麻布十番商店街のおこりは、江戸時代。麻布山善福寺の門前町で、庶民の町として栄えてきたという。その中で、「桂月」の開業は明治三十三年。といっても、祖父の話によれば、当初は煎餅屋だったらしい。和菓子屋になったのは、昭和時代のはじめだ。
その「桂月」の娘であり、和菓子職人でもある果衣菜は、店の前を掃きながら、大きなためいきをついた。
「おい、果衣菜。店の前でためいきなんか吐くんじゃねえ」
昔気質の父親の声に見られたら、きっとそう言われてしまうことだろう。誰にも見られなくて良かったと、肩をすくめて、頭上に視線を移す。
はためくは、オレンジの地に紫色の文字で『ハッピーハロウィン』と書かれたのぼり。
今月のあたまあたりから、商店街はすっかりハロウィン一色だ。
明治から続く老舗も、時代の波には勝てない。
果衣菜の生家である「桂月」も、ハロウィン向けの練り切りを販売している。
綺麗なオレンジ色をしたジャック・オー・ランタン、クロネコ、白いおばけ。手先が器用な兄の、渾身の作。
だが、果衣菜がついたためいきの理由は、ハロウィンにはない。
会いたいと思いながら、会えていないひとがいる。ずいぶん年上の、お化けが苦手な痩せた男。八木のことだ。
夏に沖縄で知り合って、先月、商店街の入り口で再会した。その日怪談バーに繰り出して、帰り際に連絡先を交換して、現在に至る。もう十月も、終わりに近い。
店の新作を口実に何度か連絡したものの、お互いの予定がなかなかあわず、直接会うには至らない。せめてお店にでも来てくれればいいのにと思うが、残念なことに、それもない。それがとても、さみしかった。
桂月の菓子が好きだと言っていたのは、社交辞令だったのだろうか。
あの怪談バーの夜以来、いや、プールサイドバーでの出会い以来、自分の中に小さなしこりが生まれてしまった、と果衣菜は思う。
このしこりの名を、果衣菜は知っている。けれどそれを認めてしまうには、まだ早い。もう少し互いを知って、それからでもいい。
箒を片付けながら、果衣菜はまたひとつ、大きなためいきをついた。
***
果衣菜の待ち人……八木が店にふらりと現れたのは、ハロウィン当日のことだった。
二メートルを超える長身と、かりかりに痩せた枯れ木のような手足。黒地に薄いグレーのピンストライプの入ったスーツを着ている八木は、仮装しなくても骸骨紳士のようだ。
「久しぶり」
言いながら屈託なく笑う、その顔がかわいかった。
「ほんと、お久しぶりです」
「ここ最近、東海のほうとこっちを、行ったり来たりしてたから」
「出張が多いお仕事なんですね」
「ん。まあ、今年度いっぱいはそうなるだろうね」
そういえば、このひとと初めて会ったのも沖縄だった。なにをしているのかは知らないが、八木は多忙なひとだ。
「でも、ハロウィンに間に合ってよかったよ」
「どうしてです?」
「だってほら、最近は和菓子屋さんもハロウィン向けのお菓子を販売するじゃないか。これもそうだけど、ハロウィンのお菓子って、ほんとうにかわいいよね」
兄の作った上生菓子を見て笑う八木の顔が、常連であるヒーローのそれと重なった。どうしてだろう。身長や年齢は同じくらいだけれど、ぜんぜん体格が違うのに。
「……昨日、同じものをオールマイトも買っていったんですよ」
「ヘエ」
麻布十番という土地柄か、「桂月」は著名人の客が多い。
我が国が誇るナンバーワンヒーローもそのひとり。彼は意外に甘党で、かわいいものが大好き。
とても気さくなひとで、果衣菜のような見習い菓子職人に対しても、優しく話しかけてくれる。もちろん話の内容は、今日のおすすめは、とか、桂月のあんこの美味しさについてなど、業務にかかわるものがほとんどだけれど。
「ほら、すぐ近くにオールマイトの事務所があるから。よく来てくれるんですよ」
「ふうん」
八木はオールマイトにはあまり興味ない様子で、上生菓子を見つめている。これは話題を変えたほうがよさそうだな、と、なんとなく思った。
「じつは、ハロウィン仕様の和菓子を、わたしも作らせてもらったんです」
「え、どれだい?」
「いいできだったんですよ……でも、お店には出せないって言われてしまって……」
そう、あれはほんとうにいい出来だった。見た目も味も、ばっちりの出来だったのに。
「どうして?」
「リアルすぎるそうです。つやつやの水まんじゅうを食紅で彩った、血まみれの目玉は」
「ああ……それは……」
納得、と言わんばかりの顔をされ、思わず肩をすくめた。
そういえば、八木は怖いものが苦手だった。きっとこのひとは、兄の作ったかわいくて繊細な練り切りのほうが好きだろう。
「でも残念だな。食べてみたかった」
「ありがとうございます」
社交辞令だとしても、その心遣いが嬉しかった。
「ねえ、桂月さん」
「はい」
「今日、このあと暇かい? 」
「……はい」
「急で悪いんだけど、先月バーに連れて行ってもらったお礼に、食事でもどう? 君に支払わせてしまったからさ」
お礼もなにも、あの夜の会計は割り勘だった。八木はすべて持とうとしたが、苦手なところに連れて行ってしまったのだからと、押し付けるように自分の分だけ支払ったのだ。
怪談バーでのあの時間が、八木にとって楽しいものだったとは思えない。
けれど、それを確認するほど、果衣菜は無粋ではなかった。だからにっこり笑って、しずかにいらえる。
「いつも突然ですよね。わたしたち」
「そうだね。前回は君からの急なお誘いだった。で、何時に迎えに来ればいいかな? お店はたしか六時半までだったよね」
「はい。なので、七時でもいいですか?」
「了解。では、七時に」
そう言って、八木は兄の作ったお化けの練り切りをひとつだけ購入し、店を出た。
練り切りひとつのために、わざわざ店に来たとは思えない。
もしかしたら八木は、自分を誘うために来てくれたのではないだろうか。そんなふうに、ついうぬぼれてしまいそうになる。
過剰な期待は禁物と、果衣菜はそっと、かぶりを振った。
***
八木が連れて行ってくれたのは、商店街から歩いて10分ほどの距離にある、隠れ家じみたかわいいレストランだった。
大使館の多い区域だから、こういった店がいくつか存在するのは知っていた。だが、ここに来たのは初めてだ。
小さいが瀟洒な庭の中にあるフランスの田舎屋をイメージした建物は、とても可愛かった。調度品はアンティークだろうか。椅子もテーブルも猫足で、落ち着ける雰囲気だ。
「かわいいですね」
「気に入ってもらえて良かった。こうしたこぢんまりしたお店は一人で来てもいいけれど、やっぱり同伴者がいたほうが楽しいからね」
季節の野菜のゼリー寄せから始まったお料理も、美味しいだけでなく、とてもかわいかった。
フレンチの盛り付けは繊細なので、和菓子を作る際の参考にもなる。
それだけではない。お料理に合わせてお酒を変えても、誰にも何も言われない。
アミューズと前菜にはシャンパンを。スープとポワソンには白ワインを。ヴィヤントには――果衣菜は鹿を選び、八木は鶏を選んだ――赤ワインを二杯。それぞれグラスでいただいた。
「相変わらず強いね」
食後のデザートに、珈琲だけでなくカルヴァドスをと告げた時、とうとう笑われてしまった。
「……ごめんなさい……好きなもので」
「いや、構わないよ。綺麗に食べながら飲んでくれると、こちらも見ていて気持ちがいい」
やってしまった。飲めない八木は、食後の珈琲以外は、はじめからずっとミネラルウオーターで通している。それなのに。
呆れられてしまったかとも思ったが、良く考えたら、沖縄での食事の時も、こんな感じだった。いや、あの時の方が飲んだかもしれない。
それでもこうして誘ってくれるのだから、八木はそのあたり、寛容なタイプなのだろう。
***
「さむっ」
「明日から十一月ですからね。風も冷たいですよ」
「そうだけどさー、日中との寒暖差が激しすぎるよね。この辺りはビル風もすごいし」
トレンチコートの前を掻き合わせながら、八木が言った。なんでもない仕草なのに、なぜかかわいい。
やっぱりこのひとはかわいい。このひとといると楽しい。そして、このひとに会えないと寂しい。
もう誤魔化せない。この気持ちの名は、恋だ。
このままお開きになってしまうのかと思うと、とても残念な気がした。かといって、昨日東海地方から帰ってきたばかりの人に、もう少し一緒にいたいだなんて言い出すのも、気が引ける。
「あっ、八木さん。商店街に向かうには、こっちのほうが近いかも」
だから、さりげなく狭い路地に誘導した。でも本当は、ほんのすこしだけこちらの方が遠回り。麻布で生まれ麻布で育った果衣菜だからこそ、知っている小道。
「この公園を抜けるんです」
小さな公園に足を踏み入れた時、ふわりと甘い香りがした。
色にたとえるならオレンジ色のそれは、金木犀の花の香。
「あの……」
「ん?」
急に足をとめた果衣菜にあわせて、八木も立ち止まった。
別れ際に渡そうと思っていた紙袋を思い切って差し出すと、返ってきたのはすこし不思議そうな表情。
「なんだい?」
「お店でお話した、目玉の水まんじゅうです。グロテスクなので八木さん苦手かもしれませんが、先ほど食べてみたかったと言ってくださったので……よろしければ」
「ああ。そういうことか。なんか催促しちゃったみたいで悪いね。ありがとう。いただくよ」
ニコリと笑った、その顔がやっぱりかわいい。
「だが残念だ。私はこれで、君にいたずらをする権利を失ったわけだね」
おどけてウインクされた瞬間、果衣菜のなかでなにかが弾けた。
そうだ。今日は、ハロウィンの夜。
トリック・オア・トリート……お菓子をくれなきゃいたずらするぞ。
こちらから、いたずらをしかけてみてもいいだろうか。
漂ってくる、優しく甘い芳香は金木犀。
その花びらが風に舞い、八木の金色の髪の上にふわりと落ちた。
「八木さん」
「ん?」
「髪の毛に、お花が」
「え? どこだい?」
「とってあげます。ちょっと屈んでもらえます?」
「ありがとう」
精一杯背伸びして、大きく腰を曲げた八木の額の生え際に、そっと触れた。想像していたよりも、八木の髪は柔らかだった。
絹糸みたいな、細く綺麗な、金色の髪。
黄金色の煌めきの上にひっかかっている小さなオレンジ色の花を指でつまみあげ、果衣菜は思い切って声をあげた。
「トリック・オア・トリート」
は? という声があがったのと同じタイミングで、肉付きの悪い頬に唇をあてた。ちゅ、と小さな音をたてて。
「……ッ……?!」
「わたしはお菓子をあげたのに八木さんはくれなかったので、いたずらしちゃいました」
照れ隠しにぺろりと舌を出すと、八木の顔がみるみる真っ赤に染まった。
しどもどしながら口をぱくぱくさせている八木は、やっぱり可愛い。
ああ、自分はどうしようもなくこの年上の人が好きなんだなと実感し、果衣菜は心の中でため息をつく。
「いたずらしちゃってごめんなさい」
ぺこりと頭を下げた瞬間、きゅっと手首を掴まれた。
なに、と声をあげる間もなく、甘苦いシナモンの香りがする長い腕に包まれた。自分が抱きしめられたのだと気がつくまで、数秒かかった。
「いたずらっこだな。お返しだよ」
甘く響く低音と共に近づいてくる、彫りの深い顔。
思わず、目をとじた。
とじた瞼の上に、そっと落とされた、優しい唇。
「あまり大人をからかうもんじゃない」
ふ、と笑ったその顔は、先ほどまでとは全く違う、大人の男のものだった。
ああ……もしかしたらこのひとは……。
「さあ、行こうか。あまり遅くなってもいけない」
果衣菜を開放しながら、また八木が笑む。まるで、何もなかったように。
いたずらをしかけたつもりが、軽くいなされてしまった。
ああ……もしかしたら……と、果衣菜は思う。
もしかしたらこのひとは、わたしが思っていたよりずっと、慣れた人なのかもしれない、と。
裏手の方向から、風に乗ってバイオリンの音が流れてくる。
この曲はなんといっただろう。消音器を使っているだろうバイオリンの音色は、ごく小さいにもかかわらず、胸の音が締め付けられるように切なくきこえる。
果衣菜は八木に聞こえないよう、小さな小さなため息をついた。
2017.10.31
2017 ハロウィン
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