花の中の花 星の中の星 中編

 半泣きになりながら、わたしは室内を片付けていた。

 今日はかの有名な雄英体育祭が行われた。この行事にはけが人がつきものだ。わたしもリカバリーガールの補助として、フル稼働で痛みを和らげる癒しの香りを振りまき続けた。
 おかげですっかりくたくただ。
 自炊する気力も、浴槽を洗って湯を張る余力も残されていない。コンビニ弁当で夕飯をすませ、シャワーを浴びた。
 このままビールでも飲んで寝てしまおう、と冷蔵庫を開けた瞬間に鳴り渡った電子音に青ざめた。そのメロディは施術の予約三十分前を知らせるものであったからだ。
 慌ててスケジュールを確認し、泣きたくなった。
 たしかに、本日十九時に予約が入っている。日付を一日間違えたのだ。

 しかし、間違いとはいえ、一度受けた予約をこちらの都合でキャンセルするわけにはいかない。今日のお客様は、常連さんからの紹介を受け、初めてうちに来る方だ。ここで失礼があったりしたら、常連さんの顔をつぶすことになってしまうし、次につなげることはできない。

 なんとか片付けをすませ施術用の服に着替えた瞬間、玄関のチャイムが鳴らされた。時刻はきっちり十九時。
 わたしは軽く深呼吸してから、インターフォンの受話器を挙げた。応対はゆっくり、落ち着いて。
 アロマサロンは雰囲気が大事。非日常を求めてきている顧客に、施術者が今の今までバタバタしていたことを気取らせてはいけない。

 だが玄関を開けた次の瞬間、わたしはどうしていいかわからず、立ち尽くしてしまった。
 開いた扉の向こうに立っていたのは、見覚えのある華奢な女性。
 わたしはこの女性を知っている。いや、正しくは、わたしはこのひとの前夫が誰であるかを知っている。

「こんばんは」

 少し困ったような顔でわたしに微笑みかけたのは、オールマイトの元妻だった。

 わたしも驚いたが、相手もわたしをみとめて困惑しているようだった。元妻も気づいたようだ。わたしがオールマイトと、このひとの結婚式をみていたということを。
 それでも互いに平静を装いながら、ややぎこちなく挨拶を交わした。

 その後、施術室に元妻を通して、簡単なカウンセリングをした。アレルギーや妊娠の有無を事前に確認するのは当然のことだ。
 わたしとオールマイトの元妻はお互いの動揺を隠し、だがどこか気まずい感じのままカウンセリングを行った。
 大人というのは面倒なものだ。心の中で思うことがあっても、表面上はなにもないよう振る舞わなくてはならない。

 話を聞くと、元妻は生理不順気味なうえに、不眠の傾向があるという。
 この場合は女性ホルモンの分泌を促す香りがいいだろう、だとするとジャスミンかローズが妥当なところ。
 このひとの華奢で愛らしい雰囲気には、ローズよりもジャスミンだ。そう思ったわたしは身体からジャスミンの香りをゆっくりと放つ。そこにクラリセージと、ほんの少しのサンダルウッドをプラスしながら。

「では、すこしあかりを落しますね」

 リラクゼーション音楽をかけながら、わたしは元妻の背に手を当て、はっとした。
 なんて綺麗なからだだろう。
 やわらかい黄色の光に照らされた、きめの整った滑らかな背中。細いけれど不健康そうには見えない、バレリーナのようなしなやかな筋肉のついた四肢。ウエスト周りに肉がないのに、適度なボリュームのある胸元と腰。オイルを広げるてのひらに吸いつくような、しっとりとした肌。
 頭のてっぺんから足のつま先まで、充分に手入れの行き届いた美しい肉体。

 この身体を、オールマイトは夜毎愛でていたのだ。あの大きな手は幾度触れたのだろう。このしみひとつない滑らかな背中に。このやわらかな二の腕に。この細くしまった内腿に。
 この美しいひとの美しいからだは、彼をどれだけ魅了したのだろうか。
 
 急激に湧きあがった気持ちは嫉妬と似ていたが、そう言い切ってしまうには少し異なるような気がした。
 女性として、わたしはこのひとの足元にも及ばない。その事実を前に、ただただ打ちのめされていた。
 涙の一歩手前でわたしはそれでも施術を続ける。あともう少し、というところまで来たときに、元妻がいきなり口唇をひらいた。

「あなたは、つらくはないの?」

 明らかに大事な一語が抜けた問いかけだ。だがその抜けた部分が指しているものがなんなのか、聞かされなくてもよくわかる。

「つらいです。でもそう思ってはいけない気もします」
「そう……強いのね。わたしはだめだったわ……」

 元妻はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。癒しのためにと用意したリラクゼーション音楽が、やけにむなしく部屋の中に溶けていく。

「日を追うごとに痩せ細り、吐く血の量も増えていく。それでも事件と聞くと飛び出していくの……あの人は……いまでもそうなの?」
「……そうですね。そこはきっと、これからもずっと変わらないと思います」
「そう……」

 自らの生命を削って人を救けようとするオールマイトは、自己を殺したエゴイストだ。ああいう男を愛してしまうと、最終的に女は必ず泣く羽目になる。
 このひとも、そしておそらく、わたしも。

***

 すべての施術が終わり、お疲れ様でした、となめらかな背に声をかけた。
 ありがとう、と柔らかい声が答える。

 心をこめて施術をしたが、おそらく、このひとからの次の予約はないだろう。このひとはわたしをオールマイトの恋人だと思っているだろうから。
 内心でため息をついた瞬間、本日二度目の来客を知らせるチャイムが鳴らされた。

 こんな時間に誰だろう。ミッドナイトだろうか、それとも……
 嫌な予感に襲われながら、わたしはインターフォンの受話器を上げる。

「私が! 癒しグッズを持参して! 来た!!」

 受話器の向こうから響いた聞き覚えのある低音に、わたしは頭を抱えたい気持ちになった。

 ああ、最悪のタイミング。
 なぜ、よりにもよってこんな日に、連絡もせず来たりするのか。
 受話器から声が漏れたのだろう。元妻はここを訪れた時と同じように、少し困ったような顔をして笑んだ。
 
 このまま居留守を決めこみたいところだが、一度返事をしてしまった以上、そうもいかない。わたしはオールマイトの元妻にすみません、と一礼し、玄関へと向かった。

「サプライズ訪問!!」

 扉を開けた途端、わたしの視界に飛び込んできたのは、痩せこけたナンバーワンヒーローの嬉しそうな笑顔。
 こんな状況でなければ、きっと死ぬほど嬉しかっただろう訪問。それを少し残念に思いながら、わたしは曖昧な笑みを返した。

「こんな時間にすまない。たまには逆もいいかと思ってね。きみ、今日はひどく疲れて……」

 と、オールマイトが語尾を濁した。
 玄関に置いてある華奢なハイヒールに気づいたのだろう。わたしはめったに高いヒールの靴ははかない。

「あ、もしかして施術中だったかい」
「いいえ。今、帰るところよ」

 わたしのかわりに返事をしたのは、華奢で愛らしい雰囲気の美しいひと。
 声を発した相手をみとめたオールマイトの顔が、かすかに歪んだ。

「ごめんなさいね。知らなかったものだから」
「うん。わかってるよ」

 元妻はわたしに語りかけた時と同じように、また大事な一語を省いて語る。それにオールマイトが静かに答える。
 別れてもなお、この二人の間には絶対的な信頼関係が存在している。わたしはそれを空気で悟った。ここに部外者の介入する余地はない。
 元妻はそれ以上オールマイトの方を見ようとはせず、わたしの顔をみてにこりと笑った。

「芳月さん。あなたの施術、とてもリラックスできたわ。ありがとう」
「ありがとうございます……またのご予約をお待ちしています」

 頭を下げたわたしに微笑んで、それじゃ、と、元妻は華奢な白いヒールに足を通した。

「送るよ」

 玄関のドアに手をかけようとした元妻を押しとどめるようにして、オールマイトが言った。
 このひとは、本当にどこまで罪作りなのだろう。オールマイトの優しさは、本当に性質が悪い。
 夜道をひとりで歩かせたくないくらいまだこのひとを愛しているのなら、あの結婚式の日に奪ってしまえばよかったのだ。遠慮やプライドなどかなぐり捨てて。

「大丈夫よ。主人が迎えに来てくれるから」

 元妻がオールマイトから顔をそむけて答えた。『主人』という言葉に、オールマイトの顔がこわばる。
 きっと今のは嘘だろう。でもオールマイトは信じてしまったようだった。
 どうして男のひとは、恋愛においての女の強がりを真に受けてしまうのだろうか。

「そうか……じゃあ、気をつけて」

 落ち窪んだ眼窩の奥の瞳に寂しさの色を浮かべ、オールマイトがぽつりと言った。
 それじゃあ、と、先ほどと全く同じ言葉を残して、元妻は新婚家庭へと帰っていった。

 今宵、あの美しい人はこの罪作りな前夫を思って泣くのだろうか。それとも今の夫の隣で、幸せな新妻を演じるのだろうか。
 いずれにせよ、あの女性には愛してくれる相手がいるのだ。前の夫と、今の夫と。
 わたしはそれを、とてもうらやましく思う。
 男性に深く愛してもらえる女と、いつもないがしろにされる女と、その違いはいったいどこにあるのだろう。

「気まずい思いをさせて、すまなかったね」

 ひとつため息を落したわたしに、オールマイトが眉をさげた。

「大丈夫です。いつまでも玄関先で話すのも近所迷惑になりますから、なかへどうぞ……癒しグッズを買ってきてくださったのでしょう?」
「うん……じゃあ少しだけ」

 わたしはわざと近所迷惑、というワードを付け加えた。そうすればオールマイトは家に上がってくれるだろうと思ったからだ。
 オールマイトの優しさを性質が悪いなどとと思ったくせに、それを利用するわたしはずるい。
 おそらくオールマイトは、グッズだけ渡してこの場を立ち去りたかったに違いない。
 男性は往々にして、つらいときほど一人になろうとする傾向がある。けれど今夜はこのひとをひとりにしてはいけない、そう思った。
 前にも一度、似たようなことがあったけれども。

「これね、買ってきたんだ。良かったら使って」

 お茶を出そうとするわたしを遮るように、オールマイトが抱えていた袋を差し出した。
 袋の中身は、コードレスの低周波治療器と、頭皮マッサージャー。発泡タイプの入浴剤と、冷やして使うタイプのアイピロー。そしてステンドグラスでできた球形のキャンドルスタンドが数種と、それに入れるろうそくの数々。

「ありがとうございます」
「若い君に、低周波治療器はどうかとも思ったんだけどさ」
「若いといっても、もう二十代後半ですよ」
「後半だろうが前半だろうが、二十代は私からみたら充分若いんだよ」

 たしかに低周波治療器はお年寄りが喜びそうなマッサージ器だ。けれど、多忙であるオールマイトがわたしのためにこれらのグッズを選んでくれたのだと思うと、やはり嬉しい。

「このキャンドルスタンド、とてもかわいいです。わたし、キャンドルのあかりが好きなんですよ」
「気に入ってもらえたなら良かったよ。ところで、うっすらといい香りがするけど、これは施術で使った香りかい?」
「ええ。ジャスミンです」
「ああ、女性用の香水にもよく使われるよね」

 オールマイトの言うように高級香水にも良く使われるジャスミンは、ローズと並び立つ香る花の女王だ。
 彼の元妻はこの香りがよく似合う。香りだかくて、品格があって。
 そんなわたしの考えに気づいているのかいないのか、オールマイトが笑った。
 
「さ。目的も果たしたし、そろそろ私はお暇するよ」
「……でも……オールマイトさんつらくないですか? 良ければ今日も……」
「芳月!」

 泊まっていってください、と言おうとしたところを強い声に遮られた。

「前々から言おうと思っていたが、そういうのをやめろ」

 きわめて厳しい口調だった。
 ヴィランと対峙している時以外でオールマイトが声を荒らげるのを聞いたのは、これが初めてだ。また『くん』という敬称をつけずに名を呼ばれるのも、これが初めてのことだった。

「いいか、芳月。人を助けたいと思うのはヒーローの基本だが、プライベートでまでそうあろうとする必要はないんだ」
「……」
「君のことだ。別れた妻と偶然再会してしまった私に同情して、慰めたいと思っているのだろう。その優しい気持ちは嬉しいが、とてもよくない」

 返す言葉もなくうつむいてしまったわたしに、オールマイトは続ける。

「君は私に好意を持っている。私はそれを知っている。その上で今のようなことを言ったらどうなるか、わからないような年齢でもないだろう。何度も忠告しているが、私だって欲に流されることがあるんだ」
「はい、わかってます。でも、そうなってもいいと思っているから……」
「ふざけないでくれないか」

 刺すような強い視線と厳しい声に、わたしは息をのんだ。

「ここで私が君を抱いてしまったら、互いの関係はどうなる。無論、こういうことから恋愛関係になる場合もある。だが、私は君とそういう仲になるつもりはないし、女性の気持ちを利用して自分の欲を満たすような卑怯者にもなりたくない」

 オールマイトらしい言い方だと思った。自分にも他人にも誠実なこの人は、きっと自分の気持ちを裏切りたくはないのだ。
 だってこのひとは、まだあの美しいひとを愛している。

「好きになった男に自分のすべてを与えようとしてはいけない。逆に相手に追わせて、尽くさせるような女になりなさい」
「はい……」 

 オールマイトの言うとおりだ。
 男のひとはなんでも許す聖母のような女より、甘え上手の小悪魔タイプが好きなのだ。
 わかっている。わかっているけれど、それでもついつい、好きになった人には自分のすべてを与えてしまう。見返りなど何一つ求めないまま。
 困ったな、とわたしは思った。今の顔をオールマイトに見られたくない。泣くのを我慢したひきつった顔は、あの美しい人とは雲泥の差だろうから。

「あー……芳月くん……」

 顔を上げることができずにうつむいていると、上からオールマイトの声が降ってきた。

「でも……まあ、きついことを言ったけれども、確かにね、今夜は一人でいたくないのも事実なんだよな……」
「はい?」
「だから、外に出ようか。私ね、今日は車で来たんだよ。気分転換に行きたいところがあるんだ。良ければ君も一緒にどうだい?」

 オールマイトは本当に罪作りだ。突き放すなら最後まで突き放してくれればいいのに。このひとの優しさは、本当に性質が悪い。
 それでもわたしは、差し伸べられたこの大きな手を振り払えるほど強くない。

「喜んで」

 そう返事をしてしまったわたしに、オールマイトが照れたように笑った。

2016.5.29
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月とうさぎ