ピノノワールの夜に

 あじのなめろうを、静かに口元へと運んだ。
 大葉とゴマがねっとりとした魚の食感にアクセントを加えているこの一品は、非常に美味だ。次に、長野の銘酒をごく少量含んで、口腔内に残った魚の匂いを洗い流す。フルーティーでキレのある、この清涼感はどうだろう。
 うまい肴、うまい酒、和服の似合う美人女将。男の理想が三拍子揃ったこの小料理屋は、落ち着いた雰囲気の大人の店だ。一口二口の飲酒しかできない私でも、楽しめる店。
 だが、その大人の店で、カウンターチェアから落ちかねん勢いで爆笑している男がひとり。
 
「そんなに笑うことないじゃないか……」

 私の『一番仲良しの警察』である塚内は、すまん、と呟いてから、また腹を抱えてうずくまった。

「だから笑いすぎだよ。私は相談しているんだぜ」
「だって……君ともあろうものが、オネーチャンに迫られたくらいで……」
「彼女には立派な名前とヒーローネームがある。そういう下品な呼び方はやめてくれ」
「……あのなあ、私がネーチャン呼ばわりしただけで怒るくらいイカれてるなら、彼女の気持ちに答えてやればいいじゃないか。逃げ出したりしないでさ」
「別に逃げたわけじゃない。何もしなかっただけだよ」
「同じ事だよ」
「同じなもんか、人の気も知らないで。本当にあの時はやばかったんだぞ」

 色を含んだ表情で、芳月が私を見上げる。漂うのは脳髄をしびれさせる官能的な花の香り。
 このままこのひとを手に入れてしまいたいと、あの時の私がどれほど思ったか。

「だが私は平和の象徴。愛欲ごときに屈しはしない」

 彼女の唇を奪う代わりに、やわらかい頬をむにっとつまんでこう言った。
『もう帰ろうか、君も疲れているだろう』
 芳月は少し傷ついたような顔をしたが、そうですね、と小さく答えた。

「馬鹿だなぁ。そのままどっかのラブホにでもしけこめばよかったじゃないか。疲れたから休んでいこうかってセリフは、ラブホに誘う時の常套句だろ」
「そんなことはできないよ。それより、あれがきっかけで向こうが強気なってしまってね、困っているんだ」
「困る事ないじゃないか」
「困るんだよ」

 芳月は分析力がある。おそらく彼女は私の気持ちに気づいただろう。なのにどうして自分の気持ちに応えてくれないのかと思っているに違いない。
 不幸にするのが見えているのだから、突き放すのが本当の優しさだ。
 だがそれがわかっているのに、私は芳月を突き放すことができない。施術を理由に、芳月の家に顔を出してしまう。
 私はいつから、こんなに意志の弱い男になったのだろうか。

「私が妻と別れた経緯を、君も知っているだろう?」
「知ってるけどさ。マドンナリリーが同じようになるとは限らないだろ。前の奥さんとは別れて五年もたつんだし、そろそろ新しい恋をしてみるのも悪くないんじゃないか?」

 塚内が手羽先にかじりつきながら笑った。脂ののった手羽先とビールの組み合わせが、この男には妙に似合う。
 私は天然塩で味付けされた鶏のつくねに卵黄をからめながら、努めて冷静に答えた。

「君だって私の事情を知ってるだろ?」
「大丈夫だよ。相手もヒーローだ。それなりの覚悟はあるだろう」
「……別れた妻もヒーローだったよ」
「うーん。彼女は現役を退いていたし、君が詳しい事情を話さなかったことにも原因があるんじゃないかな。マドンナリリーは現役で君の真の姿を知っている。話せる部分だけでも話してみたらどうだい?」
「そうはいかないよ。話したりしたが最後、彼女は絶対に私の事情を受け入れる。受け入れたうえで私を支え、癒そうとする」
「結構なことじゃないか。もともと君はひとりで抱え過ぎなんだ。それを支えてくれる存在ができるなんて、友人としてこれほど喜ばしいことはないよ」
「だめなんだよ。彼女は誰に対しても、そうやって身を削って癒しを与えようとするんだ。私はね、彼女には彼女を包み込んでくれるような包容力のある男とつき合ってほしいと思っているんだよ」

 塚内は私の顔を呆れたように見上げて、重症だな、とぽつりと漏らした。

***

「はー……終わった」

 長いこと格闘していたプリント作成にやっと勝利し、私は息をついた。
 腕時計に視線を移すと、時刻は七時三十分。
 今日は芳月のところに顔を出すことになっている。施術の予約は八時。今からなら、急げばどうにか間に合うだろう。
 いつもなら残業中の同僚でにぎわう職員室も、今日はめずらしく人がいない。

 六月特有の湿気を含んだ空気が、じっとりと肌にまとわりついてくる。こんな陽気の日はやや息苦しい。この国の梅雨は、いつからこんな熱帯雨林のような重たい空気を生むようになったのだろう。湿気はあっても、昔はもう少し軽やかであった気がするのに。
 ああ、違う。それはきっと、私の呼吸器が以前とは違ってしまっているからだ。

 梅雨の息苦しさを嘆いていてもしかたがない。
 さて行くか、と立ち上がりかけた時、背後でがらりと戸が開く音がした。入ってきたのは首元に捕獲武器をぐるぐると巻きつけた、長身の男……イレイザー・ヘッドこと相澤消太だ。

「オールマイトさん、残業ですか。珍しい」
「ああ、君もかい?」
「ええ。例の子の件で」

 相澤の言葉に、体育祭で強い印象を残した普通科の少年のことを思い出した。
 ああして自分の個性と実力をアピールすることに成功すれば、普通科からヒーロー科への編入を検討してもらえることがある。相澤はその件でいろいろと動いているようだ。
 若者が夢に向かって邁進するのはいいことだ。あの少年も力強い目をしていた。きっといいヒーローになることだろう。ヒーロー科への編入が、無事に決まるといいのだが。
 そう思って立ち上がった私に、相澤がまた声をかけてきた。

「オールマイトさん、少しだけお時間をいただいてもいいですか?」

 珍しい、と思った。この男が私に頼みごとをするなんて。

「大丈夫だよ。なんだい?」
「マドンナリリーのことです」

 相澤の口から芳月の名が出た瞬間、私の胸にぽつりとほの暗い火がともった。それをごまかすように、きわめて冷静にいらえる。

「マドンナリリー? 彼女がなにか?」
「いいかげん、はっきりしてやったらどうですか」
「なんのことだい?」

 空とぼけて答えながらも、教育に関すること以外では余計な口を挟まない合理主義者のこの男が、プライベートな部分に踏み込んできたことに、私は密かに驚いていた。

「あいつの気持ちに気づいていないとは言わせませんよ」
「私は、芳月くんとつきあうつもりはないよ」
「じゃあ、星を見に行ったりするのはやめたらどうです? その気もないのに期待を持たせるもんじゃない」

 どうしてそれを知っている、心の中でそうつぶやいた。そのつぶやきに煽られて、黒い炎が勢いを増す。

「本人にも君と恋愛関係になる気はないと、最初に伝えているよ」
「ずいぶんな話ですね。君と一緒になる気はないが、それでもよければってことですか。まるで不倫だ」
「だとしても、君には関係のない話だよ」

 相澤の言いようもいいようだが、自分の返しもそうとう突き放したものだ。
 もともとこの同僚とはウマがあわない。だが、私は相澤を嫌っているわけではなかった。どちらかというと、好ましい。教師としても、ヒーローとしても、彼の姿勢には頭が下がる。相澤は、本当の意味でのいい男だと思う。

 その時不意に、芳月はこの男のことをどう思っているのだろうか、という疑問が浮かんだ。
 相澤はいい男だ。だが、見た目はややだらしがない。この無精ひげや服装や食事に頓着しない感じは、芳月の保護欲をかきたてたりはしないのだろうか。

「卑怯なんですよ。あなたは」
「卑怯?」
「自分を好いてくれる女を突き放しもせず、受け入れもしない。どんな理由があったとしても、そこははっきりしてやらなきゃいけないんじゃないですかね」
「さっきも言ったけど、それは君には関係のないことだよね」
「確かに、関係はないですね。でもあいつに泣かれるのはうっとうしいんで」

 この言葉に、小さかった黒い炎が一気に燃え上がった。
 芳月が相澤を頼って泣く。その姿を想像した瞬間から、私の中の黒い炎は巨大になった。

 この炎の名を私は知っている。嫉妬だ。

「……彼女は、君の前で泣くのかい?」
「それこそ、オールマイトさんには関係のないことですよね。つきあっているわけじゃないんでしょうから」

 一本取られた、と思った。確かにそのとおりだ。どう返そうか、と思案していると、相澤がぼそりと呟いた。

「じゃ、お先に」
「え? もう話はいいのかい?」
「ええ。言いたいことは言いましたから」

 そう言い残して相澤は職員室から出て行った。やはり私は、彼には勝てない。

***

「君から見たらさ、相澤くんってどうなの?」

 施術後のラベンダーが漂う中で、シャツを羽織りながら私は芳月に問いかけた。

「どうって……男性としてって意味ですか?」
「ン。まあ、そうだね」
「いや、男性としては全然興味ないです」
「なんで? 相澤くんイケメンじゃないか」

 それに君は、彼の前では泣くんだろ。
 そう思った途端、また黒い炎が息を吹き返した。

「ええ、だからカッコ良すぎるんです」
「あのファッションとかは? こう言っちゃなんだけど、あのこ汚い感じに、君は母性本能をかきたてられたりしないのかい?」
「あれは先輩ならではの防衛術ですよ。イケメンだから、綺麗にしてると女性が寄ってきちゃうんです。きちんとしなくてはいけない場ではそれなりの行動ができる人ですし、そういうファッションもできますよ。本当にだらしがないわけではないんです」
「まあ、そうだろうけどさ」
「昨年、事務の方の結婚式に出た時なんか、すごいカッコ良かったですよ。ダークスーツを着て、髪を整えただけなのに」
「へえ」

 きいたりなんかするんじゃなかった。
 くすぶっていた黒い炎がめらめら燃えたち、勢いを増していく。

「それに、わたしに体術を勧めて仕込んでくれたのも相澤先輩ですから、そう言った意味でも先輩を男性としては見られないです」
「待ってくれ。異性の師匠なんて、初恋の相手としては王道じゃないか」
「そうですか? わたしの周りではあんまり聞きませんけど……あっ、わかった。オールマイトさんがそうだったんでしょう?」

 藪蛇とはまさしくこのこと。分析力だか女の勘だか知らないが、余計な詮索はやめてほしい。
 私のことはさておいて、スポーツの世界でもコーチと選手がそういう仲になるということは、実際のところ、よくある。

「まあいいですけどねー。でも」

 と、笑う芳月の口から出た次の言葉が、私の中の黒い炎を増大させた。

「ヒーローとして一番尊敬しているのはオールマイトさんですが、人として一番尊敬しているのは相澤先輩かもしれません」

 芳月、今、君は自分がどんな顔をしているかわかっているか。そんな顔で私以外の男を語ることは許さない、そんな目で他の男を見つめることも同様に。
 私の闇に気づかない芳月は、いつもの調子でやわらかに微笑む。

「オールマイトさん、美味しいミントティーが手に入ったんです。いかがですか?」

 施術のあと、芳月はいつも私にお茶を勧める。これは私に限ったことではなく、よほどのこと―たとえば別れた夫婦がここで鉢合わせする―ようなことでもないかぎり、施術とその後のお茶はセットになっているという。
 だが、私がこのすすめを受けたのは最初の時だけだ。

 扉一枚隔てた先が寝室だというダイニングに二人きりでいて、何もしないでいられる自信がない。
 それでも毎回、芳月は私にお茶を勧める。

「悪くないね。でも今日は別のものが飲みたいな」

 けれど私は、今日は芳月の誘いに応じた。聞きたいことがあったからだ。
 いつも断る私が応じたことで、芳月は一瞬、とても驚いた顔をした。

「じゃあ、ワインにしましょうか。マッサージ後は血行が良くなりますから、酔いやすくなるんです。酔ったら介抱してあげますよ。そのついでに既成事実も作っちゃいますけどねー」
「ワインか。悪くないね、赤? それとも白?」

 車で来ていると思い込んでの言葉だろう軽口に、私はいらえた。途端に、芳月が手にしていたマッサージオイルを取り落す。

「お…オールマイトさん、お車なんじゃ?」
「あいにく車検に出していてね。今日は電車で来たんだよ」
「お酒を飲んで大丈夫なんですか?」
「本当は良くないんだけど、ごく少量なら問題ないよ。君、一本くらいなら一人で空けられるだろ?」
「あの…ワインは赤です。わたし、ひとりでも一本空けられるので、少しだけ味見なさってください。わたしは美味しいと思うんですけど……安いチリワインなので、オールマイトさんのお口に合うかどうか……」
「関税の関係で、チリのワインは安くても美味しいものがあるって聞くよね」

 たのしみだな、と微笑むと、芳月は、今準備します!と叫んで、ダイニングにすっとんでいった。

***

 自転車の絵がトレードマークのチリワインは、確かに、価格の割にはうまかった。

「ところで、君と相澤くんが師弟関係だったって、どういうこと?」
「師弟っていうよりも、同じ先生に師事していたから兄妹弟子ってところでしょうか」

 酔いで頬を赤く染め、身ぶり手ぶりを交えながら説明してくれる。そんな必死な姿もまたかわいいな、と密かに思った。

「ほら、私、この程度の個性しかないんで、一年の初めは落ちこぼれ寸前だったんですよ。普通科に落とされないようにするにはどうしたらいいかと悩んでいた時に、体術を極めることを勧めてくれたのが相澤先輩だったんです……」

 師匠は、と、芳月は私も知っている古参のヒーローの名を挙げた。数秒間だけ相手の動きを止めることができるという些細な個性でありながら、170センチに満たない小柄な体で増強系の個性を持つヴィランをばたばた倒した、格闘術の達人だ。そのヒーローの戦闘スタイルは、言われてみれば相澤のそれとよく似ている。

「相澤先輩には、よく組手の相手をしてもらいました。休み時間とか」
「休み時間も」
「そうですよー。早く行かないと相澤先輩寝ちゃうんで、五分くらいでぱぱっとお昼を食べて……ほぼ毎日、三年生の教室に行ってました」
「へえ……」
「相澤先輩は普段は優しいんですけど、組手の時は全く容赦してくれないんですよねー」
「……そうかい」
「そのうえ教室に突撃しても三回に一回は逃げられて、そういう時はマイク先輩たちにつかまって……そういえばその流れでしたね、最初の彼氏と話したの」

 ワインのせいか、今日の芳月はいつにもましてよくしゃべる。おかげで聞きたくない元彼の話まで聞かされる羽目になってしまった。

 あっ、そうそう、その頃の写真もありますよと、芳月はいきなり立ち上がり、目の前の扉を開いた。

 予想通り、開き戸の向こうは寝室だった。
 引き出しのついたシングルベッド、淡いグリーンのベッドリネン。低めのチェストとサイドボード。
 目のやり場に困って、私は自身の持っているグラスを眺めた。軽くテイスティングする程度しか飲んでいないので、殆ど中身は減っていない。
 ピノノワール特有の透明感のある赤い色味が美しかった。その赤が芳月の唇の色を連想させ、私はますます動揺した。

「これです」

 芳月はサイドボードからサーモンピンクのアルバムを引っ張り出してきて、動揺している私の前にとんと置いた。

「向かい合わせだと見づらいんで、隣に座っちゃいますね」

 次に芳月は私の隣に椅子を引きずってきた。つきあってもいない男女が小さなダイニングセットの一角で密着して座る。これは非常に困った事態だ。
 そのうえ、引き戸は開けっ放しで、ベッドルームが丸見えだ。

 わざとやってるんじゃないだろうな、と警戒したが、イランイランの香りはしない。つまり、今、芳月はまったく「そういうこと」を意識していないということだろう。
 その無防備さに、また黒い気持ちが湧いてきた。

 ひろげられたアルバムの中で、高校時代の芳月が笑んでいた。少女特有の柔らかそうな薔薇色の頬、ふっくりと赤くそまった唇、夢を宿した印象的なまなざし。
 少女たちを中心にしたアルバムの中に、ちょこちょこと、金髪を逆立てた長身の少年と、端正な顔立ちをした黒髪の少年の写真が混じっている。枚数は金髪……プレゼント・マイクの方が多い。
 映っている枚数の違いは、おそらく性格の違いによるものだろう。そう思いながらページをめくっていた私は、あることに気がついて顔をひきつらせた。
 ページを追うごとに、相澤の写真が増えている。

 芳月には悪いが、これ以上もう見たくない。

 塚内に言った、彼女を包み込んでくれるような男とつき合ってほしい、という言葉。それは決して嘘偽りではなかった。本心からそう思ってきたつもりだった。
 相澤は人間性にも優れ、若く、そしてなにより健康だ。彼ならば申し分ない。現在は兄妹弟子のような関係なのかもしれないが、それでもこの二人はお似合いだ。
 なのに度し難いことだ。めらめらと、私の中で黒い炎が燃えあがる。

「あ、でも誤解しないでくださいね。相澤先輩は、本当はすごく優しいひとなんです。あのひとより優しい人をわたしは知り……」
 
 最後まで言わせたくなかった。
 黙らせたかった。

 だからその細い手首を掴んで、むりやり唇を塞いだ。

 がしゃり、と音がしてワイングラスが倒れた。赤い液体がぽたぽたと床にこぼれる。
 それを無視して、私は芳月の口腔内に舌をねじ込んだ。
 間髪おかず、目もくらむような甘い香りが巻き起こる。百合と似た、だがもっと甘やかで官能的な、脳髄をしびれさせるような香り。

 いったん唇を離し、芳月と見つめあった。絡む視線に拒絶はない。ただただ優しい瞳で私を見つめる、聖母の百合がここにいる。

 難しいことはもういい。
 他の男には渡したくない。
 ただこのひとが欲しい。
 
 芳月を自分の膝の上に座らせて、もう一度貪るように唇をあわせた。柔らかい感触、甘やかな香り、温かな体温。
 今、己を突き動かしているのは、欲なのか、愛なのか、嫉妬なのか、それともそのすべてであるのか。それすらももう、わからない。

 ラベンダーの残り香とワインの香りをかき消すように立ちのぼるのは、花の中の花。
 こぼれた赤ワインと芳月の唇の色が、頭の中で重なりあって、そして弾けた。

2016.6.8
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月とうさぎ