雄英から幾望堂へと続く県道に植えられているのは、八重の桜だ。花はすでに終わり、人々の目を楽しませた樹には、緑の葉が茂る。
その葉桜の下を、八木は鼻歌を歌いつつ歩いてゆく。目的地は、幾望堂。
件の店は閉店が七時と、菓子屋としてはやや遅い。仕事帰りに甘いものがほしくなるとき、大変助かる。
嘘だ、と真円に近い月が描かれたのれんをくぐりながら、八木は自嘲する。
自分がこの店に足しげく通ってしまっているのは、果衣菜がいるからだ。もちろん、八木として幾望堂に顔を出したのは一度だけ。それ以外は、この誰でも知っているヒーロー、オールマイトの姿で菓子を求める。
「いらっしゃいませ」
慌てたように、果衣菜が作業場から飛び出してきた。ここ最近は、いつもそうだ。
「君は、今日も元気そうだね」
「ありがとうございます。オールマイトさんは大変でしたね……その……昨日……」
果衣菜が言っているのは、USJでのあの一件だろう。
公式発表では、『雄英の施設がヴィランの襲撃を受け、講習担当の教師が二人と生徒の一人がけがをした』とされている。
「あの……」
と、果衣菜が口ごもった。
「なんだい?」
「けがをした先生というのは、発表されたお二人だけでしょうか?」
「なんでだい? 報道に間違いはないよ」
「あの……報道されていないこともあるんじゃないかと……ちょっと心配で」
「ああ、ありがとう。でも、私は大丈夫だよ」
すると果衣菜は、きょとんとした顔をした。
「わかってますよ。オールマイトさんが怪我をされるはずがないですよね」
「……そうだね」
ヒーローとして寄せられる、絶対的な信頼。それは努力と研鑽を重ね、望んで手に入れたものだ。当然、自分の誇りでもある。
けれど矛盾するようだが、その責務の重さに、負けそうになることもある。
だから八木は、静かに笑んだ。
「八木さんって、ご存知でしょうか。桂月の常連さんなんです。担当科目はわからないんですけど、雄英の先生をされているとかで……」
「……うん……知っているよ」
「その方は……」
「ああ。彼は無事だよ」
「よかった……」
八木の言葉に、果衣菜が破顔した。
心配してくれたのかと、嬉しい気持ちになりつつ、八木は果衣菜から視線を逸らして、ガラスのショーケースを見つめた。
『八木』の話題になることは、なるべく避けたい。
「今日のおすすめはなにかな?」
はい、と、菓子職人の顔に戻った果衣菜が続ける。
「今日から柏餅をはじめました。いかがです?」
「うーん。柏餅はちょっと重いかな。もう少し量が少ないほうがいいんだけど」
「でしたら練り切りはどうでしょう。お花の練り切りも、今日から新しいデザインのものになってます」
果衣菜が示したショーケースの中を眺めると、花を模した練り切りがいくつか並んでいた。薔薇、菖蒲、つつじ。どれも見事だ。
「キレイだね。でも、できれば、君が作ったものがいいな」
「ありがとうございます。嬉しいですけど、わたしじゃなければ誤解しちゃうとこですよ」
「ははっ。誤解しない君だからこそ、言えることだよ」
この姿なら、八木の時に言えないようなことも言える。しかも、それが不自然じゃない。
果衣菜もわきまえたもので、口説き文句とは受け止めず、オールマイトのリップサービスとしてさらりと流してくれるから、とても助かる。
「実はですね、こちらの薔薇の練り切りは、わたしが作ったんですよ」
果衣菜は少し得意そうに胸を張り、繊細な薔薇の花を模した練り切りを指差した。薔薇の練り切りは、赤とピンクの二種類。
朝露をイメージしたのだろう、ピンク色の花びらの上に小さく丸い錦玉羹が散らされている。
「へえ。とてもきれいだ。君、腕をあげたね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、その薔薇を一つずつもらおうかな」
まいどあり、と言いながら笑んだ、その顔が眩しかった。
***
果衣菜から連絡があったのは、八木が薔薇の練り切りを購入した、その夜のことだった。
「こんばんは。今、大丈夫ですか?」
ほんの数時間前に会ったばかりなのに、小さな携帯端末から流れてくる果衣菜の声が、なぜか懐かしく感じる。オールマイトに接しているときよりも、柔らかく、甘いような気がするのは、気のせいだろうか。
「短い時間なら、大丈夫だよ」
嬉しい気持ちを必死に殺し、本当は大した用事もないのに、そう答えた。
「あの、ずっとお借りしていたままだったマフラーをお返ししたくて、お電話しました」
「ああ」
なんと返すべきか、少し悩んだ。
あげる、もしくはそちらで処分するようにと伝えるべきだ。頭の奥で、理性が己に告げている。
けれど、それをしてしまったら、きっと果衣菜は二度と連絡をしてこないだろう。
あのマフラーは、果衣菜が自分に連絡を取る、最後の口実。ただ一つの接点。
切ってやらなければと思う癖に、徹しきれない自分が実に情けない。
「あの、八木さん?」
「ゴメン。じゃあ、幾望堂の定休日の夕方、駅前の喫茶店でどうかな」
理性が、感情に敗北した瞬間だった。
まったく、自分はなにをしているのか。自制心には自信があったはずなのに。
「喫茶店、ですか?」
「そう、カフェじゃなくて、純喫茶」
店の名前を告げながら、八木は自分に言い聞かせる。
夕方、茶を飲むくらいならだれでも普通にしていることだ。茶を飲んで、ほんの少し話をして、そしてそのまま別れればいい、と。
――果たしておまえに、それができるか?――
脳の奥で別の自分が囁く声に耳を塞いで、八木は静かに電話を切った。
***
「ごめん。時間を指定しておいて、遅れてしまった」
「大丈夫です。わたしもさきほど来たばかりなので」
途中、小さな事件をひとつ解決したため、待ち合わせに遅れてしまった。
本当にごめん、と、果衣菜に告げて、年配のマスターにブレンドを注文し、席に着く。
「素敵な雰囲気ですね」
「うん。若い人はシアトル系のカフェが好きなんだろうけど、たまにはこういう店もいいんじゃないかと思って」
人の出入りが多いシアトル系のカフェや、ポップで明るいアメリカンレトロな店も好きだが、ゆっくり話をするのなら、こうした昔ながらの店がいい。
ステンドグラスがあしらわれた内装。ソファは重厚な革張り。店内を静かに流れるのは、落ち着いたピアノ曲。世界の名窯によるカップに、熟練したバリスタであるマスターが入れてくれる、熱い珈琲。
新しい物には新しい物の、古い物には古い物のよさがある。
「ここ、親方好きそうだなぁ」
その瞬間、八木の胸がチリリと痛んだ。
幾望堂の作業場で店主と果衣菜が睦まじく話している様子を、八木は一度見たことがある。店主は、俳優のような顔立ちをした、いい男だった。
なんのことはない、と八木は内心でため息をつく。
これは嫉妬だ。
果衣菜が若い男を選ぶなら、まだいい。けれど、店主は自分より若いとはいえ、果衣菜よりもはるかに年上だ。
果衣菜に年齢の高い男が寄り添うということが、ただ単純に嫌だった。
ちがうな、と八木は首を振る。
年がどうの、というのは言い訳だ。
おそらく自分は、相手が誰であっても面白くないと思うのだろう。
恋慕というのは、そういうものだ。
「お待たせしました」
と、注文した珈琲が、テーブルに置かれた。
珈琲。黒くて、熱くて、苦くて、そして薫り高い飲み物。
珈琲はあたたかさと不思議な力と心地良き苦痛を与えてくれる、と言ったのはナポレオンだっただろうか。
心地よい苦痛程度ですめばいいのだが、自分の中に煮えたぎるこの黒い感情は、珈琲のように薫り高くはいかないものだ。
八木は密かに、そう思う。
「まぁ……かっこいいよね」
「ですね。特にあのステンドクラスが素敵」
ちがうよ、と苦笑しながら、言葉を続ける。
「たしかにこのお店もカッコいいけど、私が言ってるのは、幾望堂の店主のことだよ」
「親方ですか?」
「うん。氷と炎の中間みたいなタイトルの映画の、主演俳優に似てるよね」
「ああ、まあ。そうですね。親方のファンは多いです。でも、わたしは親方を男性として見たことはないですね。年齢差もありますし」
「彼は四十歳手前くらいだろ」
「はい、あ!」
「そう。彼は私より若い」
「……そうかもしれませんけど、親方は子どものころからの知人でもありますから、そういうふうには見られませんよ。それに、奥様も知り合いですし。奥様、綺麗でとても素敵なひとなんですよ」
「へえ」
店主が妻帯者であると聞いて、少しほっとし、同時にそんな自分を嫌悪した。
「それに、今は恋愛どころじゃありませんから」
「どういうことだい?」
恋愛どころではないという言葉に、心臓が跳ね上がった。この後続くであろう言葉とその意味を、八木は経験で知っている。
「九月の頭に、和菓子のコンクールがあるんです。新人部門で出してもらえることになって……」
「すごいじゃないか」
「新人部門の条件は、職人になって三年以内、もしくは25歳以下……うちの店で今その条件にあてはまるのは、見習いの子をのぞけばわたしだけなんです。今回は店の代表として出るようなものなので、本当にがんばらないと……」
それに、と果衣菜が目を伏せた。
この娘は時折、こうした憂いを含んだ表情をする。だが今夜のそれは、八木の中の胸のうちをひどく騒がせた。
嫌な予感がする。そして八木のこうしたカンは、めったにはずれない。
「充分、わかりましたから。溶けない雪がない限り、八木さんとはむりってこと」
「……うん」
「だから今は、自分の夢に向かって頑張る時かなって」
「そうか……」
果衣菜がカップをソーサに置いて、バッグの中から包みを取り出した。
「お返しするのが遅くなってしまって、申し訳ありませんでした」
ああ、と八木はうなずいた。包みの中身はマフラーだろう。
「いや。元々あげてもいいと思っていたから、問題ないよ」
「そうだったんですね。じゃあ、もらっちゃえばよかったな」
そう冗談めかして小さく笑った果衣菜が、今までよりも遠く感じる。
もちろん、これまでも似たようなことはあった。しかしいずれも、果衣菜の気持ちが八木に向いていることは明白だった。
東京を離れると知らされた時も、稲荷神社で別れた時も。
だが、今は違う。
完全に一線を引かれてしまった。
果衣菜の気持ちの矢印は、すでに八木に向いてはいない。
それがひどく切なく、そしてさみしかった。
少しの間、果衣菜はなにも言わなかった。
八木も同じように、沈黙を通した。
いや、何を話せばいいのかわからなかった。それほどまでに、受けた衝撃は大きかった。
店内に流れる明るいはずの変奏曲が、まるで葬送曲のように聴こえる。
やがて、果衣菜がひとつ、息をついた。
「では、わたし、これで」
「え? もうかい?」
「はい。コンクールに向けていろいろ考えないと」
「……そうなのか」
そうなんです、と、果衣菜が言い、なら、私も帰るよ、と、八木が続けた。
そのまま会計をすませ、店の前で、果衣菜と別れた。
一度も振り返らず、軽やかに去って行った果衣菜の後姿を見送って、八木は大きく息をつく。
ひどい肩透かしをくらったような気がした。いや、そんな手ぬるいものではない。目の前で漆黒の緞帳が下ろされたような、絶望に近い喪失感。
果衣菜は、手の届かないところに行ってしまった。彼女の中に、おそらくもう、自分はいない。それが、悲しい。
頭の奥で、これがおまえの望んだ結末だろう、と、あざ笑う声が聞こえた。それは他の誰のものでもなく、自分自身の声だった。
「若いうちの恋情なんて、こんなものだよな」
聞こえた声を断ち切るように、八木が自嘲する。
若いうちの恋心など、儚いものだ。あの日、稲荷神社に降った雪のように、すぐに消えてなくなってしまう、淡い感情。
我々、あとがない世代とは違う。若い果衣菜の前には、可能性がいくつもひろがっている。
「……ほんとうに、勝手なもんだ」
漏らした声が、情けなくも震えていた。
勝手なのは、果衣菜ではなく己だ。こうなるように仕向けたくせに、果衣菜が自分への興味をなくしたとたん、振られたような気分になるなんて。
八木はそのまま、家に向かって歩き出した。マフラーの包みを小脇に抱え、春物のコートのポケットに手を突っ込んで。
ああ、と八木は目を細める。
駅前の喧騒は、東京もここも変わらない。
八木の瞼の奥で、果衣菜の姿が浮かんでは消えた。
プールサイドのバーでの凛としたたたずまい、怪談バーではしゃぐ姿。金木犀の香る公園で触れた長い睫、映画に見入る端正な横顔。
そして小さな稲荷神社で「八木さんは残酷です」と言った時の、悲しげな瞳。
「そういえば、果衣菜とは近場でしか会ったことがなかったな」
もっともっと、いろんな顔が見たかった。もっと、共に出歩いてみればよかった。
こんなにも早く、果衣菜の中から己の存在が消えてしまうなら。
八木はふと、ショーウインドウに映る、自分の姿を見た。
骸骨のように痩せこけた大男。長い手足が蜘蛛のようで、どうにも滑稽だ。
「ははっ……」
笑いながら歩く、その足がひどく重かった。
長いばかりのこの足に、からみついているものはいったいなんだ。八木は静かに自問し、そして自答する。
からみつくのは、己の未練。
こんなにも衝撃を受けるなら、果衣菜の気持ちを受け入れておけばよかったのだ。
彼女を失っただけで、こんなにも空虚な気分になるのなら。
すべてはもう、取り返しがつかないのだろうけれど。
じわじわと広がり、そして深まる喪失感。
自ら得ることを拒み、望んだ結果であるはずなのに。
八木はぬるい春の夜風がふく雑踏の中で、足を止めた。
「はは……」
自嘲の声が、また漏れる。
八木は笑いながら包みからマフラーを取り出し、長い首に巻きつけた。
マフラーからは、砂糖を煮詰めたような、果衣菜の、甘い香りがした。
2018.3.13
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