな天使の羽根が生えているのが、見えたような気がした。

2017.3.26

オールマイトの小指の関節については原作では触れられていませんが、そうなのかな?と思ったので書いちゃいました。

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