昨夜あのあと、私と芳月はそういう仲ではないんだとミッドナイトに説明したが、あれはぜんぜんわかっていない顔だった。「大丈夫ですよ、オールマイトさん。梨香も任せて、悪いようにはしないから」などと言っていたが、あの顔では絶対に悪いようにしかならない。間違いなく。
職員室の前で、私は軽く深呼吸をした。中はややざわついている。この活気はいったいどういう種類のものだろうか。少し嫌な予感を覚えながら、私はからりと戸を開けた。
とたんに、水を打ったようにしんと静まりかえる我が職場。
嫌な予感は的中した。
この雰囲気は、私と芳月の噂でもしていた感じだ。まったくと心の中で嘆息し、自身のデスクに腰掛けた途端、相澤がぼそりと言った。
「……ったく、似た者同士でなにやってんだか……」
似た者同士? 似た者同士って、もしかして芳月と私のことなのか。
それにしても、どこが似ているのか皆目見当もつかない。
それはともかく、言いふらされたことが事実ならばかまわないが、私と芳月はそんな仲ではない。人の噂も七十五日と言うけれど、男の私はともかく若い女性である芳月にとっては、歓迎できるような話ではないだろう。
これ以上あらぬ誤解を受けることがないよう、気をつけなければ。
「オールマイト!!」
「わっ!?」
いきなり声をかけられて、飛び上がらんばかりに驚いた。
考え事に夢中でまったく気がつかなかったが、校長が私のデスク上にちょこんと乗って、ちいさく首をかしげている。
「あのさ、悪いんだけど、ちょっと校長室まで来てくれる?」
校長にまで話がいってしまったのか。私は今朝何度目になるかももうわからないため息を、またひとつついた。
***
静かな住宅街に、そのマンションはあった。単身者、あるいは若夫婦向けの、こじんまりとした三階建の鉄筋住宅だ。
その三階の一室の前で、私は朝と同じように軽く深呼吸をした。
まったく今日はさんざんだった。
あの後、校長から、「あの子はいい子だ。大事にしてやってくれ」と何度も言われた。
どうやら校長も、芳月の男運の無さについてずっと心配していたらしい。だが私と芳月はそんな仲ではない。だから校長の言葉に是と応えることはできない。
しかし誤解であると弁明すればするほど、校長はしつこく念押ししてきた。
そのうち「認めないということは、初めから遊びだったのか」などと眦をあげはじめたからたまらない。
認めろ。誤解です。というやりとりを繰り返すうちに授業の時間になってしまい、私は逃げるように校長室を後にした。が、これはこのままではすまない気がする。
実に面倒なことになったものだ。
昼間のことはさておき、深呼吸を一つしたあとインターフォンを押す。すると機械の向こうで「はい」と芳月が返事をした。一人のときはきちんと誰何の声をあげるのだなと安心し、「私だ」と応える。
数秒後、かちゃりと鍵とチェーンを開ける音がして、扉が開いた。
「どうぞ」
芳月に促され室内に入り、自分には少し小さいダイニングチェアーに腰を下ろした。
お茶を……とキッチンに向かおうとする芳月を制して、座るように声をかける。芳月は少し不思議そうな顔をして、それでも黙って私の正面に腰掛けた。
「今日はどこがお疲れですか? マッサージが原因でなにか不調が出てしまったのでしょうか?」
「いや……そうじゃないんだ」
私はここで言葉を切った。話すためにわざわざ来たのだが、やっぱり面と向かっては言いにくい。
「こういうの、やめた方がいいんじゃないか」
「こういうのって、なんですか?」
「私がここに来て君の施術を受けることだよ。学校でも噂になってしまったし」
「あー、そんなの大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないだろ」
「平気ですよー。オールマイトさんと噂になれるなんて光栄です。それに、オールマイトさんは私をそういう目で見てはいないでしょう?」
今の一言は、私の心の中をひどく波立たせた。
「あのね、私だって普通の男だよ。こうして二人きりでいたりしたら、悪いことを考えるかもしれない。君は危機感がなさすぎる」
「そうですか?」
「長年の友人関係であるなら別だが、私と君は知り合ってひと月くらいだろう。有名であるとか、地位や名声があるとか、そんなもので人を見てはいけないよ。絶対安全な男なんていやしないぞ」
「わかってますよぅ」
間延びした声がますます神経を逆なでする。
いや、君は絶対わかってないだろう。私はそう思うのと同時に立ち上がり、芳月の目前まで移動した。
「え? オールマイトさん……どうしたんですか?」
呆けたような声を出す芳月の手首をとらえて、ぐいと手を引き無理矢理立たせ た。そのまま自分の身体ごと反転させて、芳月を背後の壁に押し付けた。
その上で、だん、とわざと音を立て、左手を芳月の右肩のわきについた。
「君さ、私のこと安パイだと思ってるだろ」
この言葉と同時に、右手を芳月の顔の横におき、逃げられないよう身体を屈める。
「私もね、そういつまでも紳士じゃいられないんだぜ」
この時、またあの濃厚な香りがただよった。百合に似た、百合よりややオリエンタルな、甘く濃厚な香り。男の官能を呼び覚ますような、そんな香りだ。
芳月は少し困ったような顔をして、ぽそりと言った。
「でも、オールマイトさん、わたしが泥酔した時に何もしなかったじゃないですか。エッチなことをしようと思ったら、きっとあの時にしてますよね」
「あの夜は、君が泥酔していたからだ。前後不覚になった女性を抱いても、たいして面白くからね」
「えっと……あの……じゃあオールマイトさんはわたしとそういうことをしたい……ってことですか?」
「いや、そうじゃなくて。噂に対しても、男全般に対しても、いろんな意味で気をつけろって言ってるんだよ、私は」
だいたい、なんだ。私が君としたいと言ったなら、君はさせてくれるのか。そんなことまで慈愛の精神で許すのか。他の男にもそうしてきたのか。
黒い気持ちに侵食されそうになって、私は必死に自制した。
芳月は人がいいけれど、そういう類の女性じゃない。それは先日私の家に泊まった朝の、泣きそうな顔を思い出せばわかる。
簡単に男と寝ることができるような女性は、男の家で目覚めた朝に、あんな顔をしたりはしない。
「……すみません」
「いや……」
今、私の心を支配しかけた黒い感情はいったいなんだ。私はただ、この無防備なお人よしを救けたいだけのはずだった。そのはずだろう。
芳月は私の心の中の動揺に気づかず、遠慮がちに続ける。
「私、オールマイトさんを癒したいんですよね……せっかくこんな個性に恵まれたんです。少しでもお手伝いできたら……と思うんです……」
ああ、もう。本当にもう。そんなことを言われたら、大抵の男はノックアウトだ。
自分がただの男であることを再認識させられた気がして、私は軽く眉を寄せた。
「でも……噂に関しては、オールマイトさん……困ってますよね。わたしとのことで、校長から注意をうけたとも聞いています」
私の今の表情を勘違いしたのか、芳月が悲しそうにつぶやいた。
そっと伏せられた目が色っぽい、と思った。
その瞼に口づけてしまいたい。この腕の中にいる芳月を、いっそこのまま私のものにできたなら。
だが次に芳月の口からでた言葉に、私は冷水を浴びせられたような気分になった。
「だから……やめますね」
「えっ?」
がつん、と鈍器で頭をぶんなぐられた、そんな気分だ。
自分が必要以上にショックを受けていることに、ひどく驚く。と、同時に、私は思った。
なにをしに、自分はわざわざここに来たのかと。
芳月の家まで押しかけて、彼女を壁に押し付け自分の腕の中に閉じ込めて、男にも噂にも気をつけろと説教するなど、そんなふざけた話があるか。
こんなこと、電話一本ですむことだ。校長はすこしやっかいだが、それでも会うのをやめていれば、噂もそのうち消えたはず。
なのに、どうして。
「でも本当に、施術はいつでもしますから。リカバリーガールの許可を得て、保健室を使わせてもらえば大丈夫ですよね。もちろんリカバリーガールには同席してもらって」
「……それなら問題ないね……うん……」
それは自分でも驚くくらい、平坦で感情のこもらぬいらえだった。
そして私は、自分でも引くほど落胆しながら、芳月のマンションをあとにした。
***
理由がみつからない喪失感に襲われながら、私は教師としての職務に精を出していた。カンペはまだ必要ではあるものの、仕事にもやや慣れてきた。
だが、そんなある日、世間を騒がす事件が起きた。
雄英高校の施設―USJ―が、ヴィランの襲撃を受けたのだ。よりにもよって、生徒たちの救助訓練の最中に。
そこで私の弟子がけがを負い、教師二名も重傷をおった。
なんとか現場にたどり着きヴィランを撃退することはできたが、首謀者を取り逃がしたのは痛かった。
だが、なにより私の精神を消耗させたのは、ヴィランの目的が自分であったというそのことだった。自分を狙ったヴィランのせいで怪我を負った仲間や生徒がいる。そう思うだけで、自分の不甲斐なさにふつふつと怒りが湧いてくる。
「もう九時か……」
腕時計に目をやり、私はそうひとりごちた。
体力が回復するまで保健室で休んでいたら、こんな時間になってしまった。
明日は臨時休校になったものの、それは生徒たちだけの話。我々教師陣には今後の在り方や対策を検討するための会議が待っている。
だが今日は、もう何も考えたくない。早く身体を休めたい。あまりに疲れた。
そう溜息をついた瞬間、エントランスの植え込みの前に立ちつくす、見覚えのある女性の姿に気がついた。
「芳月くん?」
疲れも忘れて駆け寄ると、芳月は一瞬だけ泣きそうな顔をして、次に笑った。
「……オールマイトさん……お疲れ様です」
「なにやってるの、君。今日は広島に出張だったはずじゃないのかい? どうして……」
「USJ襲撃の連絡を受けたので……出張を切り上げて新幹線で帰ってきました。そうしないと明日の朝の会議に出られませんから。校長の許可も得ています。それより大丈夫ですか? 痛いところはありませんか?」
そう言って、芳月は私の顔に向けて、おそるおそる手を伸ばした。彼女の意図がわかったので、腰をかがめる。と、芳月の細い指が、そっと私の頬に触れた。
「……傷……深くないですか」
「かすり傷だ。大丈夫だよ」
今にも泣きそうだな、と思いながら芳月の足元に視線を落した。そこには小旅行に使うような、小さなキャリーバッグがひとつ。
芳月は家にも帰らずに、ずっとここで待っていたのだろう。そう思ったら、胸の奥が苦しくなった。
普通であれば、恋人でもない女性にこんなことをされたら重荷でしかない。けれどいま、私は芳月の行為を嬉しく感じてしまっている。この感情は甚だまずい。
「……とりあえず……ここじゃなんだから、うちに上がっていきなさい」
まずいと思いながら、私は芳月にそう声をかけていた。
***
室内に芳月を招き入れ、とりあえずと緑茶を用意した。
芳月が大きな溜息をついて、呆れたような声を出す。
「先日お邪魔した時も思ったんですけど、本当にすごいマンションですよね。コンシェルジュと警備員が常駐しているなんて」
「ん……コンシェルジュがいるマンションはやっぱり便利なんだよ。たとえば深夜の帰宅が続いたりするだろ? クリーニングに出したいスーツはたまる一方だ。ヒーロースーツは学校の出入り業者に出せるが、背広なんかはそうはいかない。二十四時間常駐のコンシェルジュがいるとね、そういうものの手配もすべてしてくれる。出勤時に出しておくと、数日後の帰宅時には綺麗になった衣類が受け取れるんだ」
「へー……」
「セキュリティも万全だし、相澤くんの言い方じゃないけど、実に合理的だろ」
なぜ私は、こんなどうでもいいことを話しているんだろう、と緑茶をすすりながらぼんやり思った。
芳月がここに来てくれたことが嬉しかった。それを伝えたい。だがそれをしてしまったら、私はもう、後戻りすることができないだろう。
躊躇している私に、芳月が遠慮がちに口を開いた。
「あの…オールマイトさん?」
「なんだい?」
「たぶんお気づきでしょうけど、あの……わたし、オールマイトさんが好きなんだと思います」
「……うん」
「付き合ってほしいだなんて言いません。オールマイトさんはとても疲れていますよね……だからそれを癒すお手伝いをさせていただきたいんです。私の個性はそう強くはないですが、接する時間を長くすれば、香りだけでも効果があります。あんなことが起きた今日だけでも……疲れた身体を癒すお手伝いさせてもらえないでしょうか」
「……うん……」
応えた声が掠れてしまった。そのことに芳月は気づいただろうか。
最初からなんとなく、そんな気がしていた。このひとは自分にとって、特別な存在になるだろうと。
ほっとけないとか、心配だとか、そんなのすべて言い訳だ。
私はきっと、初めから芳月のことを意識していた。だから些細な事が気になったんだ。
と、その時、ふわりと甘い香りがした。前も一度嗅いだことがある気がする。百合によく似た、けれど百合よりずっと濃厚で強烈なフローラル。
「それも、やっぱり迷惑でしょうか?」
すがるように芳月が言った。
もう、我慢の限界だった。この誘惑に抗うすべをもつ男がいるだろうか。私は反射的に芳月の体を抱きしめていた。
「お……オールマイトさん?」
もう、いいじゃないか。と心の中で声がした。
私はこの優しいひとを救いたくて。この優しい人は私を癒したいと言ってくれる。
たがいに想い合う気持ちがあるのなら、たがいに甘えあえばいい。今夜は優しいこのひとに溺れてしまおう。先のことなど考えないで。
だがこのとき、キャビネットの上の写真が私の目に飛び込んできた。
スーツ姿の私と、白いワンピースを来た……元妻。
元妻は明朗快活でかわいいひとだった。ウエディングドレスすら着せてやることができなかった私を、それでも好きだと尽くしてくれた。
けれど彼女は、ある日突然駅で倒れた。いや、突然ではなかった。元妻は、ずいぶん前から心療内科にかかっていたのだ。倒れた原因は、過換気症候群の発作だった。私との暮らしに疲れた彼女は、心を病んでしまっていた。
私はその事実を、彼女が倒れたその日に知った。
慌てて駆けつけた病室で見た、憔悴しきった彼女の横顔。
ここで芳月を抱いてしまえば、おそらくまた同じことになる。
芳月はきっと、私のわがままを笑って受け入れてくれることだろう。自分がどんなにつらくても、疲れた私を優しく癒してくれることだろう。闘いの場に赴くときも、笑顔で送り出してくれることだろう。
そしてきっと、私がいなくなったその後に、芳月はひとり涙する。
将来がなく、そばにいてやることすら約束できない私は、芳月がつき合ってきた男の中で、最もダメな恋人になる。
救けたいと思っていた私が、芳月を苦しめる元凶になる。そんなことがあってはならない。
「いい香りがする」
「え?」
「なにかつけてはいないよな。個性からくる香りかい?」
背中を軽くポンポンと叩き、さりげなく身体を離しながらそう告げた。芳月の顔が朱に染まる。
「はい……あの……普段はコントロールしてるんですが、ドキドキが最高潮に達すると、制御しきれなくなってこの香りが出てしまうんです。濃厚な香りなので申しわけないんですが」
「いや……私は好きだよ。これは何の香り? どんな効能があるんだい?」
「イランイランです」
「効能は?」
「鎮静、抗うつ、血流促進、血圧降下、抗炎症……です」
「へえ、いいね」
「……あの……それで……さっきのことですけど……だめでしょうか」
「……うん……今日はお願いしようかな……ただ大丈夫かい? 時間がかかるんだろ?」
「あ……あの……恐縮なんですけれども、もともと広島に泊まる予定でしたので……」
泊まらせろってか。待って、さすがにそれは無理だから。
だが私は自分でも驚くほどすんなりと声をあげていた。
「ああ、じゃあ泊まっていったらいい」
「ありがとうございます」
大丈夫かよ、と私は自分に問いかける。
強い敵と戦ったあとは、種の保護本能が働き性欲が強くなる。身体の方も、疲れている時に限って下だけ異常に元気になることがある。
それでも、大丈夫だ、と自分に応えた。
救けたいから。不幸にしたくないから。泣かせたくないから。だから私は手を出さない。
けれど今夜は、芳月……いや、梨香にそばにいて欲しい。
せめてこれくらいなら、流されたっていいだろう。
その時、イランイランの甘くて濃厚な香りが、また一段と濃くなった。
むせ返るような官能的な香りに包まれながら、私は梨香に微笑んだ。
2016.5.15
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