あの日からもう、二十年以上が経過してしまったというのに。
わたしは演奏家を夢見る女の子ではもはやなく。
かつてヒーローを夢見た彼は、今や我が国が誇る本当の英雄だ。
そう、彼は一夜にしてスーパーヒーローになってしまった。
あの大災害の日に、たった一人で多くの人々を救ったヒーロー、オールマイト。
それでもまだ、あの時はまだ、彼はわたしの恋人であったのだ。
当時のわたしは上野にある藝術大学の四年生だった。レッスン、試験、コンクール、オーディション。音楽系の大学生は、就活のほかにもいろいろとやることがある。
一気に人気ヒーローの仲間入りをした彼もまた同じく多忙になり、わたしたちはあまり会えなくなっていた。
最高のヒーローになるために努力を続ける彼と、音楽家への道を目指して努力を続けるわたし。
気づけば付き合い始めて七年が経過していた。
長すぎる春と揶揄するひともいたけれど、それでもわたしは大丈夫だと思っていた。わたしたちに限って、彼に限って心変わりなどするはずがないと。
彼の一人称が「俺」から「私」になったのもこの頃からだ。
そして鮮烈なデビューから間もなく、彼は独立して渋谷に自分の事務所を持った。
破綻が起きたのは、その渋谷でのことだった。
***
渋谷の円柱状のビルの前にできた異常な人だかり。
なんだろうと近づいてすぐに原因がわかった。その中心に、彼がいた。
この時のわたしの気持ちを誰かにわかってもらえるだろうか。
大勢の女性たちに囲まれ、サインをねだられている彼。
彼はわたしに気づかない。
思わずその名を呼ぼうとしたが、わたしは呼ばなかった。否、呼べなかった。
オールマイトのプライベートな部分は、一切明らかにされていない。
名前も。年齢も。個性ですらも。
その彼に恋人がいるなどと知られたら、いったいどんなことになるだろう。
この時思い知ったのだ。
もう、わたしだけの俊兄はどこにもいないのだと。
***
「結婚して」
彼の部屋でいつものようにベッドの上で濃密な時間を過ごした後、わたしは思い切って切り出した。
下着姿のまま冷蔵庫からビールを取り出したばかりの彼は、驚きのあまり手にしていた缶を握り潰した。ぶしゅう、という音を立ててまき散らされた、泡立つ黄金色の液体。
握りつぶされたのがアルミ缶ではなく自分の心であるような気がして、わたしはそこから目をそむけた。
「え? 何言ってるんだい、なつめ。赤ちゃんできたとかじゃないよね?」
「できてないけど……結婚しよ」
「演奏家になる夢はどうするんだい?」
「結婚していても演奏はできるよ」
彼は濃い眉を軽くひそめ、それから藍微塵色の瞳でわたしを見つめた。
「今の君とは結婚しない」
「どうして? あなたと同じ年の轟さんはもう結婚してお子さんまでいるのに」
「彼らは彼らで、私たちは私たちだろう?」
おそらくこの時、互いの間に、見解の相違があったのだと思う。
芸術系の大学、ことに音楽の道に進んだ者の進路は厳しい。
毎年音大を卒業するものは数多くいる。けれどそれに対するオーケストラの枠はとても少ない。
いくつかのコンクールで入賞していたとしても、オケに入ることはとても難しかった。
主席ですら、オケに入れないこともあるのだ。大抵の学生は院に上がるか、留学するか、音楽教室の講師になるか、家業や家事手伝いという名目で研鑽しながらチャンスを狙う。
国内一と謳われるわが母校ですらそうなのだ。
ソリストへの道は、さらに厳しい。
おそらく、このとき彼は、わたしが音楽から逃げたと思ったのだろう。
事実、その年のわたしは全く振るわなかった。正しくは「彼がヒーローとして名をあげてからのわたしは」だ。
通ると太鼓判を押されていたオーディションに落ち、昨年二位をとった大きなコンクールでは予選落ちを喫してしまった。
彼のせいにしてはいけないが、精神面の乱れは音に出るものだ。わたしは殊にそのタイプだった。幸せな恋をしていると音に華が出、気持ちが落ちると音が割れる。
個性によってその些細な違いを聴き分けてしまうからこそ、苦しみは大きくなり、ますます成績は落ち込んだ。
だからこそ、わたしはこころの安定が欲しかったのだ。
生活の安定など、実家に帰れば何とでもなった。資産家の娘というものはこういう時に強い。
わたしは、彼を自分だけのものにしたかった。
ただ純粋に、彼がわたしに属する存在であると、世間に知らしめたかった。それだけだった。
しかし彼は静かにもう一度、結婚はまだしないよ、と言ったのだった。
***
「オーストリア……ですか?」
「君はいまスランプに陥っているだけだ。ここを脱却できればいい演奏家になれると思うよ」
恋も音楽も行き詰まり、自らの身の振り方に悩んでいる時、担当教授から声をかけられた。
進路に悩んでいるならウィーンの音大に行かないかと。
世界でも指折りの音楽大学だ。たとえ教授が後押ししてくれたところで、それなりの実力がなければ合格はできない。
それでも、数ある生徒たちの中からわたしに白羽の矢が立ったことが、嬉しかった。
***
「そうか。すごいじゃないか」
彼に報告すると、予想通りの声が返ってきた。彼ならば、そういうだろうと思っていた。
まっすぐで、前しか見えないひとだ。何があっても、けっして揺らぐことのない強い心を持ったひと。
人の心の中にどろどろした汚いものがあるなんて、きっと思いもしなかったのだろう。
「待っているよ」
簡単に言ってくれるものだ、とわたしは思った。
距離や歳月がひとを変えるなんて、彼は気がつきもしないのだ。
高校時代、彼と離れて過ごした二年間がどれほど長かったことか。前だけ向いている彼には、きっとそれがわからない。
彼の愛情を疑うわけではなかった。けれどお互いの間にある温度差だけは、もうどうしょうもない。
かつて彼のまっすぐさに惹かれたわたしは、この時、彼のまっすぐさゆえに苦しんでいた。
「ウィーンと東京、離れた状態でもいいから……結婚しない?」
「なつめ……またその話かい?」
「……いや?」
「嫌ってことはないよ。でも今はしない。四年して君が帰ってきたその時に考えようよ」
「四年は長いわ」
「でも君にとっては、とても大切な四年間になるはずだよ」
「そんなに離れて、変わらずにいられると?」
「君は私を信じられないのかい?」
「信じられるわけないじゃない!」
彼の表情が変わった。
わたしはこの時、絶対に言ってはならないことを言ったのだ。
今までも何度かそういうことはあった。それでも彼はいつも、優しく笑って許してくれた。
でも今回は、いままでのそれとはまったく違うような気がした。
これ以上はまずい、そう思ったが、わたしはもう自分の感情を抑えることができなかった。
「女性に囲まれているあなたを見ている時のわたしの気持ちを考えたことがあるのか」
「ずっと寂しかった。あなたはいつも自分の夢だけをみていた」
「あなたを待つだけの日々は、とてもつらいものだった」
「ヒーローのあなたとはもうやっていけない」
破局へ向かう発言を、わたしはいくつも繰り返した。
彼にとってヒーローであるということがどれほど大切な事か、そのために彼がどれほどの犠牲を払っていたのか、わたしは知っていたはずなのに。
そして彼がわたしだけを愛していたことも、本当は一番よく知っていたことなのに。
口から堰を切ったようにあふれ出てしまった不満は、うまくいかない現状を立て直すどころか、これまで積み重ねてきたすべてを押し流すのに十分だった。
まるで濁流に飲み込まれていく枯葉のように、わたしたちの七年はあっと言う間に崩れ、飲み込まれていったのだ。
彼はそれを、じっと目を閉じたまま聞いていたが、最後にひとことだけ呟いて背を向けた。
「今まで、すまなかった」
そのまま歩き出した彼の背に、違うと叫んで縋りつきたかった。
だが首から上は熱くてたまらないのに、肩から下は真冬の湖のようにつめたく凍てつき動けなかった。
思い合っていたはずなのに、ひとはなぜすれ違うのだろう。
彼はわたしを愛していて、わたしの夢を尊重しようとしてくれていた。それゆえに彼は、わたしが彼に逃げ込むことを許さなかった。
わたしは彼を愛していた。たとえ形だけでもいいから、彼の愛がわたしにあると世間に公言して欲しかった。ただそれだけのことだった。
たぶん、互いに若すぎたのだろうと思う。
恋が終わるのは、どちらかの心変わりだけが原因ではないと、わたしはこの時知ったのだった。
そしてこれを最後に、彼からの連絡は途絶えた。
***
すっかり冷めてしまったカフェオレを飲み干し、大きく溜息を吐く。
ウィーンの音大を出た後、わたしはあちらの小さなオーケストラに潜り込めた。規模は小さいが、歴史あるいいオケだった。
わたしはそこでいくつかの恋をし、三十歳になる手前で、アメリカ人のビオラ奏者と結婚した。
天真爛漫な明るさと正しい心を持った優しいひとだった。二メートル近い長身のそのひとは、金色の髪と藍微塵色の瞳をしていた。
けれどそのビオラ奏者との結婚生活は、そう長くはもたなかった。
「君は僕を通して、いったい誰を見ていたんだ?」
元夫の言葉が、わたしの気持ちのすべてを物語っていた。
しばらくして、父が亡くなり一人になった母を放ってもおけず、わたしは雄英のあるこの街に帰ってきた。
それが五年前のことだ。
二年前に母も亡くなり、わたしはこの街で母校の講師と、音大を目指す子たちへの個人指導をして生計を立てている。
雄英の子供たちを受け入れるアパートは、三年前に建て替えはしたが残してある。今はもう下宿という時代ではないし、わたしは母のように料理が得意ではないので、夕飯に彼らを招いたりはしないが。
彼は……オールマイトは、わたしと別れたすぐあとナンバーワンに昇りつめ、そのままの地位をキープし続けている。
ナチュラルボーンヒーローと人は言う。
生まれながらの英雄、とんでもない、彼がそんなものであるものか。
平和の象徴。
それは彼が血の滲むような努力の末に勝ち取った称号だ。
雨の日も、風の日も、嵐の日さえ、彼がトレーニングを怠けたことなどなかった。
食事ひとつですら、少年時代の彼がおろそかにしたことはなかった。
わたしは知っている。わたしは誰よりそれを知っている。
彼が神からもらったのは、人より秀でた体格と努力し続ける才能、それだけだ。
その彼が、雄英の教師に就任したのを機にこの街に戻ってきているという。
わたしが彼との思い出を未練がましく反芻しているのは、きっとそのせいだ。
もう一度彼と巡り合うようなことがあったとしても、なにかが起こるわけでもないのに。
***
わたしは再び窓の外に目をむけた。
そろそろ高校生たちが帰ってくる頃だ。今日は風が強かった。アパートの前くらい軽く掃いておかなくては。
アパートの入り口に置いたプランターに咲いているのは、我が家の小さな花壇に咲くのと同じ藍微塵。
藍微塵とは俗称で、この花には本当は全く違う名前がある。
この花の本当の名は、忘れな草。
花言葉は、わたしを忘れないで。
彼は、オールマイトは今でも、わたしを覚えていてくれるだろうか。
18だった彼が東京へ旅立つ時に、16のわたしと交わした約束の通りに。
掃き掃除をしていると、高校生たちがひとりふたりと帰宅してきた。彼らはみんな礼儀正しい。いつもちゃんと挨拶をしてくれる。
「ただいま帰りました。大家さん」
「おかえりなさい」
かつての高校生たちは母を「おばさん」と呼んでいた。
今の子たちは気遣いが細やかだ。彼らは遠慮がちにわたしを「大家さん」と呼ぶ。
と、その時、通りの向こうから、雄英の生徒が保護者らしい人物と歩いてくるのが見えた。
雄英の制服を着たもっさりした髪の小柄な少年と、二メートルを軽く超えるであろう長身痩躯の男性だった。
わたしはその男性から目を離すことができなかった。
落ち窪んで深い影を作る眼窩、肉が削げ落ちた頬から顎にかけてのライン。薄い肩、ぶかぶかのスーツの中で泳ぐ四肢。
それでも、忘れな草の花と同じ色をした瞳の輝きに見覚えがあった。
わたしはごくりと息を飲む。
まさか、なぜ、でも、本当に?
痩せた男性もわたしの姿を認めて、ほんの一瞬だけ顔をこわばらせた。けれどそれは瞬きするくらいの本当に短い刹那のこと。
すぐに彼は何もなかったような顔に戻った。
柔らかい春風がふいて、どこからともなく忘れな草の香りを運んでくる。
forget-me-not……forget-me-not……忘れな草。
どうかわたしをわすれないで。
「……俊典……さん?……」
すれ違う瞬間。消え入りそうな小さな声が、わたしの口から洩れた。
彼の長い脚がぴたりととまった。
わたしは小さく震えながらゆっくりと振りかえる。
ほぼ同じタイミングで、彼もこちらに振り向いた。
わたしの瞳と、忘れな草の色をした彼の青い瞳がからみあう。
この瞬間、周囲から景色が消え失せたように感じた。
ひょろりとした彼の姿だけがトリミングされて、わたしの瞳の奥を侵食していく。
互いに声もかけられず、身じろぎすることすらできないふたりの間を、柔らかい春の風が通り抜けていった。
2015.10.5
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