毎年十二月になるとさまざまな光に彩られるこの街の、今年のテーマは金色だ。公園内の木々にも、すでにいくつかの発光ダイオードが飾られている。
今はまだ明かりがついていないので面白みのない景色だが、あと二時間もすれば、六本木の街は黄金色に包まれる。それはまさに、イルミネーションの織り成す光の洞窟。
その黄金色は、果衣菜に同色の髪をした背の高い男のことを思いおこさせた。
気づけば、八木のことばかり考えている。
木枯らしが吹き荒れた夜、さみしくなるな、と八木は言った。
行くなと止めてもらえるとは思わなかったが、言い方があまりにあっさりしていたのがさみしくてしかたない。なにより、行先を聞いてもらえもしなかったことが、悲しかった。
だからその後、『私も東京を去る予定なんだ』と語った八木に、行先を問うことができなかった。
今月半ばに東京に帰ってきた八木と会ったが、またすぐに向こうに行かなければならないとのことで、軽くお茶を飲んだだけで別れた。それからすでに一週間経つが、彼からの連絡はない。
わかっている。はなから望みのない恋だ。
向こうから連絡がくることはほとんどない。誘うのはたいてい果衣菜から。声をかければ会ってくれるが、それだけだ。進展はなにひとつない
一度、瞼にキスをされたことがあるが、あれは果衣菜が先にしたキスを、ハロウィンのからかいとしてかわすための行為だろう。
八木は優しい。優しくて紳士的で、そして少し残酷だ。女性としての果衣菜に興味が持てないなら、すっぱり切ってくれればいいのに。
「あーあ……」
独りごち、果衣菜は空を見上げた。嫌でも視界に入ってきてしまう、この界隈で最も背の高いタワー。
オールマイトの事務所や大手企業のオフィスだけでなく、美術館まである、有名な建物。
八木のオフィスも、あの中にある。
八木が何をしているのか、果衣菜は知らない。だが、言葉のはしはしから、彼が勤め人ではなく経営者であることは伝わってくる。
あのタワー内で事務所を経営できるのがどんな層であるか、果衣菜は知っている。職種がどうあれ、その世界では一流と評価されるような人間だ。
比べて自分は、まだ半人前。年齢差もある。
彼にとって果衣菜は、たまに食事をするだけの若い知人。きっとそんなところだろう。
こみあげてきた感情に、胸と鼻の奥がツンと痛んだ。涙がこぼれないようにきゅっと目を閉じ、鼻を啜りあげる。
その瞬間、前方から勢いよく突進してきたなにかとぶつかった。
ぶちゅっ、という音の後に続いた鈍い痛みと、広がる生臭い匂いと、ひざ下を伝う濡れた感触。
果衣菜がおそるおそる視線を下へと向けると、小さな男の子がしりもちをついている姿が見てとれた。
男の子の口元に、黒い液体がこびりついている。一瞬、血かと思って慌てたが、どうやらそうではないようだ。
次に果衣菜は、自らのコートに粘度のある黒い液体がべっとりとこびりついていることに気がついた。
生臭い匂いと、濡れた感触の正体はこれだ。
「大丈夫?」
子供に声をかけると、男の子は泣きそうな顔で果衣菜を見上げてきた。
五歳くらいだろうか。
吸盤のついた長い手指は細長く、白い。男の子の個性はきっとイカだ。
まだ制御できないのだろう。ぶつかった拍子に、スミを吐いてしまったに違いない。
「だいじょうぶ? いたいところはない?」
果衣菜はしゃがみこんで、男の子と視線の高さをあわせ、先ほどよりも柔らかい声で問うた。男の子がこくりとうなずく。
「よかった。おねえちゃんもよそ見してたから。ぶつかっちゃってごめんね」
「うん」
「申し訳ありません! コートが!!」
やっと男の子に追いついた母親らしき人物が、慌てたように言った。
「大丈夫です。こちらもよそ見をしていたので……それより、お子さんに怪我がなくてよかった」
「せめてクリーニング代を……」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
「でも……」
平謝りする母親にもう一度、大丈夫です、と告げ、果衣菜は早足で日本庭園を後にした。子どもに怪我がなければそれでいい。
とにかく、早く一人になりたかった。
庭園を出た先は、高級ブティックが立ち並ぶ、華やかな通りだ。
その華やかな通りを、果衣菜は汚れたコートをまとったまま歩いた。いっそ脱いでしまおうかとも思ったが、寒くてとても無理だった。
道行く人が振り返って自分を見ているのがわかったが、どうしようもない。
「桂月さん。どうしたんだい、それ」
と、いきなり声を駆けられて、果衣菜は飛び上がらんばかりに驚き、そして泣きそうになった。
少し掠れた、低い声。誰何の声をかけるまでもない。ずっと、この声の主のことばかり考えていた。
それなのにどうして、こんな時に限って。
だが、しょぼくれている顔を見られるのは嫌だ。心情はどうあれ、せめて表面だけでも取り繕いたい。
だからあえて、明るい声を出した。
「八木さん、今日はお休みですか?」
「いや、夕方の新幹線でまた向こうに戻るんだ。それより、コートがすごいことになっているじゃないか。どうしたんだい?」
「……イカの個性を持つ子とぶつかってしまって」
ああ、と、八木は納得したような声を漏らした。
「それはお気の毒だったね。うちのマンションだったら、入り口でクリーニングが頼めるよ。最速で手配すれば二時間くらいで仕上がるから、それまでうちでお茶でも飲んでいれば? コートなしじゃ寒いだろ?」
「え? いや……でも……悪いです。家も近いですし、大丈夫ですよ」
「そうかもしれないけど、そのなりで家に入れる? 君んとこ、家とお店がくっついてたよね?」
「……そうですけど……」
果衣菜の家は、店舗と住まいが同じ建物の中にある。
もちろん、裏口から家に入ることもできる。が、しかし、今日は日が悪かった。
定休日ではあるが、兄が親友の祝いにと作成した菓子が、裏口に山と積まれていたはずだ。搬出予定はたしか四時。
個性により噴出された液体は、体液にひとしい。
体液から感染する病もある。体液をかぶった身体のまま製品の置かれた場所に出入りするのは、たとえ製品がむき出しではないにしろ、衛生上好ましいことではなかった。
コートは脱げても、濡れた足元はどうしようもない。
「……四時になったら、裏口から入れることになってますから……」
「桂月さん、まだ三時だよ。この寒いのに一時間も濡れたままでいるつもりかい? 風邪ひいちゃうよ?」
「……」
「私の家ね、ここなんだよ」
八木が差したのは、目の前にそびえるツインタワーのマンションだった。上層階には芸能人や有名人が――噂によるとオールマイトも――住んでいると言われる、このあたりでも指折りの高級物件。
「ね。遠慮しないでいいから」
どうしよう、と考えて、果衣菜はすぐに覚悟を決めた。
好きな人の家を見てみたいという好奇心が、危機感と遠慮を上回ったせいだ。
「すみません……じゃあ、お言葉に甘えていいですか?」
そう告げた果衣菜に、八木は肉付きの悪い頬を大いにゆるめた。
***
洗面所で替えのストッキングをはきながら、すごい家……と、果衣菜は小さく呟いた。
先ほど八木は、「こっちの浴室はあまり使っていないから、足だけでも洗うといいよ」と言った。
ということは、この家にはもう一つ浴室があるということだ。
高級物件の中には、独立したバスルームの他に、主寝室につながる浴室が設けられている物もある……と聞いたことがある。
八木の部屋は上層階、最上階のその下だった。だが、最上階は居住者専用の共有空間になっているという話だったので、個人の住居としては最上階にあたる。
超がつくような高級物件の、しかも最上階の価格がどれほどのものか、果衣菜には想像もつかない。
室内も、果衣菜が想像していたよりもずっと広かった。すべての部屋を見たわけではないが、浴室に通される過程でちらりと見えたリビングダイニングは、50平米以上はありそうだった。
そういえば近隣の噂通り、共有部分もすごかった……と、果衣菜はまた一つため息をつく。
エントランスの中は広いが、コートを脱いでも平気なくらい、充分に暖房が効いていた。
コートを脱いだ時、イカスミがぽたりとしたたり落ちたが、その瞬間、柱の隅からお掃除ロボットが音もなく飛び出して、汚れた床を拭き上げた。
イカスミはタコのそれより粘度が高いというのに、拭き跡すら残さずに。
驚きあきれている果衣菜をよそに、八木は汚れたコートをコンシェルジュカウンターに持っていき、クリーニングの手配をしてくれた。
居住者が快適に過ごせるよう、計算され尽くしたシステムがここにある。
おそらくは、一事が万事、そうなのだろう。なにからなにまでけた違いだ。
***
促されるまま広いリビングダイニングに通され、イタリア製とおぼしき大きなソファに腰を下ろした。ソファと同じ色のローテーブルと、シンプルだがしっかりした一枚板のダイニングテーブル。キャビネットの中には上等そうなカップやグラスがいくつも並ぶ。
その中でも、天井に設置された数台のスピーカーと、壁にしつらえられた巨大なスクリーンが圧巻だった。
綺麗に整えられてはいるが、調度品や部屋の雰囲気からすると、女性の影はなさそうだ。
少しほっとしながら、果衣菜は口をひらいた。
「スクリーン、すごい大きいですね」
すると、八木は満面の笑みを浮かべた
「あれね。ホームシアターになるんだよ。200インチあるんだけどね」
「200インチ……」
「そうなんだよ。すごいだろう? 実はね、このスクリーンが入れたくて、この物件を選んだんだ」
200インチといえば、高さだけでも軽く2.5メートルはある。と、すれば、この家の天井は3メートルは軽くある。
映画好きであることは知っていたが、スクリーンの大きさにあわせて家を選ぶなんて、道楽が過ぎる。
そして八木は、その道楽を都心の一等地でできる財力の持ち主なのだ。
「これで観ると迫力がすごいよ。スピーカーも天井につけたから、音が上から降ってくる」
八木は、続けてスピーカーの性能を語った。少し得意げに、そしてとても嬉しそうに。
「そうだ。せっかくだから何か見るかい? 二時間あれば映画が一本見られる」
と、八木はタブレットをとりだした。
見ると、かなりの量のタイトルが、ジャンルごとに記載されている。
「うちにある映画のタイトルはすべてここにまとめてあるんだ。君が選んで。私はいつでも観られるから」
では……と、恋愛映画の文字をタップすると、次に年代を表わす数字が出てきた。
「すごい古いものもあるんですね……もしかしてモノクロ映画ですか?」
「そうだね。でも古い映画は、いいものが多いんだよ。」
「そうなんですか」
相槌をうちながら、画面をスクロールする。すると、知らないタイトル、知らない演者ばかりの中で、ひとり見たことのある女優を見つけた。
タイトなドレスをまとって微笑む、若かりし頃のその女優の姿を、なにかのコマーシャルで見たことがある。
「これがいいです」
「え、これか!」
「面白くないですか?」
「……いや、名画だよ。ラブコメディの傑作だ。じゃあ、これにしようか」
そう言って笑った八木は、なぜか少し悲しそうに見えた。
***
「大丈夫かい?」
「……だいじょうぶです……ずびばぜん……」
ぐす、と、鼻をすすって、涙を拭いた。
映画は、八木の言った通りコメディ気味の恋愛映画だった。
だが、果衣菜にとっては感情を揺さぶられる、切ない映画でもあった。
パリの音楽院に通ううぶな主人公が、ちょっとしたきっかけから、女たらしのアメリカの富豪に恋をする。
紆余曲折ありながらも、主人公はもの慣れたミステリアスな女を装い、年の離れた富豪の心を射止めた。
しかし、主人公の父親に彼女の真実を聞かされた富豪は、別れを決意し、パリを出る。
「あれで終わるかと思ってたら、最後の最後で……」
最後まで恋に慣れた大人の女を演じながら、それでも主人公は汽車をおいかける。私、平気よ。恋人はたくさんいるわ。私、平気なの、と言いながら。
けなげな主人公の姿に耐えられなくなった富豪は、とうとう主人公を汽車の上に抱えあげ、そのままニューヨークへと連れて行く。
物陰からそれを見守る父親と、なぜかいきなり出てきた楽団の音楽とでエンドマークだ。
「二人が幸せになってよかったです……」
果衣菜がふたたび鼻をすすりあげた時、八木が静かに声をあげた。
「……彼はさ」
「はい?」
「彼は、無責任だと思うんだよね」
「え? でも、ふたりは結婚したんですよね」
「たぶんね。でも結婚は、人生のゴールじゃないから」
こちらを覗き込んでくる青い瞳が、寂しげに笑っていた。この映画を選んだ時の八木の表情を思い出し、果衣菜は小さく息を飲む。
「あの年齢差だ。彼女はきっと苦労する」
「……」
「私だったら、ああはしない」
映画の中のふたりは、30歳以上も年齢が離れているように見えた。実際の年齢はもう少し近いのかもしれないが、中性的な主人公は二十歳くらいに見え、富豪役の俳優は老人に近い年齢のように思われた。
だがきっと、八木の言いたいことはそんなことではないだろう。
なんとなくだが、わかってしまった。うぬぼれでなければ、もしかしたら、彼は――。
「あの……」
と、果衣菜が口を開いた瞬間、インターフォンがなった。
時間切れか、と、心の底から残念に思う。
鳴らされたチャイムは、果衣菜の予想通り、クリーニングの仕上りの合図だった。
***
綺麗になったコートを羽織り、このまま東京駅に向かうと言った八木と共に、果衣菜は師走の街に出た。
「この時間ですし、送らなくても大丈夫です」
「いや、私はタクシーを拾うから問題ない。商店街の入り口まで一緒に行こう」
数時間前、残酷だと思った八木の優しさのわけが、今ならわかる。彼もきっと離れがたいのだ。果衣菜と同じように、同じ気持ちで。
これから、自分たちはどうなるんだろう。八木はどうするつもりなのだろう。彼はやっぱり、このままつかず離れずの関係を貫くつもりなのだろうか。三月までの、短い間。
黄金のイルミネーションで彩られた華やかな通りを、ふたりで歩いた。六本木から麻布十番までの道のりは短い。都立高校の脇を抜ければ、すぐそこだ。
商店街の入り口にさしかかったところで、果衣菜は口をひらいた。
「八木さん。さっきの映画の話ですけど」
「ん?」
「彼女にとってはあれでいいんです。彼女が求めていたのはきっと、ゴールじゃないと思うので」
「どういうことだい?」
「どういうことだと思います?」
「質問に対して質問を返すのはズルいな」
「八木さんだって、あんな言葉でわたしを納得させようとしたんだから、ズルいのは同じです」
八木の歩が、止まった。
ああ、やっぱりそうだった、と、果衣菜は心の中でつぶやく。
このひとは、どう出るだろうか。
すると八木は、いっしゅんだけ眉間にしわをよせ、そして、ふっと両の口角をあげた。
「そうか。まあ、見解の相違だね」
「そうでしょうか」
うん、とちいさくうなずいて、八木は果衣菜の頭をくしゃりと撫で、そして小さく手を振った。
「それじゃあ、ここで」
「……今日はありがとうございました。また……」
「桂月さん」
会ってもらえますか、と続けようとしたところを、低い声が遮った。
商店街から流れてくるジングルベルのメロディーが、やけにうるさく感じる。
ひどく、嫌な予感がした。
「じゃあ、気をつけて」
八木はそれだけ告げて、果衣菜の返答を待たず、踵を返した。
告げられたのは『またね』ほどの希望はないが、『さよなら』よりは柔らかい言葉。けれど果衣菜は、頭を大きなハンマーで殴られたような気がした。
そこに確固たる意思のようなものを、感じ取ってしまったから。
夕闇の中を遠ざかっていく、細長い後ろ姿。
陽気なジングルベルの音が、ひどく切なくきこえる。
華やかな街を彩る黄金色の残像が、涙でにじんだ。
2017.12.05
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