池の周りはビルの谷間にあるとは思えぬほど日当たりがよく、木々の隙間から漏れる日差しは柔らかい。
あたたかで穏やかな小春日の陽光は、八木に若い知人を思い起こさせた。
砂糖を煮詰めたような香りのする、和菓子屋の娘を。
あの夜、小さな公園を抜けていこうと果衣菜は言った。そちらの方が近道なのだと。
表通りを行った方が近いような気がしたが、あえて口には出さなかった。
その公園でされた、頬へのキス。
金木犀に混ざった、独特の甘い香りにくらりとした。花や果実の香りとは違う、砂糖を煮詰めたシロップのような香りだった。
菓子職人という仕事柄、香水の類ではないだろう。あれはおそらく、果衣菜の香りだ。日々砂糖を煮詰め続けることで染みついた、職人の香り。
『お菓子をくれなかったので、いたずらしちゃいました』
そうおどけて笑った果衣菜を自分のものにしてしまいたいと、八木はあの時、確かに思った。
抱きしめて、この腕の中に閉じ込めて、おそらくは甘いであろう唇を、存分に堪能して。
しかしそれを実行に移しかけた刹那、果衣菜は身をかたくした。
その時、八木は気づいた。
自分が思うよりもずっと、果衣菜はこうしたことに慣れていないと。
だからとっさに瞼にキスを落として、彼女を解放した。
「ま、それでよかったよ……」
と、八木は黄色い枯葉を踏みしめながら、安堵の息をつく。
もしも果衣菜がもう少しすれていたならば、あの夜、そのままベッドまで行ってしまったかもしれない。
帰り道、女性が遠回りをしたがることの意味が分からぬほど、八木は初心でもなければ野暮でもなかった。それなりの場数は、踏んできているつもりだ。
果衣菜は自分に気がある。これはうぬぼれではないと確信できる。自分も、彼女に好意を抱いている。
その場合の、選択肢はたった一つだ。
だが、果衣菜はまだ若い。製菓学校を出て、まだ一年か二年だったはず。おそらく、二十一、二歳。
そんな若い女性と、サー・ナイトアイによって余命わずかと予知された自分が恋愛をするなど、許されることではない。
八木は、ぐるりと回りを見渡した。
庭園内には、たくさんの樹木が植えられている。紫陽花、桜、そして寒椿。
冬の花である寒椿の樹に、小さな蕾がたくさん芽吹いているのが見えた。
ため息をつきながら、八木は歩を進めた。足元に落ちている葉が、踏みしめるたびに、かさかさと乾いた音をたてる。
果衣菜があの寒椿の蕾だとしたら、己はこの落ち葉にも、等しい。
結局、果衣菜とはそのままだ。向こうも気まずいのか、あれきり連絡はない。
少しさみしいが、このまま少し距離をおく。おそらくそれが、正解なのだろう。
***
黒いシルクのシャツの上からキャメルのトレンチコートを羽織って、エントランスを出る。
途端、冷たい風が頬を刺した。コットン地のトレンチではなく、カシミヤを選択してよかった。11月は風の強い日が多いが、今日はとくにひどい。
ずいぶん前のことになるが、強風にあおられて都内の電車が脱線したことがあった。そこまでの風ではないものの、いつでも出動できるよう、それなりの心づもりはしておいた方がいいかもしれない。
そう思いながらトレンチの襟を立てた瞬間、ポケットの中の携帯端末がぶるぶると震えた。
取り出すと同時に画面に浮かび上がる、桂月果衣菜の文字。
「え……」
驚いたことに、メッセージではなく、電話だった。
いったいなんの用だろう。だがいずれにせよ、あんなことのあとだ。果衣菜はきっと、勇気を振り絞ったに違いない。
「もしもし……八木さんですか? 桂月です」
「ああ、君か。なんだい?」
応えた声は、自分でも驚くくらい甘かった。和三盆にでもなったような気分だ。
久しぶりに声を聴いた。ただそれだけのことで、こんな気持ちになるなんて。
「お久しぶりです……あの……新作の干菓子ができたんですが、ご意見を伺いたいなと」
「ああ」
新作の意見を聞きたい、という果衣菜の言が、口実であることはわかっていた。
あの厳しい店主が、不出来な菓子を店に出すはずがない。だめであれば、ハロウィンのときの水まんじゅう同様、日の目を見ることは叶わない。
都会の一等地で、長きにわたって老舗の看板を掲げ続けていられるのには、それなりの理由がある。
「なので、明日あたりどうですか」
残念だ、と、八木は心から思った。
明日は、朝一番の新幹線で雄英方面に向かうことになっている。こちらに帰ってこられるのは、来月の半ば過ぎになるだろう。むろん、出動要請があればその限りではないが、事件が解決し次第、また静岡方面に戻ることになる。
これから受験までの数か月は、後継者たる弟子の特訓にじっくり付き合うつもりだ。未だ雛鳥ですらない、だが孵化さえしてしまえば鳳雛になるであろうあの少年を、鳳凰……最高のヒーローにするために。
「残念だけど、明日からまた出張なんだよ」
「そうなんですか。では、こちらに帰ってきたら……」
「それがね、今回はちょっと長引きそうなんだ。来月の半ば過ぎまで、こちらには帰ってこられないと思う」
「……そうですか。残念です」
酷く沈んだ声だった。
果衣菜のこういう声は珍しい。傷心旅行のあの時ですら、この子は凛としていたというのに。
「……今日なら」
「はい?」
「今日なら大丈夫だよ」
反射的に、そう告げてしまっていた。
これが電話でなければこんなことは言えなかっただろう、と、八木は思う。
そうだ。文字上のやりとりであれば、ごめんね、の一文ですんだことだ。
だが、声を聴いてしまったら、もう駄目だった。
「そうだな……八時過ぎなら。君はどうだい?」
「大丈夫です」
「じゃあ、近くで食事でもしよう」
距離をおくのが互いのためだ。それはわかっている。
しかしこの機会を逃したら、次に会えるのは半月以上先になってしまう。その前に一目、彼女の姿を見ておきたい。その気持ちを抑えられない。
頼りなくふわふわしているくせに、理性で制御しきれないこの気持ちの名を、八木は知っている。
己には必要ないと、あえて遠ざけていた感情だ。
なんとかしなくてはいけない。どうしようもなくなる、その前に。
ああ、けれど……と、八木は心の中で嘆息する。
こんな風に考えている時点ですでに、おそらくもう、手遅れなのだと。
***
食事にと果衣菜が選んだのは、意外にもしごく庶民的な店だった。炭火の上に網をかけて魚介類を焼く、いわゆる『カキ小屋』と呼ばれるものに近い店。
「こういう雰囲気の店は、久しぶりだな」
「苦手でした?」
「いや。活気があって好きだよ」
「ここね、とても美味しいんです。お酒もいいのがそろってて」
殻つきの牡蠣を網にかけながら、果衣菜が笑った。
酒豪の彼女の手元には、透明な冷酒。冷えたコップ酒をぐいとやりながら、焼きたての貝を一口……と言えば豪快な印象だが、果衣菜がすると、妙な色気と品がある。
おそらくこの子は立ち飲み屋にいたとしても、ホテルのプールサイドバーにいた時のように、気品ある毅然とした女性に見えるのだろうと、ひそかに思った。
「八木さん」
「ん?」
「きょう、帰りの電車が止まっても大丈夫ですか?」
「は?」
言葉の意味を深読みし、あやうく吐血しそうなところを、ギリギリこらえる。
八木が動揺したことに気づいたのだろう。果衣菜が、違うんです、と手を振った。
「あの、この風で電車が止まったら大変だと思って。地下鉄はいろんな鉄道会社と乗り入れしているので……」
「ああ。そういうことか。家もこの辺だから問題ないよ。実はね、桂月から歩いて十分かからないくらいのところに住んでる」
「え、すごい近くじゃないですか」
「うん。だから風で電車が止まるようなことがあっても、問題ないんだよ」
……とはいえ、この風で電車が脱線するようなことがあったら、出動要請が来るだろう。自分だけでなくすべての人たちのためにも、そうならないでほしいと、心の底から強く願う。
と同時に、この風の中に呼び出されたことより、呼び出したこちらのことを気遣ってくれる果衣菜の優しさを、八木は嬉しく思った。
「オールマイト」である時に己を案じてくれる人など、そういない。むろん、ヒーローは、人々に不安を抱かせるようではいけない。万人から信頼されてナンボの職業だ。
それでもこんなふうに、個人としての自分を気遣ってもらえたことが嬉しかった。
「そうそう。この間の水まんじゅう、美味しかったよ」
「よかった……水まんじゅうは秋のお菓子ではないんですが、そう言っていただけてほっとしました」
あの夜、果衣菜がくれた水まんじゅうは、とても美味だった。ひんやりとした舌触りと、淡い甘さと、上品な味わい。また、量がちょうどよかった。もう少しだけ食べたいなと思わせる、その絶妙な加減。
あれだけの味の水まんじゅうが店頭に並ばなかった理由は、おそらくふたつ。ひとつは本人が言うように、季節はずれであったこと――だがこれはハロウィン時期だけなら許されるような気もする――そしてもうひとつは……。
「ただ、すごいリアルだったよね。目玉が。ちょっと食べるの躊躇しちゃったよ」
「同じことを父にも兄にも言われました。忠実に作ればいいってもんじゃないって。和菓子には美しさも大事なんだって」
「職人さんは大変だな」
「……で、兄に言われたんです」
「ん?」
「おまえは一度、他店に修行に出たほうがいいんじゃないかって。自分の家しか知らないと、どうしても世間知らずになりますし……」
「修行って、どこのお店に行くの? 日本橋あたりかい?」
すると果衣菜は、下をむいて口ごもった。
物事をはっきりと告げることの多いこの子にしては、珍しい。
「……父のお弟子さんのところなんです。とても繊細なお菓子をつくるひとで、総理大臣賞をとったり、各国のVIPが来日した時のお菓子を担当したりしている、すごい優秀な職人さんなんです」
「うん」
修行先の店主の話はしても、店の場所を言おうとしないことが気になった。
もしかしたら、都内ではないのかもしれない。とすれば京都辺りだろうか。
「ただ……」
「なに? 迷ってるの?」
「……遠いんですよ……わたし、東京を離れたことがないから、ちょっと不安なんです」
「……そうか」
八木は、自分がひどくショックをうけていることに気づいていた。
自分は来年度になったら東京から離れてしまう身だ。けれど、こちらに来る用事はいくらでもある。その時にたまに店に顔を出せれば、関係が切れてしまうことはないだろうと高をくくっていた。つき合うことができなくても、たまに顔を見て、こうして会話ができればいいと。
けれど果衣菜が地方に行ってしまうなら、そうはいかない。きっと、そのまま会えなくなるだろう。
それでもやっぱり、ここは後押ししてやるべきだ。果衣菜のためにも。
「そうか……それはさみしくなるな」
この言葉に、果衣菜の瞳が大きく揺れた。
「……ですね……」
「実は私もね、今年度いっぱいで東京を去る予定なんだ」
「え?」
「かつての恩師の誘いもあってね。今の事務所は仮閉鎖という形をとって、向こうで働く予定なんだ」
「ああ、じゃあ、いずれにせよ、今年度いっぱいでお別れってことだったんですね」
「……そうなるな」
「なあんだ……そうか……そうなんですね」
そう言って、果衣菜はかぱりと酒杯を干した。
おそらく果衣菜は、もう少し気の利いたことを言ってほしかったに違いない。
八木にも、それはわかっている。けれど距離を置くと決めている以上、気を持たせるようなことを言うわけにはいかなかった。
「じゃあせめて、お互いが東京にいる間だけでも、楽しくやりましょう」
コップをあわせながら、果衣菜は、明るく笑った。
***
「八木さん。じゃあ、干菓子を食べたら感想くださいね」
「うん」
「それから、また会ってもらってもいいですか。出張から戻ったら」
「……うん」
店の出口で、新作の干菓子を渡されながら告げられた言葉に、なさけない返答をしてしまった。
まったく、自分は何をしているのかと思う。
それでもやっぱり、こうして会えると嬉しいし、楽しい。そして、もうすぐ会えなくなるのだと考えると、ひどく苦しい。
泥沼の中に踏み込んでしまったような気がする。前にも後ろにも進めず、ただずぶずぶとこの身を飲みこんでいく、底なし沼に。
四十にして惑わずと、誰が言ったか。
五十にして得るべき天命は、すでに知っている。それは亡くした師匠にも誓ったことだ。己は、世界を支える柱であり続けるのだと。だから己のゆく道について、迷いはない。
だが、ヒーローとしては不惑でも、こういう人間としての感情の部分で、自分は未だ、愚かにも惑い続けている。
ざあっという派手な音と共に、風が街路樹の葉を散らした。枯葉を舞わせ、己の髪を揺らし、頬をつき刺すのは、十一月の木枯らしだ。
「あの……八木さん?」
「ああ。ごめん。まだ風が強いね。家まで送るよ」
「……いつもありがとうございます。でも、遠回りじゃないですか?」
「いや、通り道」
いらえながら、八木は果衣菜を強風から護るために、立ち位置を変えた。枯れ木のようになってしまったが、上背があるため、骨格はそれなりにしっかりしている。痩せてしまったこの身体でも、少しは風よけになるだろう。
惑い、そして悩みながら、風に向かい立つ。
結局のところ、自分はこういう生き方しかできないのだ。
2017.11.19
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