いい天気、これは売上が伸びそうだ。果衣菜は心の中でそうつぶやいて、作業場へと足を踏み入れた。
おはようございます、とかけられた声に、おはよう、と返す。
実家とは違う光景、違う空気感。
果衣菜がこの春から勤めている「和菓子処 幾望堂」は、かつて桂月で修行していた和菓子職人が、一代でおこした店だ。
幾望とは、満月前夜の月のこと。
完成された技術をもち、数々の賞を受賞している親方だ。だが、職人として円熟するにはあと一歩だと、本人は言う。
だからこその、幾望堂。この屋号には、月が満ちる日を目指して精進するという意味が込められている。そして幾望は希望と響きが同じだ。
実にいい屋号だと、果衣菜は思う。
幾望堂は店主の他に、職人が二人、果衣菜も入れると三人になる。そして若い見習いの子が一人。果衣菜以外は皆男性だ。
そこに加えて、梱包やレジ等、主に接客を務めるパートさん――こちらは皆女性だ――が二人いる。
新しい職場は、実家の店よりも規模が大きいが、そうルーティンはかわらない。けれどやはり、少し戸惑うこともある。
たとえば餡子。
外注する店も増えている中、ここ幾望堂は店内の工房で作成している。季節や気温湿度によって、砂糖や水の加減もやや変える。これらのことは実家である桂月でもやっていたことだが、東京と幾望堂近辺では、気候もそして水も違う。
ちょうどいい塩梅を見極められるようになるまで、ひと月かかった。
またこの店は、売り場と作業場のしきりの一部がガラスでできている。こちらからは売り場が見え、またあちらからは作業場の一部が見える仕組みだ。
見えているのは一部なので、常に人目にさらされているわけではない。だが、人の視線を感じながらの作業は、短い時間でも、やはり緊張するものだ。
環境が変わり、忙しくすごす日々。それでも、八木のことを思い出さない日はなかった。
果衣菜はちいさくため息をつく。
未練なことだ。思ってもどうしようもないことなのに。すでに一度振られている。おそらく、彼にはもう会えない。
あの雪の降る日を最後に、八木には会っていない。あの日首に巻いてもらった、柔らかくて軽い上質なカシミヤのマフラーは、今も果衣菜のもとにある。
また、小さなため息。
と、その時、「きゃあ」という歓声がきこえてきた。なんだろうと、果衣菜は顔をあげる。
移した視線の先に立っていたのは、派手なからし色のスーツを着た、我が国が誇るヒーローだった。
「……オールマイト」
声が聞こえたわけではないだろうが、やあ、と言わんばかりに、オールマイトが果衣菜に向かって軽く手を振った。
本当に気さくな人だ。
初めて彼が幾望堂を訪れたのは、先月の終わりだっただろうか。
その日の朝刊で、オールマイトが事務所を休業し、雄英の教師になるという記事を見てはいた。しかし、いくら近いとはいえ、まさか店に来るとは思っていなかったので、果衣菜はおおいに驚いた。
オールマイトはそれ以来、何度か幾望堂に顔を出してくれる。ありがたいことだ。
「果衣菜、手が空いてるなら行って挨拶してこい」
「え。でも……」
「おまえがきっかけで来てくれてるんだろ。このままオールマイトがうちの常連になってくれれば、いうことなしだ」
「……はぁ」
声をかけてきたのは、年長の兄弟子だった。
彼は大きな勘違いをしているようだ。オールマイトが女職人目当てに店に来るなんて、ありえない。あのひとはただ単純に、甘いものが好きなだけ。
おそらくは、一度どこかで幾望堂の菓子を食べ、気に入ったのだろう。
ナンバーワンヒーローは、気さくなだけでなくとても人懐こい。だから顔見知りである果衣菜に、気軽に声をかけてくる。ただ、それだけに過ぎない。
それでも、上下関係が厳しい職人の世界のこと。些細なことで波風を立てることに意味はない。そう思った果衣菜は、作務衣についている粉を軽くはたいて、売り場へと出た。
「オールマイトさん! いらっしゃいませ。今日はなにを?」
「どれも綺麗で美味しいから、迷ってしまうな。おすすめはあるかい?」
「季節もので、こちらの桜餅はいかがです? うちは長命寺と道明寺の両方揃えていますから、それをひとつずつとか」
「餡子は君が?」
「はい。長命寺のほうは餡子だけでなく、すべて私が担当しました」
「じゃあ、桜餅を一つずついただくよ」
オールマイトが白い歯を見せて笑った。
ああ、まただ、と果衣菜は思う。
オールマイトの笑顔を見ていると、なぜか八木の面影が重なる。身長が同じくらいだからだろうか。それとも、髪や瞳の色が同じだからだろうか。
「じゃあ、わたしは作業に戻りますね」
「ああ。桂月さんも頑張ってね」
我が国が誇るヒーローは、やっぱり今日も爽やかだった。
***
「ふぅ……」
プラスチック製の番重を軽自動車から降ろしながら、果衣菜は小さく息をつく。番重の中身は酒種饅頭だ。
注文主は雄英学校長、根津。
饅頭は夜の職員会議への差し入れらしい。各科ごとの会議だそうで、饅頭は四つの会議室にそれぞれ運ぶようにとの指示があった。
高校標準法によって、公立高校は教員の人数が定められている。雄英はその基準より教員の人数を多く設定しているため、職員数は多い。
全教員数×2個の饅頭が入った番重は、それなりに重かった。
果衣菜の個性は、増強系。それを使えば楽勝だ、と、高をくくって一人で来たのが間違いだった。
ここは雄英高校、ヒーローとその卵の巣窟だ。しかもセキュリティは万全で――業者が入るのにもかなりのチェックを受ける――いたるところにカメラが設置されている。
迷惑行為でない個性の仕様は黙認されているものの、奨励されるものではけしてない。現役ヒーローの多いこの学校で、無資格の者が個性を使用することは、やはりためらわれる。
仕方なく、ふうふう言いながら番重を抱えて歩いていると、横からやさしい声がかけられた。
「重そうですね」
「あ、セメントス……さん」
「セメントスで結構ですよ」
都市部の戦闘では敵なしと謳われている有名ヒーローは、爽やかに微笑む。
「ありがとうございます。大丈夫です」
「それ、会議のお茶菓子ですよね。女性が一人でこの数を運ぶのは大変でしょう。お手伝いしますよ」
セメントスはテレビや雑誌で見るより、ずっと感じのいい人だった。
手伝ってもらうのは心苦しいが、言葉に甘えてしまおうか。
そう思いかけた瞬間、『仮眠室』のプレートがかけられた部屋の扉が、からりと開いた。
果衣菜は自分の目を疑い、そして小さく息を飲む。
まさか。そんな。こんなところで。
けれどこの長身痩躯を、自分が見間違うはずがない。
「八木さん……」
もう、会うことはないと思っていたのに。でもずっと、会いたいと思っていた。
「もしかして、お知り合いですか?」
「うん。実はそう」
そうセメントスに答えた八木は、果衣菜のほうに向きなおり、ひさしぶり、と、へにゃりと笑った。
「これ、運べばいい? それぞれの会議室でいいのかな」
「え? あ……でも……」
果衣菜の返答を待ちもせず、八木は番重を持ってすたすたと歩きだしてしまった。果衣菜は慌ててその後を追う。
「八木さん。それ、わたしの仕事ですから」
「いいから。レディに重たい荷物を持たせて歩かせるなんて、男がすたるだろ」
「今はレディではなく、和菓子屋です」
「まあまあ。久しぶりなんだし、細かいことは気にしない」
「でも」
「いいから」
八木は意外にも力があるようだった。それなりの重さのある番重を軽々と持ち上げ、何もないような顔で歩いていく。
「これ、幾望堂の製品だろ? ここのお菓子も桂月に負けず劣らず美味しいよね」
「うちの店をご存知なんですか?」
「ウン、何度かいただいたことがあるよ。校長が幾望堂のファンだから。この差し入れもそうだろ?」
「あ、はい。そうです。校長先生からのご注文でした」
「お饅頭の味が、桂月のと少し似ているよね。絶妙な甘さとか、皮の香りとか」
「皮を発酵させるのに使っている酒種が、同じなんです。さすがですね」
だろう、とすこし得意げな八木を見ていて、やっぱりかわいい人だなと思ってしまった。このひとは、本当に罪作り。
「でも、八木さんが雄英にいらっしゃるとは思いませんでした」
「……」
「教えてくださればよかったのに」
「聞かれなかったからさ」
「ああ。それもそうですね」
すると八木は、少し意外そうな顔をした。
「私は今、ひどく卑怯な言いようをしたんだが、君は怒らないのかい?」
「何故です? だって、わたしも八木さんに修行先を告げませんでしたし、お互い様ですよね?」
「……そ、そうだね。私も君がこっちに来てるのを知らなかった。そうだよ。君の言うとおりだ。ソウダヨネ……」
そう言って誤魔化すように笑った八木は、またすたすたと階段をあがっていく。
「それにしても、八木さんが教員免許をお持ちとは知りませんでした」
「……人を指導するための資格はとったよ」
奇妙な言い方だ、と、果衣菜は思った。指導するための資格、では担当教科はなんだろう。
雄英には本格的な経営科がある。そちら方面だろうかと思いかけ、果衣菜は一つの可能性に気がついた。
やはり雄英と言えば、ヒーロー科。
柳のように細い八木は、とてもヒーローには見えない。が、個性使用時に姿かたちが変わる人は、ごまんといる。
それに彼は以前、『ちょっとした理由』で臓器を摘出していると語っていた。そのちょっとした理由が、ヒーロー活動中の事故だとしたら。
自らの仕事について八木が固く口を閉ざしていたのも、そういった事情があったからかもしれない。
「桂月さん」
「はい」
かけられた声に、我に返った。
「目的地についてしまった」
促されて、果衣菜は視線を上にあげた。彼の言うとおり、各科ごとのプレートがかけられた部屋が、四つ続いている。
残念だ。もっともっと話したかった。
「ありがとうございました。会議室にいる先生に領収書をお渡しするよう言われているんですけれど、八木さんにお願いしてもよろしいですか?」
「ああ。私から渡しておくよ」
「こちらが領収書です」
作務衣のポケットから一枚の紙を取り出して、八木に手渡す。すると八木は、意外そうな顔をした。
「……この字も君が?」
「はい。なにか?」
「いや……とても綺麗な文字だから」
「和菓子職人は、習字の鍛錬が必須なんですよ。ほら、お饅頭に寿という文字を描いたりするでしょう? それに桂月のような小さい店ですと、お熨斗やお名前もこちらで書きますから」
「ああそうか。和菓子はお祝いごとに使われることも多いからか。でも、字の綺麗な女性っていうのはいいね」
「ありがとうございます……あの……」
また会えますか、と続けようとし、果衣菜はそれを飲みこんだ。
ここは八木の職場だ。迷惑がかかるような行為は慎まなくては。
「今度、お店にも来てくださいね。美味しくて綺麗なお菓子とわたしが待ってます」
「そう言われてしまっては、行かないわけにはいかないね」
八木はそう言って、目を細めた。
***
八木が店を訪れたのは、閉店間際のある夜のことだった。
幸いあとは片付けだけ。
あとでわたしがやりますから、と兄弟子に声をかけて、果衣菜は慌てて売り場へ向かう。
「八木さん!」
長身痩躯が振り返った。
黄金色の髪も、青い瞳も、以前よりも輝いて見えるのはなぜだろう。
「来てくださったんですね。嬉しいです」
「……うん。この間の桜餅もとても美味しかったし」
「この間配達したのは、酒種饅頭でしたよね?」
「あ、いや」
八木が慌てて手のひらを振る。
「そうなんだけど、別件でこちらの桜餅をいただいたんだよ。道明寺も長命寺も、とても美味しかった」
「ありがとうございます。長命寺はわたしの担当だったので、そう言っていただけると嬉しいです」
「ん。今日は何にしようかな。私、血糖値の関係で少しずつしか食べられないからさ、迷ってしまう」
なぜだかこの時、果衣菜はオールマイトを思い出した。
大きな身体に不似合いの少量の和菓子を、大切そうに買っていくナンバーワンヒーローを。
もちろん、かのひとは血糖値のコントロールなどではなく、鍛え抜かれた肉体を保つために糖分を節制しているのだろう。
けれど果衣菜は、オールマイトを見ていると八木を思い出し、八木といるとオールマイトを連想してしまう。その理由もわからぬままに。
「君が作った物はある?」
「わたしがいま担当しているのは、生饅頭と豆大福です」
「ああ。じゃあそれをひとつずつ。それからこっちの練り切りもちょうだい」
ちょうだい、という言い方がまたかわいくて、思わず頬が緩んでしまった。
こんなに大きなひとなのに。自分の親と言ってもおかしくないような、ずっと年上のひとなのに。
「パンジーの練り切りって初めて見たな。しかもとても綺麗だ。本物みたいだね」
「ありがとうございます。親方の作なんです。味も美味しいですよ」
「わー。楽しみだなぁ」
かわいすぎるんだよなぁと思いながら、果衣菜は八木が店を出るまで見送った。
*
作業場では、親方が苦虫をかみつぶしたような顔をして果衣菜を待ち受けていた。
親方は四十歳くらいだが、苦み走ったいい男だ。大ヒットした怪獣映画で総理大臣補佐官を演じた俳優に、少し似ている。
「おい、果衣菜。もしかして、前におまえが言ってたの、いまの客のことか」
親方が言う、「前」とは、果衣菜が引っ越してきたその夜のことだ。
もともと親方は父の弟子。その関係もあり、引っ越し当日、親方の家に招かれた。もちろん親方は既婚者だ。奥さんはとても綺麗で、やさしい。
その奥さんに彼氏の有無を尋ねられ、好きな人がいると口をすべらせたのがいけなかった。
当然の如く、どんな人かと尋ねられ、酔っていたこともあいまって、一連のことをすべて話してしまった。
親方の言に応えあぐねていると、図星かよ、と呆れた声が降ってくる。
「おまえ、年上ったって限度があるだろ。俺より少し下くらいかと思ってたぞ。あれはどうみたって、俺より年上じゃねえか」
「……たぶん」
「それにしても、溶けない雪ねえ……今の野郎がね……」
親方はなにかを考えるような顔をして、にやりと笑った。
「まあ、あの年齢でおまえくらいの女に言い寄られたら、まともな男なら躊躇するだろうな」
「独身でもですか?」
「相手のことを考えたら、安易に手出しはできないだろ。そういう意味では、誠実なのかもしれないし、ただ臆病なだけかもしれないな。アッチの方も若い男のようにはいかないだろうし」
「……親方!」
「冗談はさておき、向こうが一線を引いてるんだ。あまり深入りしないようにしろ」
「……はい」
深入りもなにも、彼は一貫して、「知人」としての態度を貫き通している。ずぶずぶになっているのは、果衣菜のほうだけ。
きっと、八木や親方のような年齢のひとから見れば、こういう関係もありなのかもしれない。互いに一線を引いて、友人としてつき合う。
恋人としての触れあいはないが、確かにそこに、別れはない。
でも、果衣菜はそこまで割り切れない。だから、どうしたらいいかわからない。
けれどおそらく、これを機に自分はまた八木に連絡をしてしまうのだろうな、と、片付けをはじめながら、密かに思った。
「……そう簡単には諦められないって顔だな……」
「……はい。難しいものですね」
「まあ、そう簡単にいかないのが男女の仲ってやつだしな」
「……」
本当に、我ながら未練なことだ。
とけない雪など、この世にはないのに。
2018.2.14
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