花の中の花 星の中の星 前編

 目が覚めたら、オールマイトの腕の中にいた。
 この寝室で目覚めるのは二度目だが、今回も口から心臓が飛び出るくらい驚いた。前回の失態を思いだし、慌てて自分の身体を確認した。
 
 よかった。きちんと服をきている。
 でも待って。どうしてこんなことになってるの?
 
 わたしは昨夜この家に泊まり、オールマイトを癒すために枕元で個性を使い続けていた……はずだ。
 オールマイトは隣室にわたしの寝床を用意してくれたけれども、ここで朝まで頑張るつもりだったのだ。
 なのにどうして、わたしはスプリングの効いたベッドの中で、骨ばった長い腕に抱かれているのだろうか。

 目前の、彫りの深い顔をそっとみやった。肉が落ちて暗く窪んだ眼窩と、ナイフでそぎ落とされたような、シャープな頬のライン。水分と脂分の少ない、かさついた肌。
 施術の関係上、背や手足には何度も触れてきたが、顔に触れたことはない。触れてみたいな、と思ったその時、やや広めの額に黄金色の前髪がはらりとかかった。
 前髪が……と手を伸ばしかけた時、目前の英雄がぱちりと目を開けた。

 わたしはそのままの形で固まってしまった。
 晴れわたった空と同じ色の瞳が、わたしをじっと見つめている。
 どうして君が私のベッドにいるんだい、その手は何をするつもりだったんだい、などと尋ねられたらどうしよう…そう思って冷や汗を流していると、オールマイトがふわりと笑んだ。

「ああ、芳月くん。おはよう」
「お……おはようございます」

 わたしの背に回していた手をさりげなくはずして、オールマイトが額の前髪を書き上げる。

「すみません……あの……気づけばまたこんなことに……」

 本当のことなのだが、我ながら苦しい言い訳だと思った。けれどオールマイトはなんでもないことのように静かに答える。

「ああ。夜中に目覚めたら君が枕元で転寝をしていたものだから、悪いなとは思ったけれどベッドに寝かせてしまったよ。隣室まで運んであげられる余裕がなくてすまない」

 でもなにもしてないよ、と小首を傾げて笑んでから、オールマイトがベッドに座って伸びをした。
 長い腕、長い首。シャツから覗くまっすぐな鎖骨と、軽く上下する喉仏にどきりとした。

 このひとはこの身体でいる時、マッスルのときとはまた違う、男の色気を醸し出す。おそらく、本人はそれに気づいていない。
 女も男に欲情する。それを経験豊富であろう目前の人が知らないはずはないのに、この無防備さはずるいと思った。

 同時に、部屋の中にむせ返るような甘い香りが広がっていく。
 わたしの体からにじみ出るのは、濃厚で粘りつくような官能の香り、イランイラン。昨日オールマイトには言えなかったけれど、この香りの最たる効能は催淫だ。
 だからわたしは男性運に恵まれないのだ。それもなんとなくわかっていた。

 わたしは恋した男性の前では、媚薬に近いこの香りが出てしまう。効果は普通の精油の数十倍。すると相手はわたしに好意を抱いていなくても、その気になってしまうのだ。

 今までも、そこから始まった恋が多かったように思う。
 わたしは相手が好きだから、誘われれば断れない。相手は本能を刺激されているので、わたしを得るために必死になる。けれど本能から来た関係は、欲を放出するごとに冷めていく。ゆえにわたしの幸せな恋は、そう長くは続かない。 

 意図しているわけではないのだが、ふたりきりの状態でこの香りに抗えた男は、今まで一人もいなかった。目前のこの人ですら、昨夜一度、わたしのことを抱きしめた。
 けれどこのひとは、オールマイトは、最終的に催淫に勝った。きっとそれだけ、このひとは別れた妻を愛しているのだ。わたしの香りに負けないほど、強い想いで。

「甘くていい香りだね」

 この香りに含まれた真の効能を知らないオールマイトが、わたしの背中をポンと叩いた。

 美味しいコーヒーと朝ごはんをご馳走になり、オールマイトの運転する車で学校へ向かった。悲しむべきか喜ぶべきか、オールマイトはわたしより、はるかに料理が上手かった

 オールマイトの愛車は軍用車をベースにしたグレーメタリックのSUV。いかにもアメリカンな大きくてごついこの車は、オールマイトにとてもよく似合っている。

「とんでもなく燃費が悪いし、メーカーももう生産をやめてしまんだんだけど、どうしてもこれに乗りたくてさ、こっちにくるついでに買ってしまったんだ」

 そう言って、オールマイトは少し照れ臭そうに笑った。まるで少年のように。

 学校までの道すがら、いろいろと話をした。主に学校でのことを。わたしも薄々気がついていたが、オールマイトはパソコンが苦手らしい。
 我が校は書類作成だけでなく、生徒の成績等の記録はすべて電子化されている。

「どうにも難しいんだよ。前はこういう事務仕事は専門のひとや秘書がやってくれてたからさ、なかなか慣れない」
「じゃあアナログ原稿を用意していただけば、わたしがそれを電子化しておきますよ」
「それはダメ」
「大丈夫ですよ。今年は担任を持っていませんし」
「ダメだ。君、そうやっていろんな人の仕事を手伝っては残業してるだろ。お人よしも大概にしておけよ」

 痛いところをつかれてどきりとした。
 確かにわたしにはその傾向がある。大変そうにしている人をみると、ついつい声をかけてしまう。
 挙句、他人の仕事に追われて、自身の仕事を立ち行かなくなる。そのため深夜まで残業したり、仕事を家に持ち帰ったりすることが、わたしにはままあった。

「でもね、君に私の仕事を押し付ける気はないが、いろいろと教えてもらえると助かるな。私が悪戦苦闘していたら、そっと助けてくれないか」

 そう言って、オールマイトは笑った。

***

「あらあら、まあまあ」

 教員専用の駐車場で、車から降りた瞬間に上がった声に、恐る恐る振り向いた。ミッドナイトだ。
 またしても見られたくない人に見られてしまった。
 オールマイトは眉ひとつ動かさずに、頓狂な声を上げた相手におはようとだけ挨拶をして、すたすたと先に行ってしまった。
 待って! 置いていかないで!!
 心の中でそう叫んで細長い後ろ姿を追おうとしたわたしを、しなやかな腕が、がしりとつかんだ。

「ちょっとー。うまくいってるみたいじゃない。作戦成功ね」
「うまくもなにも、付き合ってないですから。それに作戦ってなんですか?」
「ああいう真面目でモテる男は、外堀から埋めてしまうにかぎるのよ。責任感が強いから。噂を立てて周りにそうと認識されれば、あんたのこともむげにはできないでしょ」
「じゃあ……わたしたちがつき合っていないってわかってて、噂を流したんですか?」
「そーよ。悪いようにはしないって言ったじゃない。だからあたしに感謝しなさい」
「感謝もなにも、そういう仲ではありませんから」
「でも、一緒に通勤してきたってことは、夕べから一緒だったってことでしょう?」
「……そうですけど」

「へー、リリーもやるじゃん」

 またしても背後から声をかけられ、わたしの体がこわばった。
 振り向かなくてもわかる、この声はプレゼント・マイクだ。それでも相手は先輩だ。挨拶を、と、しぶしぶ振り向く。
 視線を向けた先には、ヘッドホンとサングラス着用の派手な男と、顔中包帯でぐるぐる巻きになっているミイラ男……ではなく、昨日のヴィラン攻撃の際に重傷を負ったイレイザー・ヘッドが立っていた。

「もしかして、みなさん最初からいらしたんですか?」
「まあなー。そっちの姐さんは駅でピックアップさせられたんだけどな。イレイザーは、ほら、こんなだろ。絶対休まねえって言うから、俺が車を出したんだよ」

 イレイザー・ヘッドとプレゼント・マイク。一見、水と油のようなこの二人は、実はとても仲がいい。わたしが出会った時、すでにこの二人は親友同士だった。相澤のイレイザー・ヘッド、というヒーロー名も、マイクがつけたと聞いている。
 
「なーんでおまえとマイトさんが一緒に登校してるんだァ? もう何でもないなんて言わせねェぜ」
「詳しい話を聞かせなさいよ」

 マイクとミッドナイトが、嫌な笑いを浮かべながらわたしにつめよった。この二人の尋問にわたしが耐えられたことなどない。
 助けをもとめて相澤を見上げたが、ミイラ男と化した先輩は、面倒くさそうに首を振り、眼を逸らした。

 さあさあ、と、二人がかりでつめよられ、わたしはしかたなく口を開いた。オールマイトとはそういう仲ではないこと、そして昨夜の顛末を。

「でも、なにもありませんでしたよ」
「おまえ、それ本気で言ってんの?」
「そうですけど……」
「百歩譲って、異性の友達を家に泊めることがあったとしても、同じベッドでは寝ねえよ! そんで同じベッドで寝ておいてなにもしねえなんて、ありえねえ」
「本当になにもなかったんですってば。ホラ、年齢的なものもあるんじゃないですか?」
「馬鹿ね。あの世代の男はまだまだ現役バリバリよ」

 バリバリって、その言い方ちょっと古くないですか、と思ったがそれは口に出さなかった。年上の女性には余計なことを言わぬにかぎる。

「ヴィランとの戦闘で体力を消耗したから、とか?」
「馬鹿だなオマエ、男ってのは疲れてる時のほうが勃ちが良かったりすんだよ」
「ギリギリの戦闘の後の方がやりたくなるってきくわよね」
「あー、それな。マジそうだよ。そういえば前にオールマイトさんもそうだって言ってたぜ」

 エッ、そうなの? と反応しかけてごくりと飲み込む。もしそうであったとしても、何もなかったのは事実なのだ。

「……じゃあ、純粋に、わたしに興味がないだけなんじゃないですかね……」

 声がふるえた。
 そうだ、あのひとは別れた奥さんのことを今でも想っている。昨夜告白したけれど、それについてはなんの答えももらえなかった。
 悲しいけれど、そういうことだ。
 オールマイトはわたしの提案は受け入れはしたが、気持ちに応えるとは言っていない。同じ部屋で同じベッドで眠ってもなにもしない。それは、君を女性としては見ていないよと言われるのに等しい。
 わたしは自分の気持ちをごまかすように笑った。マドンナリリーだったら、きっとこうするはずだ。
 悲しいときほど笑ってその場をやり過ごす。でなければ人に癒しなど与えることなどできやしない。

 すると今まで無言でわたしたちのやり取りを聞いていた相澤先輩が、はーっと大きな溜息をついた。

「おまえ、またやっかいな相手に惚れちまったな……ありゃ最悪の相手だぞ」
「や。だから別に、そんなんじゃ……」
「おまえはな、顔と香りに出るんだよ。自分が今、どんな匂いをさせてるかわかってるか?」
「匂い? このエキゾチックで甘いフローラルのこと? オリエンタル系の香水かと思ってたけど」

 ミッドナイトが意外そうな声を上げる。面倒くさそうに、イレイザー・ヘッドがぼそりといらえた。

「こいつは好きな男といると、こういう香りが出るんですよ。まあ、任務中や仕事中には絶対出さないからいいですけどね」

 付き合いの長いひとだけが知る。わたしのやっかいな体質。プロヒーローとして、教師として、そしてアロマセラピストとして活動しているときは、なぜかこの香りは出ない。
 公人として無意識のうちに制御しているのか、私人として無意識に放出しているのか、どちらであるかはわたしにもわからない。

「深入りするなよ。泣くのはおまえだ」
「……はい……」

 きつい物言いをするが、相澤はオールマイトやプレゼント・マイクとはまた違った優しさを所有している。もしかすると、一番優しいのはこのひとなのではないか、とわたしは思うことがある。
 相澤は、昨年、一クラス全員を除籍した。
 そのせいで普通科の人数がふくれあがり、多くの苦情も来たけれど、やっぱりあれは相澤の優しさだ。
 ヒーローは、華やかなようだが、実は過酷な職業だ。ヴィランが真っ先に狙うのは、資質のない者、弱い者。怪我ですめばまだいいが、命を落とすこともある。
 相澤は深い優しさと厳しさで生徒に相対する。わたしは誰にも媚びないこの先輩を、一人の人間としても、そして教師としても尊敬している。
 高校時代のわたしに体術を極めるよう勧めてくれ、稽古をつけてくれたのも、またこの先輩だった。

「でも本当に、噂になるようなことは何もないんですよ。あちらはきっちり線をひいてくれてますから」
「まあ、そうだといいけどな」

 尊敬する人の助言を少し悲しく受け止めながら、わたしは瞳を伏せたのだった。

2016.5.24
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月とうさぎ