「なんだよ少年! かっこいいじゃないか!!」
思わずそう口に出してしまっていた。
彼―緑谷出久―は指一本を犠牲にして、ワン・フォー・オールを発揮したのだ。最小限の負傷で最大限の力を引き出す……こんなことをさらりとやってのけるとは。
「オールマイトさん、何をされてるんですか?」
背後から声をかけられた。この声はおそらくマドンナリリーだ。
振り返ると、そこには予想通りの人物が、柔らかい笑みを浮かべて立っていた。
「ああ。ちょっと気になる子がいるんだよ」
「そうなんですか……ああ……緑谷くん……ですか?」
「すごいな。もう生徒の名前を覚えているのかい?」
「あの子はちょっと特別ですよ。実技ポイントが0だったのに、レスキューで高ポイントを叩きだして合格を決めるなんて。今年の新入生は目立つ子が多いですが、緑谷くんは彼らとはまたちょっと違うというか……アンバランスなところが妙に気になるというか」
なるほど鋭い。確かに今年の新入生……殊にA組は人材が豊富だ。
一連のヘドロ事件で、周囲にそのタフネスさを知らしめた爆豪少年。人気ヒーローを兄に持つ飯田少年。そしてエンデヴァーの息子である轟少年。
現時点で頭角を現しているのは、この三人だろう。だがその中で、緑谷少年に目をつけるとは……このひとは、酒癖は悪いがなかなか見る目があるようだ。
「緑谷くんの個性というか、戦闘スタイルは、少しオールマイトさんに似ているような気がします。だから気にかけているんですか?」
「ンン。まあ、そんなようなものだね」
やはり鋭い。
マドンナリリーの個性は、はっきり言って強くない。体術を極めたといっても、女性のそれだ。一般人相手ならなんとかなるかもしれないが、強力な個性をもったヴィランを相手にするには厳しいだろう。
それなのに彼女は、雄英に就任した今となっても、名のあるヒーローからチームアップの要請がある。それはおそらく、この鋭い分析力によるものに違いない。
サポートに徹しながら、冷静さを失わず正確な判断を下せるヒーローは、現場でもたいへん重宝される。
マドンナリリーはだめな男に弱いとプレゼント・マイクが言っていたが、この分析力がどうして恋人を選ぶときに発揮されないのかと思いかけ、私はかぶりを振った。
いや……おそらく、このひとは、発揮していてああなのだ。
相手の男が駄目であればあるほど惹かれてしまう。そういう女性がたまにいる。このひとは完全にそのタイプだ。
マドンナリリーは実にあぶなっかしい。優しすぎる。こういう母性にあふれた女性は、得てして、悪い男につけいられやすい。
人に優しくしたいと思うその気持ちは悪いことではない。だがそれにも限度がある。
私を自宅に招いてアロママッサージをしてくれたのも、たぶん似たような理由からだ。別れた妻の結婚式を見に行く男に同情した……おそらくはそんなところだろう。
同僚とはいえ、知り合って間もない男を家に上げることの危険性もわからぬような年齢でもないだろうに。
「オールマイトさん」
「なんだい」
「今夜、お暇ですか?」
「えっ?」
驚きに、声が裏返った。
おいおい、マジか。いや、まて、違う。
マドンナリリーは恥ずかしそうに、こちらを上目づかいでみているけれど、彼女の意図は、おそらくきっとそうじゃない。
「お身体、また硬くなっていませんか? よろしければまた施術しますけど」
「あ……ソウダヨネ。うん、暇。身体、硬いよ。がちがち。頼む」
おいおい、どうした私。なんで片言になってるんだ。
片言はさておき、前回マドンナリリーにマッサージしてもらった後、しばらく身体が軽かった。またしてもらえると、とても助かる。
しかし本当に、彼女は私を聖人かなにかだと勘違いしてはいないか。
信頼してもらえるのは嬉しいことだが、私にも多少の下心みたいなものはあるんだよ。
「今日は予約も入っていませんし、何時からでもいいですよ。ただ施術の前後一時間はお食事をとらない方がいいので、そこだけ気をつけてくださいね」
「あー、私、六時に軽食を取る予定だったから、七時半くらいからなら大丈夫かな?」
「はい。大丈夫です」
「オーケー。じゃあ七時半前後に君の家に行くよ」
「ご利用ありがとうございます」
そう言って私を見上げたマドンナリリーは、絵画の中の聖母のような慈愛にみちた微笑みを浮かべていた。
***
「どうぞ」
やわらかく笑まれて、室内に通された。アロマサロンといってもここはマンションの一室だ。
施術室はきちんと雰囲気づくりされているが、そこに通されるまでの空間は、全く普通の家だった。
女性の一人暮らしの部屋を訪れたとき特有の、くすぐったさをわずかに感じる。
施術室に通され、上半身裸になり、マッサージベッドにうつぶせになった。
と、室内の灯りが弱められた。白色の灯ではなく、やさしい黄色の淡くて弱い光。
ヒーリング音楽が流れる中で、背中に人肌に温められたオイルが垂らされる。ぬるりとした感触と共に、清涼感のある香りが漂ってきた。これはミントだろうか。
「今日は血流促進にローズマリー、鎮静作用としてマジョラムとペパーミントをブレンドしました。苦手でしたらおっしゃってくださいね。別の香りに切りかえますから」
「いや、問題ないよ。いい香りだ」
私はふうと息をついた。それにしてもマドンナリリーの施術は落ちつく。小さな手のひらから放たれる心地よい香りと、的確な施術。
このひとといると本当に癒される。
これは芳香の個性と、マッサージの技術のせいだけではない。おそらくはマドンナリリーの中にある聖母じみた優しさが、疲れた男を癒すのだ。
優しい癒しの手技に酔いながら、この至福の時間が毎日だったらいいのにと、そんな馬鹿げた考えが頭の端に浮かんでは消えた。
施術の一時間はあっという間に過ぎ去った。
「オールマイトさん」
Yシャツに袖を通している私に、マドンナリリーが声をかけてきた。
「苦手でなければ、お茶でも飲んでいってください。施術のあとは喉が渇くでしょう? この間は出しそびれてしまいましたが、私、いつもお客様にはハーブティーかフレーバーティーをお出ししているんです」
「いや……それはやぶさかじゃないけれど……」
「よかった」
私の応えに、マドンナリリーは嬉しそうに笑った。
百合に似た、だがそれよりもずっと甘くて濃厚な香りが、このときふわりと漂った。これは何の香りだろう。ずっと嗅いでいたいような、そんなあとを引く香りだった。
どうぞ、とダイニングに通されて、私は慌てた。
そう広くないダイニングの左手には開き扉がある。おそらくはそこを開けた先が、彼女の寝室なのだろう。
あのね、マドンナリリー、と、私は心の中で嘆息した。
女性客ならここに通しても構わないと思うけど、何度も言うが私は男だ。君は体術を極めたつもりかもしれないが、相手が私ではどうしようもないぞ。この姿であっても、君程度なら、いくらでも好きなようにできるんだ。
もし私が悪い気持ちを起こして、君をあの扉の向こうに連れていったらどうする。最悪の事態が訪れるぞ。少しは警戒してくれよ。
こんなふうに思ってしまうのは、私がおじさんだからなのか。今の若い連中は、私とは少し感覚が違うのだろうか。
別れた元妻はプレゼント・マイクと同じ年……つまりはマドンナリリーと同世代だ。でも元妻は、もう少し思慮深かった気がする。ここまで無防備ではなかったと思うのだ。
「そこにお座りになって、お待ちくださいねー」
私が考えていることなど知らぬ様子で、マドンナリリーはふわりと笑った。
リリーとはよく言ったものだ。華やかで清楚なイメージがある百合の花は、たしかに彼女に良く似合う。ダメな男に翻弄されて生きるこのひとは、まるで風の中の白百合だ。
自分には少し小さめのダイニングチェアに腰掛けて、私はマドンナリリーの様子を眺めた。
「常連さんからいい紅茶をいただいたんです。お花とフルーツの香りでリラックス効果があるんですが、それでもいいですか?」
「ああ、ありがとう」
マドンナリリーが勧めてくれたのは、フランスのメーカーの有名なフレーバーティーだ。東方見聞録の作者の名を冠したその銘柄は、紅茶にうとい私も知っている。
白い陶器のティーポットに葉を入れて、マドンナリリーは丁寧にお茶を淹れてくれた。流れるような仕草と、体術を極めている割には細くて長い指がとてもきれいだ。今まで気がつかなかったけれど、彼女の爪には淡いベージュピンクのマニキュアが塗られていた。
あのほっそりとした指が、先ほどまで自分の背に触れていたのだ。そう思った途端、腰の奥がずくりと疼いた。
これは、よくない。
「君のヒーローネームには、なにか由来はあるのかい?」
「えっ?」
黙ったままでいると妙な気分が高まるばかりだ。気持ちを変えようと、私は前から気になっていた疑問を口にした。
「いや、個性と名前の関係性が見つけられなかったからさ。マドンナリリーって庭白百合のことだよね。マドンナリリーは聖母マリアの象徴でもある花だけど、百合だったらカサブランカや鉄砲百合の方が、なじみがあるんじゃないかと思ってさ」
「名前の元ネタは、わたしが子供の頃に好きだった絵本なんですよ」
ふふっと笑いながら、マドンナリリーが白磁のカップに淹れた紅茶を、私にすっと差し出した。
「絵本?」
「ええ。高校のときに、こんな『絵本が昔あって〜』ってマイク先輩たちと話していたら、『それ、お前にぴったりじゃん。それをそのままお前のヒーローネームにしちまえよ』って」
「え、じゃあ、マイクくんが君のヒーローネームの名付け親なのかい」
「そうなんです」
雄英では、高校一年の職場体験の前に、ヒーローネームを決めさせられる。高校のときに決めた名をずっと使わなければならないというルールはないが、その時の名前をそのまま使っているプロヒーローは多い。
だがなぜだろう。この時、もやもやとしたなにかが、心の中に生まれた。
「へえ、ずいぶん仲が良かったんだ」
「そうですね。マイク先輩たちには可愛がってもらいました」
「ふーん。で、その絵本はどんな内容だったんだい?」
「昔々……ではじまるおとぎ話ですよ」
「うん」
「触れるだけで相手を癒す個性を持った、修道女のお話です」
また、ふわりと百合の花に似た甘い香りがした。濃厚で甘くてエキゾチックで、男の官能を呼び覚ますような、そんな香りだ。
「あの日、その修道女……ペリーヌって名前なんですけど……が倒れている男のひとを助けるんです。男は数え切れないほどの人を殺めた大悪党だったんですけど、個性を使って献身的に看病するんですよ。で、いつしか、悪党がペリーヌを好きになっちゃうんです」
「ベタだな……」
「ベタですね。でも悪党はやっぱり悪党で、修道女であるペリーヌが自分のものにはならないことを恨んで、彼女を殺してしまうんです。その死の寸前に、彼女はしずかに笑うんですよね」
「子どもむけなのに、ずいぶんハードな内容だね」
にこにこしているマドンナリリーを見おろして、私は紅茶を一口飲んだ。華やかで甘い香りが口腔内にひろがる。
ああ、このひとは紅茶を淹れるのも上手だな、と密かに思った。
「ですよね。でも死ぬ寸前に、彼女の体に変化が起こるんです。奇跡が起きて、ペリーヌは白い百合になるんです」
「あー、それが庭白百合なんだ」
「そうなんですけど、この話にはまだ続きがあるんです」
「続き?」
「ペリーヌが百合の花になるのと同時に、根元に小さな泉ができるんです。そこでまた奇跡が起こるんですよ。泉の水は万能薬になるんです」
子どもむけの絵本らしいご都合主義だ、と私は思った。世に万能薬なんてものがあったなら、だれも苦労はしない。私もいますぐ欲しいくらいだ。
「彼女は死してなお、人々を救おうと……癒そうとするんですよ。その志、尊くありません?」
「ン……それはどうだろうね。でもそのお話はルルドの泉の伝説に、花とシスターのエピソードを肉付けしたような話だと思うよ。なぜ君は、この話が好きだったんだい」
たぶん、と前置きしてから、マドンナリリーがいらえた。
「殺される寸前に、彼女が笑ったからだと思います。死ぬ寸前に笑うって、すごいことですよね。すべてを覚悟し受け入れて笑うって」
確かにすごいかもしれないが、それを手本にするのはやめろ。
必要以上の利他主義は、最悪の利己主義に等しいものだ。自己犠牲を美化するのは、本当によくない。
まあ、私が言っても、何の説得力もないのかもしれないが。
「だからわたし、ペリーヌのように生きたいと、ずっと思っていたんです」
なるほど、このひとがダメな男に惹かれる根源はここか。
だから弱い男は助けたいし、裏切られても悲しみはするが恨まない。自分を売ろうとした男に、ポンと大金を渡してしまう。そしてどれほど泣いても、彼女はきっと別れた男を最終的には許すのだろう。聖母のように、やさしく静かに笑みながら。
そう思った瞬間、なぜだろう、ひどく胸がむかむかした。
決めた。
私はこのひとのヒーロー名を、ヒーロー活動時以外の場で呼んだりしない。絶対にだ。
ヒーローは、綺麗事を笑顔で実践するお仕事だ。だが公人でいるときはともかく、私人である時は自己犠牲の精神を捨てさせたい。
でないとこのひとは、これから先も幸せになれない。
「芳月くん」
「……はい」
いきなり本名を呼んだので、芳月は少し驚いたようすだった。
「マドンナリリーはいいヒーロー名だと思うけど、プライベートではあまりそこに囚われないようにね」
「はい」
さて、この後どう伝えていこうかなと頭を掻いたその時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「はーい」
大きな声で返事をし、芳月がばたばたと玄関へ向かっていく。それとほぼ同時に、がちゃりという音がした。玄関の扉を開けたのだろう。
おい、ちょっと待て。ちゃんと外の様子を確認したか。
今は私がいるからいいが、ひとりのときにもそうしてるんじゃないだろうな。今どきは小学生でも、もう少し警戒心を持ってるもんだ。
あーもう。ほんとにもう。ほんっとにほっとけないな、君は。
「こんばんは。連絡しないで来ちゃってごめんねー」
「それはいいですけど、今日はいったいどうしたんですか?」
「どうもこうもないわよー。ぼっろぼろに疲れちゃったからさ、癒されたいのよ。今から施術頼んでもいい? ……って、なにこの超デカい靴!! 女物じゃないわよね。梨香、新しい彼氏できたの? ちょっと、紹介しなさいよ!! ついでに、独身でイケメンのお友達がいたら、あたしに紹介させなさい!!」
聞き覚えのある声と押しの強い言いように、嫌な予感がした。
「いやあの、違います……彼氏じゃないですから!……ねえ……ちょっとまって……」
制止する芳月を振り切って、声の主はずかずかと室内に中に入り込んできた。
「彼氏さん、こんばんはー! はじめまし…」
声の主は、途中で言葉を失って、酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせている。
いきなりの乱入者は、私と芳月が毎日のように顔を合わせている同僚の一人、十八禁ヒーロー・ミッドナイト、その人だった。
2016.5.11
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