八木はマフラーを巻きなおしながら、ここを通るのもおそらくあと数回だろう、と静かに思った。
池のほとりの桜の花につぼみがつくころには、自分は東京にはいない。
昨日、久しぶりに果衣菜から連絡が来た。声を聞くのは師走のあの日以来だ。もう、二か月になるだろうか。
お茶するくらいの時間しかとれないと告げたら、それでもいいと言ってきた。
果衣菜が指定した待ち合わせ場所は、麻布十番駅近くにある、小さな神社。
時間がないのは本当だったが、実際は、食事をする程度の余裕ならあった。
けれど、これ以上引っぱるのはよくない。
こちらから誘わないことで一線を引いてきたつもりであったが、八木の内心はもう、抜き差しならないところまで来てしまっている。
果衣菜が、欲しくて欲しくてたまらない。
分別のある大人の男として、これ以上気を持たせるようなことはしてはいけないと思っているのに、徹底できない。
それが何とも情けなかった。
あの日もそうだ。
あの師走の日、果衣菜はいまにも泣き出しそうな表情で庭園内を歩いていた。声をかけるか否か悩み、やはりそのままやりすごそうと、心の中でそう決めた。
だが、次の瞬間、正面から駆けて来た子どもと果衣菜が衝突した。
果衣菜は汚されてしまった自分のコートを見、そして次に子供を眺め、青ざめたままにっこり笑った。おそらくは、男の子を安心させるために。
視線を合わせるために屈んだ姿。謝罪する母親に見せた笑顔。クリーニング代をと財布を取りだそうとした母親を制した、しなやかな仕草。
あのとき、心身ともに美しい果衣菜のすべてが好きだと、改めて思った。
同時に、きっとこの子は人前ではああして笑って、誰もいないところで泣くのだろうと、直感した。
そう思ったらたまらなくなり、通りに出たところで声をかけた。
「それでもやっぱり、だめなんだ」
庭園を抜け、環状三号線を麻布十番の駅に向かって歩きながら、八木は小さくひとりごちる。
かつて、八木――オールマイト――がサイドキックと認めた、ヒーローがひとりいた。彼の名はサー・ナイトアイ。個性は予知。
そのナイトアイの言葉を、八木は今でもはっきりと覚えている。
――あなたはこのままいくと、壮絶な死を迎える――
ナイトアイの予知は絶対にはずれない。
だから今、この気持ちを優先させることがあってはならない。悲しい想いをさせるだけだ。
今の自分にできることは、これ以上、果衣菜に期待をさせないことだ。
できればこのままつかず離れずの関係を続けていきたいが、若い彼女にそれを求めるのは、やはり酷というものだろう。
だったらすっぱり切ってやるのが、大人の優しさだ。
「これでは堂々巡りだな」
八木はため息をつく。結局、いつも同じところに戻ってしまう。
果衣菜から連絡がくるまでの約二か月間の日々は、無味乾燥なものだった。
すでに彼女は新しい相手を見つけ、新たな恋をしているかもしれない。何度もそう思い、やり切れない気分になった。
果衣菜は新たな恋をするべきだ。理性ではわかっている。が、感情が納得してくれない。
他の男の腕に抱かれる果衣菜の姿を想像しただけで、気が狂いそうだった。
二律相反する己の気持ちに引き裂かれながら、果衣菜と同じような髪型の女性を見かけるたびに振り返り、同じような背格好の女性を見つけてはそれを目で追う。
おのれの未練がましさに、吐き気がした。
***
「八木さん!」
鳥居の脇に立っていた果衣菜が、八木の姿を認めて、手を振った。
「久しぶりだね。意外なところでの待ち合わせだったから、少し驚いたよ」
「ふふ……。八木さんはお忙しいから、もしかしたら初詣もまだなんじゃないかな、と思って」
「そういえばまだだな。っていうか、ここ数年行けてない」
「良かった。せっかくなんで、一緒にお参りしていきませんか? 七福神めぐりも初午も終わってしまいましたが」
「年が明けてずいぶん経ってしまったけれど、そういうのもいいね。ご祭神は?」
「たしか……商売繁盛の神さまと、武運長久の神さま、あとは宗像三女神……だったと思います」
「武運長久の神、か……」
武運長久と聞いて、八木は口角を上げた。自分はしていないが、同業者の事務所内に祭られていることの多い神だ。
たまには、自身の武運を神様に祈ってみるのも悪くない。
「あとね、この神社はカエルさんで有名なんですよ」
「カエル?」
「江戸時代に大火事でこのあたり一帯が焼けてしまったことがあったらしいんですが、一件だけ焼けずに残ったお屋敷があって、邸内の池に住んでいた大蛙が水を拭きかけて火を消したという逸話があるんです」
「ああ。だから鳥居の脇にカエルの石像があるのか」
「そうなんです」
と、目を細めた果衣菜に、いつもとは違う何かを感じた。
凛としたたたずまいとやわらかな笑顔の奥に隠された、わずかな憂い。
「いきましょう」
違和感に気づきながらも、促されるがまま階段をあがった。
都会の大きな通りに面した、小さなおやしろ。
果衣菜はきっちり二礼二拍手した後、両手をあわせ、少し長めに祈願していた。背筋をぴんとのばし、目を閉じて願い事をする横顔は、やはり凛として美しかった。
「八木さんは何をお祈りしました?」
参拝を終えた果衣菜が、小さく微笑んだ。
「世の中が平和でありますようにと、それから、春からのお仕事がうまくいきますように……かな」
本当はもう一つ、隣に立つ端正な美貌の持ち主の幸せを祈ったのだが、それを口に出す必要はない。
「君はなにを祈ったの?」
「この恋がうまくいきますようにって」
「……」
「八木さん、私の気持ちに気づいてますよね」
「ウン……」
「わたしも八木さんの気持ちに気づいてます」
返答をするか否か一瞬迷い、結局八木は、曖昧な笑みをかえすにとどめた。
「でも、八木さんはわたしとつき合う気がないんですよね」
「……そうだね」
「それは、年齢差のせいですか?」
「そうだね。いいかい。私は君くらいの娘がいてもおかしくない年齢だ。同世代の同業者の中には、君と同じ年代の娘を持つ者もいる」
思い浮かんだのは、炎の個性を持つ同世代のヒーローの顔だった。結婚が早かった彼は、果衣菜と同じくらいの年齢の娘がいたはずだ。
「……有名人なんかだと、それくらいの年齢差はざらにありますよね」
「人は人、だよ」
「じゃあ、お友達にわたしと同じくらい年の娘さんがいるなんてこと、気にしなくてもいいのでは?」
一本取られたな、と八木は内心でため息をつく。
「それでも、だめなんだよ」
「だめなんですか」
消え入りそうにつぶやいた果衣菜の、その声が震えていた。
果衣菜は一度下を向き、そして顔を上げた。そこに浮かんでいたのは、微笑。
「八木さん」
「ん?」
「お守りを買ってきてもいいですか?」
「ああ。どうぞ」
果衣菜は、社務所で小さな水晶でできたカエルのお守りを二つ購入した。一つは黒い袋、もう一つは赤い袋に入ったものだ。
「どうぞ」
黒い方を八木に差し出し、果衣菜がまた笑った。
今の空模様のような笑顔だ、と八木は思った。
今にも水滴が零れ落ちそうな、悲しそうな笑み。
そしてこの優しく美しい娘にこんな顔をさせているのは、他の誰でもなく自分なのだと自覚した。
「くれるのかい? 私に」
「はい。心願成就のお守りだそうです。八木さんのあらたなお仕事が、うまくいきますように」
果衣菜はここで言葉を切った。
「それから、八木さんの気持ちが、若い女ともつきあえるくらい若返りますように」
「……君ねぇ……」
カエルだけに、と、軽口をたたいた果衣菜に、八木はまた曖昧な笑みを返した。
「あの……」
「なんだい?」
「なんでもないです」
言いにくそうに口ごもった果衣菜に、らしくないなと言葉を返したその時、ひらり、と、空から雪片が落ちてきた。
「言いかけてやめるのはよくないな。言いたいことがあったらどうぞ」
「……前に、内臓が悪いと聞きました。もしかして、ご病気なんですか?」
「いや。病気ではないよ。ただね、ちょっとした理由で、胃袋と、肺の半分がない」
「わたしとつき合えない原因、本当はそれ?」
「まあ、一因ではあるね」
「わたし、そういうの気にしません。それでも、どうしても無理ですか?」
「ウン。無理。そうだな……」
灰が降るようにひらひらとたよりなく落ちてきた雪を、手のひらで受け止める。小さな雪のかけらは、一瞬でとけてしまった。
「こうやって手のひらの上にのせてもとけない雪のかけらがあったなら、君の気持ちに応えてもいい」
「そんなの、あるはずないじゃないですか」
「ウン、だからね。そういうこと。私と君は、何度会ってもオトモダチ」
あえて、ひどい言い方をした。
八木俊典という人間はそういうずるい男だと、嫌ってくれればそれでいい。
「よほどのことがない限り、お気持ちはかわらないってことですね」
「うん」
「そうですか……じゃあきっと、今日が最後になりますね。わたし、もうすぐ東京を離れるので」
「まだひと月あるだろ? もう一度くらいなんとかなるんじゃないか」
こぼれた本音に、己の弱さを認識し、心の中で舌打ちをした。それに気づいているのかいないのか、果衣菜は静かに微笑する。
「部屋が見つかったんで、来月の頭から向こうに行くことになったんです」
「……そうか」
そうなんです、と果衣菜は八木に手を差し出した。その手を握り返して、うん、と、小さくいらえる。
白い小さなかけらが、果衣菜の髪や肩の上に落ち、あっというまにとけていく。
この降り方ではそう積もりはしないだろうなと、どうでもいいことをぼんやり思った。
「それから、これ」
「なんだい?」
差し出された紙袋に印刷されているのは、有名ショコラトリーの名前。
「お忘れですか、明後日はバレンタインです」
「あ!」
「ふふ、やっぱり気づいてなかったんだ。わかっていたら会ってはもらえなかっただろうな、とは思ってたんですよ」
「……」
「よければ、もらってください。気持ちです」
「……ありがとう」
差し出された袋を受け取った瞬間、突風が吹いた。ビルの谷間に拭く風は、ひどく冷たい。
八木は自身のマフラーをはずして、果衣菜の首にそっと巻いた。
その瞬間、今まで笑っていた果衣菜の表情が、大きく崩れた。
「……八木さんは、残酷です。残酷でずるい」
「うん。知ってる。すまない」
「いくじなし」
「うん」
「大嫌い」
「……うん」
「嘘です。それでもやっぱり、大好きです」
切ない声にいらえず、八木は細い肩の上に落ちてゆく雪を眺めた。細かな雪はすぐにとけ、布地の中に吸い込まれていく。
若い果衣菜にとって、恋を失う悲しみはおそらくこんなものだ。あっというまにとけて消えてしまう、儚い雪のようなもの。
時間がたてば、きっと忘れてしまうだろう。この冷たさも、そして痛みも。
「元気で」
「……っ……八木さんも……」
果衣菜は最後まで、八木の春からの行先をたずねなかった。
***
それから一週間後、八木はオールマイトとして桂月に出向いた。並べられた、かわいい練り切り。おそらくは果衣菜の兄の手によるものだろう。
雪うさぎを模した上生菓子を二つ求めると、果衣菜がそれを包みながら言った。
「わたし、ここ二月いっぱいなんです。別の店に修行に出ることになって」
「へえ。それは急だね。行先はどこなんだい。京都とか?」
なにも知らないような顔をして、そうたずねた。八木俊典としては、どうしても聞けなかったひとことだ。
「いいえ、東海方面なんです」
「東海?」
心臓が、跳ね上がった。
そういえば、雄英の近くに有名な職人がやっている和菓子屋があると聞いたことがある。あれは、誰の言葉だっただろう。
「雄英高校はご存知ですよね」
「知ってるも何も、私の母校だよ」
「あ、そうでしたね。実は修行先は、その雄英のすぐそばにあるんです」
雄英高校の応接室で出された、繊細な細工の上生菓子が脳裏に浮かんだ。
そうだ。総理大臣賞を受賞した職人の店が近くにあると、言っていたのは校長だ。
これが互いにとって、吉と出るか凶と出るのか。
あまりにもできすぎた偶然に、八木の巨体がぐらりと揺れた。
2017.12.31
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