「今日も暑くなりそうね……」
ひとりごち、果衣菜は空を見上げた。夏ならではの白い入道雲と、青のコントラストが美しい。
晴れわたった空の色は、八木の瞳を思い出させる。
八木とは、マフラーを返した日以来、会ってもいなければ連絡もしていない。だが、今はそれでいいと果衣菜は思っている。
コンクールまであと一か月。今は目前のことに、できるだけ集中したい。作る菓子はほぼ決定している。だが、今のままではまだ弱い。もう少し改良を重ねてより良いものにしたい。そう果衣菜は考えている。
「卵白の量を変えてみようかな……」
そう本日二度目の独り言をつぶやいた瞬間、目の前に大きな影ができた。
慌てて振り返ると、そこに立っていたのは、太陽のように煌めく髪の持ち主で。
「おはよう。桂月さん。今日も暑くなりそうだね」
二メートルを大きく超えるそのひとは、爽やかな笑顔を見せた。蒸し暑さや憂鬱を吹き飛ばしてくれそうな、そんな笑み。
彼がナンバーワンヒーローであり続けているのは、強さのみでなく、この太陽のような明るさが理由ではないかと、果衣菜は密かにそう思う。
存在するだけで、人々に希望を与える、それがオールマイトだ。
「おはようございます。すでに暑いですものね。オールマイトさんは、これから学校ですか?」
「ウン。打ち水をする君の姿が見えたものだから、挨拶がてら寄ってみたんだよ」
「夏休みに入っても、先生は大変ですね」
「雑務は色々あるからね。お店にはまた折を見て伺うよ」
「ありがとうございます」
このところ、オールマイトの来店が増えた。だいたい、週に二〜三回。土日だけでなく、帰宅時やお昼休みにふらりと訪れては、菓子を買ってくれる。
「しかし大変だね。幾望堂の開店にはまだ時間があるだろう? いつもこんな早くから、お店の前を清めているのかい?」
「いえ。いつもは接客のパートさんがしてくれています。ただ、親方のはからいで開店前と閉店後に工房を使わせてもらっているんです」
「ああ。コンクールが近いって、前に言っていたね」
「はい。ある意味特別扱いされているので、これくらいはしないと。自分の気分転換にもなりますし」
「心がけは立派だけど、あまり根をつめすぎないようにね。菓子職人は体力を使うって聞いたよ。君の体が心配だ」
最近のオールマイトは、時折こういうことを言う。
そのうえ、彼が求めるのは果衣菜の作った菓子がほとんどだ。なので、周囲の誤解は深まるばかり。いや、正直、果衣菜も誤解しそうにはなる。
けれど冷静に考えればわかることだ。その気になればどんな女性でも求められるようなひとが、わざわざ無名の菓子職人を選ぶはずがないと。
だから果衣菜は、なにもなかったような顔で応える。
「心配してくださって、ありがとうございます」
「うん。本当に無理だけはしないでね」
そう言いながら軽く微笑み、オールマイトはひざを曲げ、腰を落とした。
次の瞬間、もう目の前に彼はいない。文字通り、英雄は飛んで行ってしまった。夏のつむじ風のように、空の彼方へ。
***
藍染の布に真円に近い月が描かれたのれんをくぐりながら、八木が大きなため息をついた。
活動限界を超えてもなお、顔が見たいと思ってしまう。
週に三回などではなく、本当は毎日でも会いたい。
この手の中からすり抜けていってしまった娘に対して、かくも未練がましい行動に出てしまう。そんな己に呆れながらも、八木はさりげなくガラスの向こうの工房を覗き込んだ。以前訪れた時のように、果衣菜が工房から飛び出してきてくれることを期待して。
だが、果衣菜は出て来ない。八木はまた一つ、大きなため息をついた。
「お客さん」
と、その時背後から、心地よい低音に呼びかけられた。
この声は幾望堂の店主だ。オールマイトとして来店した時、話したことがある。
「果衣菜なら、いま、配送に出ておりますが」
「……そうですか」
八木は軽く眉を顰め、そして思った。
果衣菜はこの男に、自分たちのことをどこまで話しているのかと。
八木は幾望堂の常連ではない。この姿での来店はまだ二度目。なのに店主は、いきなり果衣菜の名を出してきた。ということは、ある程度の事情を知っているとみていいだろう。
相手がなにか言いたげな顔をしていることからも、それがわかる。
「すみませんが、お客様」
「はい?」
「これ以上、果衣菜を惑わさないでもらえませんかね」
「……あなたには関係のないことだと思いますが」
「とけない雪」
店主の言葉に、八木は肩を強張らせた。店主の瞳の奥に、小さな怒りが見てとれる。
「よく言ったもんだ。残酷な」
「残酷なのは承知の上だ。あなたも、その年齢であればおわかりでしょう。こんなくたびれた中年男が、彼女を縛りつけていいはずがない」
「そうくたびれているようには見えませんがね。むしろ身なりは良いほうでしょう」
「……」
「失礼。大きなお世話でした。私も、従業員のプライベートに深入りする気はありません。ただ今だけは、あいつの気持ちをかき回さないでもらいたい。大事なコンクールを控えておりますのでね」
答えにつまった。確かに、その通りだ。
果衣菜は来月、若手和菓子職人の登竜門と言われているコンクールに参加する。そのために彼女は、朝早くから夜遅くまで、工房に詰めているのだった。
「コンクールのあとは、まあ、お好きに」
と、店主は片方の口唇だけをあげて、何かを含むように、にやりと笑った。女性が喜びそうな、いい表情だ。だが八木は、それを実に不快に感じた。
いかん、と、軽く首を振って肩をすくめる。疲れがたまっているのだろうか。疲れは血の巡りを悪くする。こういう時は、ろくな発想をしないものだ。
疲労回復と血流改善のために、今夜は半身浴にでもいそしもう。
おそらくは果衣菜の手によるものであろう水まんじゅうを手に、八木は密かに、そう考えた。
***
「できた……」
完成した菓子を前に、果衣菜は小さく声をもらす。
「明日、親方にもみてもらおう」
そうひとりごちながら、試作品を冷蔵庫にしまったその時、店の電話が鳴った。
こんな時間にといぶかしく思いながら、ディスプレイを確認する。表示されているのは、親方の番号。
「はい。幾望堂」
「果衣菜!」
「親方。どうかしましたか? なにか忘れ物でも?」
「今すぐ奥へ行って、テレビをつけろ」
「は?」
「いいから早くしろ!」
『奥』とは、作業場の奥にある六畳ほどの小さな和室のことだ。大き目のちゃぶ台と、テレビが一台置かれただけのその部屋は、従業員の休憩スペースになっている。
「チャンネルはどこでもいい、どうせみんな同じニュースだ」
言われるがままテレビをつけ、次に果衣菜は凍りついた。
映し出されたのは、地獄のような光景だった。崩れたビルに、えぐり取られた大地。そこここで立ち昇る黒煙と、燃え広がる炎。
「……なんですか……これ……」
「いいから、よく見ろ!」
その瞬間、街のようすを俯瞰でとらえていたカメラが、一点へと切り替わった。
画面に中央に映るのは、船の穂先のように残されたアスファルトの先端に立っている、背の高い男。
男の着ている、青を基調としたコスチュームに見覚えがあった。否、この国であのコスチュームの主を知らない人間など、一人もいない。
だが、ゴールデンエイジのコスチュームに身を包んでいるのは、見慣れた偉丈夫ではなく、立ち枯れた柳のような、細くしなやかな長身。
「八木……さん?」
「……あれは、オールマイトだ」
「……え?……」
果衣菜の脳裏に次々と流れ込んでくる、八木とオールマイトの不思議なつながり。
八木と出会ったのは、沖縄のリゾートホテルだった。その日、偶然にもオールマイトは沖縄にいた。
事務所を休業して、雄英の講師に就任したオールマイト。恩師の誘いで東京を離れた八木は、この四月から雄英に勤めているという。
優しいはずの八木は、オールマイトのことになると、妙に歯切れが悪くなる。オールマイトも、また同様で。
オールマイトが住むという噂の高級マンションに、住んでいた八木。八木のオフィスがあるというタワーの上層階には、オールマイトの事務所があった。
同じくらいの身長、同じくらいの年齢、同じ色の髪、同じ色の瞳。
すべてのピースがそろったこのとき、浮かび上がる図はただひとつ。
面影が重なって当然だ。何故なら八木は、オールマイトであったのだから。
だが、そのことについて考える時間は、今はない。
画面の向こうのヴィランが、衝撃派のようなものを放ったのだ。周囲にいたヒーローたちが、風圧に弾き飛ばされる。
見たところ、ヴィランはたった一人。単身で街を破壊し、名のあるヒーローたちを衝撃派のみで吹き飛ばす。そのうえ、対峙しているオールマイトは、頭部から血を流していた。
そう、ヴィランはオールマイトに怪我を負わせたのだ。それだけで、このヴィランがどれほどの力を持っているか、素人である果衣菜にも予想はつく。
電話がつながっていることも忘れ、果衣菜は画面にくぎ付けになった。
ヴィランの腕が急激に肥大したのだ。ただ膨れ上がっただけではない。腕の中にいくつもの腕があり、肉の間には鋲や刺のようなものが埋め込まれている。
いくつもの個性を混ぜ合わせ、一つの腕に無理矢理詰め込んだような、グロテスクな姿。
襲いかかるヴィランに、痩せてしまったオールマイトが応戦する。
強者のぶつかり合いは、巨大な爆弾を思わせるエネルギーとなって街を襲った。建造物が砕け、砂塵がもうもうと巻き上がる。
「UNITED STATES OF SMASH!」
太い叫びと共に繰り出された一撃は、とてつもない破壊力をもってヴィランをとらえた。轟音と共に大地が爆ぜた。生じた風圧がらせんを描きながら、うなりをあげて天空高く立ち昇る。
数秒間、画面が大きく乱れた。そののちに映し出されたのは、神野の地に穿たれた巨大な穴と、その中央に倒れたヴィラン。
その脇で、オールマイトがゆっくりと左腕を天に掲げた。まるで、勝利を宣言するかのように。
それは平和の象徴として数々の逸話を残した英雄が、またひとつ、新たな歴史を刻んだ瞬間だった。
***
昼なかの名残の熱気が重く垂れこめる、午後八時。今宵は、熱帯夜を通り越した灼熱の夜。
「やあ」
左手を軽く挙げて、電柱の脇から姿を現したのは、果衣菜が恋した年上の人。ギプスで固められた右腕と、包帯が巻かれた左手と額。それがひどく、痛々しい。
この痩せた体が、何も知らない自分たちの生活や安全を支えていたのだ。そう思っただけで、涙がこぼれそうだった。
「……こんばんは」
応えた果衣菜に、八木はしずかに微笑んだ。
八木から連絡が来たのは、神野の悪夢と呼ばれる事件の翌日、すなわち昨夜のことだった。
話があるんだ、と、彼は言い、閉店後なら、と、果衣菜は答えた。
「少し、歩こうか」
「はい」
八木が足を止めたのは、小さな児童遊園の中だった。さして広くもない公園内には、滑り台が一つと、ブランコが一つ。それから砂場とベンチが二つ。
ハロウィンの夜に立ち寄った麻布十番のあの小さな公園に、雰囲気が似ている。
「その……正体を隠していたことを謝りたい。本当にすまなかった」
八木が姿勢を正して、頭を下げた。そんな、と慌てて果衣菜がいらえる。
「それは仕方がないことです。あんな重大なこと、軽々しく話せるはずがありませんから」
「君は、私を許してくれるのかい?」
「許すも許さないも、ないです」
オールマイトは徹底した秘密主義。本名はおろか、年齢も個性すら公表していない。そんな彼が、たまに食事するだけの相手に、重大な秘密を漏らすはずはない。それくらいのことは、一般人である果衣菜にも、よくわかっていた。
「お話は、それだけですか?」
「うん……まぁ……」
どうしてか、八木は言葉を濁したまま、黙ってしまった。
もう会えないと言われてしまうのだろうか。果衣菜の額に冷や汗がにじんだ。
もしそうならば、その前に言わなければ。これがきっと、最後の機会になるだろうから。
「あの……」
「ん? なに?」
「実は、八木さんに食べてほしいものがあるんです」
「なんだい? コンクールに向けての新作かな?」
その声には応えず、果衣菜は保冷バッグの中から、小さな菓子を取り出した。小さく白く、丸い菓子を。
「どうぞ。『とけない雪』です」
八木の青い目が、おおきく開かれた。
「とけない雪?」
「はい」
この菓子のヒントは、親方がくれた。八木が幾望堂を訪れ、そう簡単にあきらめられないと唇を噛んだ、あの日に。
『とけない雪なんて、この世にはありませんしね……』
『ないこともないけどな。てのひらの上で、とけない雪』
『何言ってるんですか、親方。そんなもの、あるはずないじゃないですか』
『果衣菜、お前は何屋だ?』
『何屋って、和菓子屋ですよ……あ!』
『そう、今おまえの頭に浮かんだもの。それが答えだ。だがそのままじゃ使えねぇぞ』
『はい』
『屁理屈には屁理屈だ。どこにもないおまえならではのとけない雪を作って、あいつにぶちかましてやれ』
そう言って親方は、ニヒルに笑ったのだった。
そうして試行錯誤を重ね、やっとできたのがこの菓子だ。
実のところ、この菓子の原型はそう珍しいものではない。原型は江戸時代から伝わる、三河地方を代表するものだ。
メレンゲを寒天で固めた、きめ細かく舌触りの良いその菓子の名は、泡雪羹。
「お菓子なので口に入れたらとけますが、手のひらの上ではとけません。召し上がってみてください」
長い指が菓子をつまみ、小さな菓子を口に入れる。一呼吸ののち、八木の表情が変わった。
「……すごい……」
「いかがですか?」
「……こんなお菓子ははじめてだ。ふわふわなのにひんやりしていて、口の中に入れたらあっという間にとけてしまった……甘い雪を食べたみたいだ」
泡雪羹とはまだ別に、宮城県にも霜根をイメージした菓子がある。手触りは薄い氷の柱のようだが、口に入れるとあっという間にとけてしまう、繊細な飴細工だ。
果衣菜はこの二つの菓子の美点を活かし、その上で工夫を重ね、手のひらの温度ではとけないが、舌の上に乗せると冷感を残してふわりととける、本物の雪により近い菓子を作った。
「君は……あんな言葉のために、ここまでのものを作ったのか……」
「……はい」
もちろん、あれは果衣菜をあきらめさせるための言葉だったことくらい、知っている。しかもこれは本物の雪じゃない。ただの和菓子だ。
八木は我が国のヒーロー史に燦然と輝く英雄、オールマイト。ぽっと出の菓子職人が彼につりあうはずがないことも、果衣菜はわかっている。
けれど八木は、何度も店に来てくれていた。正体を隠して、あんなに何度も。そこに一筋の光明が、可能性が見いだせるなら、縋りたいのが恋情だ。
「どうですか、八木さん。とけない雪です。以前、おっしゃってましたよね、手のひらの上でとけない雪があったなら、わたしの気持ちに応えてくれると」
それを聞いた八木は、大きく眉を下げた。
やはり、だめなのだろうか。菓子は所詮、菓子でしかないのだろうか。果衣菜の瞳がうるみ始める。
その時、ふいに八木が両の口角を上げた。
「もう、八木とは呼ばないでくれないか」
「……オールマイトとお呼びしたほうがいいでしょうか?」
「いや」
「あの……?」
「これからは、俊典と」
「それって……」
うん、と八木がうなずいた。
「もしかしたら、私はそう長くは生きられないかもしれない」
突然の言葉に、なにも返せず、ただ八木を見つめた。
オールマイトの時とはまったくちがう、骨ばかり目立つ、彼の身体。
新聞にも大きく書かれていた。オールマイトはずいぶん前から戦えるような体ではなかったと。以前に本人の口からも聞いている。臓器の一部がないのだと。
「この身が平和の礎となれるなら、このまま静かに消えてもいいと、そう思っていたんだ……だから、今まで君の気持ちを受け入れることができなかった」
でもね、と八木が続けた。
「もう少し、抗っていこうと思うんだ。まだ、私を必要としてくれている人がいる。そのために、私は生きなくちゃいけない。こんな姿をさらしてなお、格好悪く、あがく私だ」
「……八木さん、それは逆です。限界を迎えていたことを悟られることなく戦い続けたオールマイトの強さと矜持は、称賛されるべきものです……」
それには答えず、八木は果衣菜の手を取った。そのまま甲に口づけられて、果衣菜の体がくらりと揺れる。
「約束だからなどと、傲慢なことを言うつもりはないよ。逆に聞くけど、果衣菜、君は本当に、こんな私でいいのかい?」
ただこくこくと頷くしかできない果衣菜の腕を、大きな手が優しく掴んだ。あっと声をだす間もなく閉じ込められたのは、包帯だらけの長い腕の中。
「今まで言えなかったぶん、たくさん言わせて」
「はい……」
「君が好きだ」
わたしもです、と返したいのに、喉がつまって声が出せない。だからただただ、果衣菜はうなずき続ける。
「ずっと前から、君のことが好きだった」
喉が詰まっているのは涙のせいだと、果衣菜はやっと気がついた。
それでも今は、我慢しなくていいのだと思った。さんざん振り回されたのだ。想いがかなったこの時くらい、存分に泣かせてほしい。
「本当はずっとこうしたかった。大好きな君と」
泣きながらまたうなずくと、八木がひょいと身をかがめた。近づいてくる青い瞳は、晴れ渡った空の色。
その間も続けて耳孔に流し込まれる愛の言葉は、とても甘い。果衣菜が作り上げた、和菓子のように。
やがて八木の唇が自分のそれに重なった時、果衣菜はそっと目を閉じた。
ひんやりとしていて、手のひらの上では溶けないのに、口の中でほろほろととける、果衣菜の作った菓子の名は『あわゆき』。
古くからある技法と新たな手法をミックスして作られた『あわゆき』は、その年の和菓子コンテストで、最優秀賞を受賞した。
2018.4.11
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