花の中の花 星の中の星 後編

 オールマイトの車はアメリカ製のSUVだ。軍用車と基本構成部品を共有する車の後続モデルであるため、見た目も内装もとにかくごつい。

「ごめんね。この車、シートがかたくて」
「いえ、そんなに気になりませんよ」
「そうかい? どうもね、前に乗っていた車に比べるとかたい気がしちゃうんだよね。まあ、そんなところも好きなんだけど」
「前……六本木にいらしたころですね。何に乗られていたんですか?」

 するとオールマイトは少し困ったように笑ってから、『砂漠のロールスロイス』の異名を持つイギリス製のSUVの名前を挙げた。
 その車ならわたしも知っている。イギリス王室御用達との噂もある高級車だ。同じSUVでも、その車と軍用車に似たこの車とでは、内装も外装もずいぶんと雰囲気が違う。
 ああ、とわたしは気がついた。
 イギリスの気品あふれるラグジュアリーカー。それはおそらく、あの美しいひとの好みであったに違いない。
 気がつかなければよかったな、と思いかけ、わたしは軽く頭を振った。

「ところで、これからどちらまで?」
「うん。星でも見たいなと思ってさ」
「星、ですか」
「そう。私、東京生まれだろ。事務所も六本木だったし。満天の星を見るにはかなり遠出しないといけなかったんだよね。でもこっちは、市街地から車で一時間も走ったところにもいい天体観測スポットがあるってきいたからさ。一度行ってみたいと思っていたんだ」
「はあ」
「肉眼でも、天の川がばっちりみえるらしいんだよ。それってすごくないかい?」
 
 と、都会育ちのひとらしく、興奮した面持ちでオールマイトは笑う。
 たしかに六本木からは、天の川は見えにくいだろう。あの圧倒的な人口の光の渦の中で暮らしていたら。

「あ、君、今日は疲れてるだろ? 目的地に着くまでの間は眠ってもいいからね」
「そ……そんな……とんでもないです。オールマイトさんに運転させて眠るなんて」

 オールマイトはわたしの好きなひとであるだけでなく、ヒーロー界では神様にも等しい存在だ。そのひとの車に乗せてもらっているのに、助手席で寝たりなんかできるわけがない。

 それにしても本当に無骨な車だ。いかにも『メカ』といった風情の計器類と、角ばったダッシュボード。宇宙船のコックピットを思わせるようなセレクター。
 この車全体における、余分な装飾の一切を断ち切ったようなシンプルなデザインが、男性の心を浮き立たせるのか。
 だが、シンプルで男臭いデザインのカーオーディオから流れる音楽は、哀愁漂う古いジャズだった。曲名はわからないが、聞いたことがあるメロディだ。
 演者はなんといっただろうか。この曲はたしか、前世期にジャズの帝王と呼ばれたトランぺッターのものだったと思うのだけれど。
 トランペットが泣いているような、物悲しい音色だ。メロディラインもとても切ない。

 帝王の奏でる音にのせて、アメリカ製のSUVは高速の入口へと吸い込まれていく。窓の外に広がる景色は、高速道路特有の単調なものだ。
 無骨だけれど実は高価なSUV車と、ほの暗いトランペットの音色と、単調な景色と、前を走る車のテールランプと。隣に視線を走らせれば、肉の削げ落ちた彫りの深い面ざしがある。
 ドラマのワンシーンのようなこのひと時が、ずっと続けばいいのに。

***

「ついたよ」

 落ち着いた低音に呼び掛けられ、わたしは目を開けた。

 どういうこと、と思いかけ、自分が寝てしまったのだということにすぐに気づいた。疲れていたとはいえ、なんというもったいないことを。ずっと続けばいいと思っていながら寝落ちするとは。
 オールマイトとドライブなんて、二度とできないかもしれないのに。

「はい」

 わたしを起こした声の主が、くすくすと笑いながらわたしにティッシュの箱を差し出した。

「なんですか?」

 たずねたわたしに、オールマイトが自身の口元を指差した。慌てて自分の口に触れると、唇の周辺がほんのすこしだけ濡れている。
 最悪だ、よだれを垂らして眠っていたのだ。死にたいくらいに恥ずかしい。

「す……すみません」

 思わず謝罪すると、オールマイトは鷹揚に笑った。このひとのこういう偉ぶらないところは、本当にすごいと思う。

「ここ、どこですか?」

 いつまでも恥ずかしがっていても仕方がないので、気持ちを切り替えて尋ねた。どうやら駐車場のようだけれど、ほんの少しの灯りがあるだけで、車外の景色は大変暗い。
 ある山の名を、オールマイトが告げた。そこは、市街地から高速で40分ほど走った先にある場所だ。

「山頂だからね、外は寒いよ」

 家を出る前にも『暖かくしてね』と言われていたので、春にしては着込んできたつもりだけれど、まさか山頂とは思わなかった。ライトダウンで大丈夫かな、と首をかしげたところ、厚手のブランケットを渡された。

「一応これ、君が持ってて。寒くないといいけど」
「オールマイトさんは?」
「私はけっこう厚着してきたから」

 バックパックを背負いながら、オールマイトが笑う。何が入っているんですかとたずねると、温かい飲み物とシートと懐中電灯、という答えが返ってきた。急な外出だったにしては準備がいいなと思いかけ、そうではないと気がついた。
 おそらくオールマイトは、最初からここに来るつもりだったのだ。うちに寄ったその後に。
 ブランケットは一枚しかない。
 ということは、わたしを誘うことになったのは、おそらくことのなりゆきからで、本当はひとり静かに星を見るつもりだったのだろう。
 オールマイトのこの優しさが、ときおり本当につらくなる。
 君と恋愛関係になるつもりはないとはっきり言った後にこんな真似をされると、こちらもどうしていいのかわからない。
 その気もないのに気を持たせるような真似をするのは、トラブルの元だ。そんなこともわからぬ人でもないだろうに。

 夜風は冷たかったが、凍えるというほどでもなかった。
 こっちだよ、と、促されて長い脚の後をついていく。少し歩いていくと、開けた芝生広場のようなところに出た。
 二組の先客が、持参のシートに腰掛けて星を見ている。

 先客の邪魔をしないように少し離れたところに陣取って、わたしたちも空を見上げた。

「すごいな……」

 都会育ちのオールマイトが感嘆の溜息を洩らした。
 濃紺の夜空に広がるのは、満点の星。今日は幸い二十六夜だ。糸のように細い月が、申し訳程度に夜空を照らす。月あかりが弱いぶんだけ、星々の輝きが際立って見える。

 その中で、ひときわ明るく輝く、オレンジ色の星があった。たとえて言うなら、そう、星の中の星。

「あっ、芳月くん見て。あっちの空にスピカが見える」
「どれですか」
「ええとね」

 と、オールマイトが空を指差した。

「あそこにアークトゥルス、ひときわ明るいオレンジ色の星があるだろ」
「はい」
「それを目安にして、南方向に視線を動かしてみて。そこに青白い星がないかい?」
「ああ、ありました」
「それがスピカだよ」

 このひとは存外にロマンチストだ。星の名前を憶えているなんて。
 でもこの青白く輝く星の名は、わたしも聞いたことがある。スピカ……和名は真珠星。この星はポップスなどにもよく登場する。古くから人々に愛されている星だ。
 そして今日初めて名を知ったオレンジ色のアークトゥルスは、少しオールマイトに似ていると思った。ヒーローの中のヒーローと、星の中の星と。

「春の夜空で一番明るいアークトゥルスと青く輝くスピカを、『春の夫婦星』とも呼ぶんだよ」

 星と同じくらい目をキラキラさせながら語るオールマイトを見ながら、わたしは口の中で、夫婦星……と呟く。
 あの空に輝く、もっとも明るい星がオールマイトであったなら、南に輝くスピカはきっと……。

「……芳月くん。君さ、今、夫婦星でだれかを連想しただろう」

 苦虫をかみつぶしたような顔をしてオールマイトが頭を掻く。まったくこのひとは勘がいい。ごまかしてもしかたないと観念したわたしは、そのまま唇を開く。

「綺麗なひとでしたね。薫り高いジャスミンの花みたいに」
「まあ、綺麗と言われると、そうだねと応えるしかないよね」

 ポットに入った熱いコーヒーをカップに注ぎながら、オールマイトが笑う。はい、とそれを手渡され、わたしもつられるように笑んだ。

「彼女の個性は、花ではなくて魚だったけどね」
「異形系ですか……あのひとの雰囲気的に、鑑賞用のお魚ですか?」
「うん、そんなものかな。彼女とは水難救助の現場で知り合ったんだ」
「……同業者だったんですか。存じ上げませんでした」
「彼女は東京湾での海難救助を専門としていたから、知らなくても仕方がないよ。私と結婚した時に転職してもらったし」
「転職?」
「うん。水に強い個性を持つ子供に水泳を教える仕事」

 オールマイトが少しさみしそうに笑った。

「花のイメージと言ったら、君のほうだ。ヒーロー名のマドンナリリーは白い百合だし、君の体から出るあの甘い香りも花だろう?」
「イランイランです」

 この会話をきっかけに、またうっすらとわたしの体からイランイランの香りが立ち始めた。自分でも、どこでスイッチが入るのかわからないからやっかいだ。

「いい香りだね」
「ありがとうございます」

 気恥ずかしくなって、空に視線を戻した。わたしは都心で育ったわけではないが、これだけの星を目の当たりにするのははじめてだ。

 星の輝きと数に圧倒されながらしばらく上を眺めていたが、徐々に首が痛くなってきた。さり気なく片手で首のうしろを抑えると、隣に座る長身痩躯がくすりと笑った。

「寝転がって見ようか。その方がきっと見やすいよ」

 ごろりとオールマイトが横になる。わたしも隣に横たわる。こんな暗い中で二人、横になっているというのに、なぜかいやらしいかんじにはならなかった。
 ふわり、とわたしの体に温かい何かが欠けられた。ブランケットだ。

「オールマイトさん、これ」
「これからの時間は冷え込む一方だからね」
「でも、オールマイトさんが……」
「私は大丈夫。これくらいカッコつけさせてくれ」

 こんなことで格好つけなくてもあなたは充分素敵なのに、そう思いながらも言葉に甘えることにした。本格的に冷えて来たら、起き上がって毛布を共有すればいいだろう。

 寝転がって見上げた空には、またたく星々。
 と、その時、ひとつの星が流れた。
 長い尾を引いてあっという間に流れてしまった星。願い事をする暇もなかった。
 それを残念に思いながら、わたしは自分に問いかける。次に流星が見られたら、わたしはなにを願うだろう。隣にいる人との恋の成就か、それとも。

 不意にイランイランの香りが濃度を増した。どうしよう、今夜はいつになく濃厚だ。
 すると、先ほどまで黙って星を見ていたオールマイトが、いきなり口をひらいた。

「ねえきみ、その香りのことだけど、私に言わなかった効能がないかい?」
「ごめんなさい……あります。気恥ずかしいから黙っていました」
「なに?」
「……催淫……です」

 やっぱりか、とオールマイトが起き上がりながら苦笑した。わたしもつられて体を起こす。

「この香りだけはコントロールが難しくて……しかも最大の効能が催淫なんて……ほんとうに恥ずかしいんですけど……」

 できればこんな香りではなく、ミッドナイトのように相手を眠らせて戦闘不能にできるような効果があるものが欲しかった。
 わたしの持っている香りで戦闘の役に立つのは、強い刺激のあるアンモニア臭くらいのものだ。これは鼻や目に強い刺激を与え、粘膜をただれさせることができるため、直接的な攻撃として効果がある。
 だが、あまり強くし過ぎると発している自分の粘膜も同時にやられてしまうため、威嚇程度にしか使えない。
 いくつもの香りを持ち、いくつもの効能がありながら、使えるようで使えない、わたしの個性。
 わたしは、有名ヒーローのサイドキックを務めたこともある。でもそこで求められたのは、個性とはあまり関係のない分析力だった。

「その香りは、使いこなせれば君の新しい武器になるんだろうけどね。個人的にはあまり使わせたくないな」
「ああ、それ、前半はマイク先輩に、後半は相澤先輩に言われたことがあります」
「相澤くんが?」
「はい。この香りはどうしてもハニートラップ的な使い方になってしまいますし、失敗した時のリスクが大きすぎますよね。『おまえが心身共に傷つくだけだからやめておけ』と言われました」
「相澤くんらしいね」

 言葉とは裏腹に、この時、オールマイトは少し微妙な表情をした。

「でも不思議なことに、この香りは仕事中には出たことがないんです。でもプライベートでも迷惑ですよね。強い香りですから」
「前も言ったけど、私は好きだよ。『イランイラン』はタガログ語で『花の中の花』って意味だよね。君にぴったりだ」
「よく御存じですね。でもお花としてはそんなにかわいい形でもなくて…」
「そうかい? 調べたHPの写真では、カールした花びらがかわいい感じだったけれど。でもたしかに、マドンナリリー……庭白百合の方が華やかかな。外見が凛と咲く庭白百合、香りが艶やかなイランイラン。君はそんなイメージだよ」
「またそんな……」

 気を持たせないでください、と続けようとして気がついた。
 今、オールマイトは「調べた」と言わなかっただろうか。

「オールマイトさん」
「なんだい?」
「調べたんですか? イランイランについて」

 するとオールマイトの顔が、深紅に染まった。
 意外すぎる反応に、わたしも少しとまどう。

「いや、ちょっと興味が湧いただけだよ。調べたことに深い意味はないからね」

 そう言いながら、オールマイトは手で口元を覆う。
 顔を隠す。それは、言ってしまったこと、思っていることを隠そうとしているときにする行為だ。学生時代、心理学の授業で習ったことが正しいならば。

「オールマイトさん」
「なに?」
「わたしのこと、本当は好きなんじゃないんですか?」

 わたしの言葉に、オールマイトが噴水のように吐血した。
 わたしはろくな恋愛をしていないが、それでも場数だけは踏んでいる。この反応の意味するところを、わたしは経験で知っている。

「君はさ、本当にいつも直球だけど、年齢相応のかけひきみたいなのはできないのかい?」
「できません。そんなに器用じゃないです」
「じゃあ、そろそろそういうものを覚えたほうがいい。直球しか投げられないようじゃ、勝利投手にはなれないぞ」
「それが答えですか?」
「さあ、どうだろうね」

 ここで肯定も否定もしないオールマイトは、少しずるい。でもきっと、ここでごねてもオールマイトはきちんとした答えをくれない、そんな気がする。

 緩やかに、わたしの体からまたイランイランが立ちのぼる。相手を誘い、挑発するかのように。
 むせ返るような甘い香りの中、わたしは身体と手を伸ばして、隣に座るオールマイトの頬に触れた。オールマイトは少し身じろぎしたが、制止の声はあげなかった。
 花の中の花の香りに包まれて困ったように笑む、スーパースター……星の中の星。

 満天の星の下、黙ったままわたしを見おろすオールマイトの青い瞳に、自信ありげに笑む自分の顔が映っていた。

2016.6.1
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月とうさぎ