夜半の秋

 涼風が木の葉を揺らす音がやけに心寂しく聞こえ、ため息を落とした。
 昼間の、緑谷少年とのやりとりを思い出す。少年が望んだ、サー・ナイトアイへのインターン紹介を断ったことは仕方がないことだ。とはいえ、ナイトアイと決別するに至った理由を思うと、やはりこたえた。

 自分が頑なであるということも、本当はよくわかっている。それでも、己を曲げることはできなかった。
 六年前のあの時、私はどうすればよかったのだろうか。
 今さらそんなことを考えても、もはやどうにもならないのだが。

 こんな夜は、梨香に会いたい。

 そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
 今から部屋に行ってもいいかい?
 携帯端末から、そんなメッセージを送った。即座に返ってきたのは「いいですよ」という返信。「ありがとう。君の好きそうなワインがあるんだ。持っていく」と返してアプリを閉じた。
 梨香はこうして、いつでも私を受け入れてくれる。

 雄英が寮制になったと同時に、梨香は自身のアロマサロンを休業した。内通者疑惑等が落ち着くまで、そうするつもりでいるようだ。
 事業が縮小したことで意気消沈しているかと思えば、そうでもないようだ。一年ほど前から準備していた大きなプロジェクトが、やっと形になるらしい。

 それは、国内最大手の化粧品メーカーとの仕事だった。メーカーが新たにエッセンシャルオイルを使ったブランドを立ち上げる。梨香は、そのイメージキャラクターに抜擢された。それだけではなく、香りのブレンドにも一役かっているらしい。
 芳香ヒーローマドンナリリープロデュースの製品をまじえたそのブランドは、来月頭に始動する。
 近々、ブランドロゴをバックに花とハーブを抱えて微笑む彼女のポスターを、いろいろなところで目にするようになるだろう。
 うまくいくといい。愛しい人が成功するのは嬉しいことだ。

***

 ワインを片手にチャイムを押した。はい、という声と共に扉がひらく。

「遅くにごめん。どうしても君に会いたくなった。おかしいよな。明日も学校で会えるのに」
「いいえ、会いたいと思ってもらえて嬉しいです」

 どうぞとうながされ室内に入ると、テーブルの上にはすでに数種類の皿が並べられていた。食事はお互い済んでいるので、ワインにあわせた軽いつまみだ。
 オイルサーディンにニンニクとハーブとレモンを加えて、温めたもの。ニンジンやパプリカ、セロリやきゅうり等スティック野菜のピクルス――これは梨香のお手製だ――。そして直径8センチくらいのちいさなピザが数枚。

「こんな小さなピザ、売ってるんだ」
「それね、餃子の皮で作ったんですよ」
「え? まじで」

 ワイングラスを出しながら、うふふ、と梨香が嬉しそうに笑う。

「餃子の皮にオリーブオイルとケチャップを塗って、プチトマトとバジルとチーズをのせてオーブントースターで焼いたんです。簡単ですけど美味しいんですよ」
「なるほど」

 梨香はいつも、ありあわせの物でささっと美味しいものを作ってくれる。まるで魔法だ。

「この銘柄、わたし初めてです」
「モルドバのマスカットワインだ。なかなか美味しいよ」
「楽しみ」
「あっ、私はここまでね」

 ワインを注ぐ梨香に、グラスの真ん中あたりを指差してそう言うと、はいと返事が返ってきた。
 職場では下戸で通しているが、実は少量の飲酒は許可されている。もともとワインは嫌いではない。だからワインが好きな梨香と一緒にいる時は、ほんの少し口にする。

「蜂蜜みたいな香りがしますね。味はやや甘め、かな?」
「好きだろ?」
「ええ」

 グラスを傾けながら、他愛ない話を続けた。
 梨香はこういう時、よけいなことをあまり問わない。黙って抱きしめてくれることもあれば、今のようにこちらから語るまで待っていてくれることもある。
 重要な部分をぼかして語っても、ぜったいに怒ったりしない。話せることだけ話してくださいと、梨香はいつも、笑顔で言ってくれる。

「今日さ」
「はい」
「私、職員室で緑谷くんのインターン紹介を断ったろ」
「はい」
「あれがちょっと気にかかってる。仕方がないことなんだけどね。ナイトアイには合わせる顔がないから」
「……サー・ナイトアイの独立は、きわめて円満になされたと思っていましたが」
「手続き上は、全く揉めていないよ」
「そうですか」

 大抵の女性は、ここで何があったか聞いてくる。けれど、彼女はそうしない。

「君はいつも、つっこんだことは聞かないんだな。ナイトアイと私の間で起きたこととか、ぜんぜん興味ない?」
「聞きたいのはやまやまですが、言いたくないものを無理に言わせることもないかな、と思いまして」
「君のそういうところ、大変ありがたいけどさ、男にとって都合のいい女にならないよう気をつけろよ」
「それは、俊典さんしだいだと思いますけど」

 たしかにそうだ、と苦笑した。私の聖母は存外鋭い。
 現在、梨香の優しさにつけこむことができるのは私だけだし――他の男にそんなことさせない――実際に甘えているのもまた、私自身だ。

「それに、おたずねしたら教えてくれますか?」
「う……」

 応えあぐねて、頭を掻いた。
 ナイトアイとの決別理由は、重たいものだ。かつての妻が心を壊した原因のひとつでもある。この重荷を梨香に背負わせていいものか。

「ね。だからわたしからはききません。前にも言ったでしょう? おいおい話してくれれば、それでいいって」
「うん……」

 その言葉を聞いた時のこと、よく覚えている。オールフォーワンと戦ったすぐあとのことだ。
 あの時、百合の香りがする病室で「生涯かけて私を癒して」と梨香に告げた。あの言葉は、自分なりのプロポーズのつもりだった。
 その後タイミングを逃し、話を煮詰めていないが、私は今もそのつもりだし、梨香もそう思っているはずだ。
 それなのに、このままナイトアイとのいきさつを伝えないのは、卑怯であるような気がした。

「梨香、実はね……」

 話を切り出したのと、私の携帯が鳴ったのが同時だった。画面に浮かんだのは「塚内直正」のという名前。
 察したように微笑んだ梨香にゴメンと手で合図を返して、席をはずした。

***

 塚内からの連絡は、ヴィラン連合に関するいくつかの新しい情報だった。それらにどう対応していくか、個人的な考えを互いに述べて、電話を切った。

 部屋に戻ると、梨香はテーブルの上につっぷしてうたた寝をしていた。見ると、ワインの瓶が空になっている。そんなに長く電話していたのかと自分に呆れ、息をついた。

 よく考えたら、ここ最近の梨香は死ぬほど忙しかったはずだ。
 新ブランドのCMやポスター撮り、新生活と新学期の準備。担任は持っていないが、そのぶん、寮の見学を希望する保護者への対応を任されてもいた。
 それなのに、いつも梨香は何かしらの料理を用意し、笑顔で私を迎えてくれた。
 私はそれを、当たり前のように受け止めてはいなかっただろうか。

 熟睡している梨香をそっと抱きかかえて、ベッドルームまで運んだ。
 食器やグラスを食洗機にかけて――最新式の食洗機はクリスタルのグラスを曇らせることなく洗い上げる――、テーブルの上も片付け、二人で眠るにはいささか狭いベッドにもぐりこんだ。

 もうこのまま、今夜はここに泊まってしまおう。
 ん……と色っぽい声をあげた梨香を抱きしめて、背中をぽんぽんと叩く。
 もろもろの、語らなくてはいけないことは、また明日に。
 朝、目が覚めたら、寝落ちしまったことを知った君は、きっと慌てふためくことだろう。目に浮かぶようだ。

 幸せな気持ちになりながら、おやすみ、と小さくささやいて、サイドテーブルのあかりを落とす。
 甘い梨香の香りとともに、やわらかな闇が下りてきた。

2017.7.6
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