恋人たちのパドロック

「なつめ、夜景を見に行かないか?」

 先週の日曜、情事のあとにオールマイトがいきなり言った。
 どこに、と問うと、この近辺で一番高い山の上にある展望公園の名を告げられた。
 山裾にテーマパークを有するその公園には、子供の頃家族ででかけたことがある。けれどそこから夜景を見たことはない。

「……あそこは駐車場からけっこう歩くわよ」
「知ってる」
「しかも真っ暗な山道よ。意外と歩くのきついわよ」
「ウン、こないだ下見に行ったからそれも知ってる」
「夜景だったら駅前のスカイプロムナードからでも観られるわよ」
「ンン、でも私は便利なそっちじゃなくて不便なほうに行きたいんだよね」

 もうお互いに若くはないし、ヒーロー活動で疲労しているオールマイトの体も心配だ。
 ラクに行ける場所の方がいいじゃないと言いかけて、わたしは言葉を飲み込んだ。
 オールマイトが告げた公園は、昔彼と二人でよく出かけた場所と少し似ているような気がしたからだ。

 わたしが東京の大学にいたころの話だ。
 互いの都合がつく夜に、少し遠出をして隣県にある夜景の名所によく出かけたものだった。
 かつては千畳敷と呼ばれていたらしいその場所にある、電波塔の展望台。空に広がる星々と展望台から見下ろした江の島方面の街の灯りは、ほんとうに綺麗だった。

 その展望台には「ふたりの名前を刻んだ南京錠をフェンスにかけたカップルは永遠に結ばれる」という伝説があった。
 ご多分に漏れず当時のわたしはやりたがったが、結局それは叶わなかった。
 公共施設にそういった行為をするのはいかがなものかと、オールマイトが反対したためだ。

 そののちオールマイトと別れることになった時、あの南京錠をかけていればもしかしたらと、切ない涙を流したこともあった。

 こういった恋人たちの儀式は世界中どこにでもある。欧州には、恋人たちのかけた錠の重みで損壊した橋もあると聞く。
 しなくてよかったのだと、今のわたしは静かに思う。
 錠などかけなくても、あの日二人で見たあの夜景は、あの頃の大切な思い出は、私の中の小さな箱に閉じ込めてある。
 今はもう、それだけで充分だ。

***

 駐車場のある山の麓から山道を登ること二十分。体力のないわたしは、展望台にたどり着いた時にはすっかりへとへとになっていた。
 だが苦労しただけあって、夜景の美しさは格別だった。

 はるか遠くに見えるのは、中央駅のツインタワーの灯りだ。その下に広がる、色とりどりの人口の星々。
 人の手による星々の間に黒々と横たわっている、湾へとつづく河の流れ。ゆるやかに蛇行しながらすすむその漆黒の上を横切るように点在する白い灯りは、おそらく橋の電燈だろう。
 わたしは視線を足元から頭上へと移した。
 先ほどまで見おろしていたツインタワーを有する市内は、ネオンの星海が広がる巨大な街。そこからほんの少し離れただけなのに、見上げた空には市内からではなかなか望めぬ星々が輝く。
 黒漆を一面に塗ったようなつややかな夜空に広がる、銀のかけらと金の粒。自然という名工の手による螺鈿細工がここにある。
 思わず感嘆のため息が漏れた。

 予想していた通り、この展望台からの光景は、あの電波塔のある公園から見下ろした夜景と少し似ている。
 懐かしいような、切ないような、そんな気分に襲われながら、わたしは再び視線を夜景へと移した。

「……綺麗ね」
「だろう?」
「ねえ、あなた覚えている? 昔二人でたまに出かけた神奈川の展望台」

 わたしはオールマイトのことを「あなた」と呼ぶ。
 昔のように「俊兄」と呼ぶのもなんだかおかしいし、名前で呼ぶのも気恥ずかしい。「オールマイト」と呼ぶのは、本人が他人行儀だと嫌がった。
 あなたと呼ぶことについてはオールマイトもまんざらではなさそうだったので、いつのまにか定着してしまった。
 まるで長年連れ添った夫婦のような呼び方。
 二十年以上もの歳月を離れて暮らし、再会したばかりのふたりなのに。

「ああ、覚えているよ。あの景色も見事だった。見上げると、東京ではあまり見られない星がたくさん瞬いていて、足元には湘南の街灯りが遠く広がって」
「……ここと、少し似ているわね」

 うん、とオールマイトは頷いた。
 ぴりりとした冬の空気が肌を刺す。痛いほど冷たい風にさらされているはずのに、心はとても温かかった。

 黒々と蛇行する河の先には湾がある。
 あれは釣り船の灯だろうか。湾をしずかに進む数点の光は、ある種の郷愁を呼び起こす。

「知っているかい? あの展望台は今や鍵だらけになってしまったらしいよ」
「一度テレビ番組で見たことがあるわ。あなた……あれからあそこに行ったりした?」
「……君と別れてから、一度だけ」
「女性と?」

 思わず尋ねた自分自身を、わたしは少し嫌悪した。
 これは嫉妬だ。自分はアメリカ人と結婚までしていたくせに、オールマイトの女性関係にやきもちを焼くなんて、本当にどうかしている。

「いや、一人で」
「え? ひとり?」
「うん。夜中にひとりで。カップルだらけの中、野郎が一人であんなところにいるってのは寂しいもんだったな」
「どうしてひとりで?」

 オールマイトは少し困ったような顔で微笑み、眼下の街をまっすぐに指差した。

「見ろよ。冬は空気が澄んでいるから、街が本当に綺麗に見えるな」
「……そうね」

 はぐらかされたことに気づいたわたしは、追及をやめて夜景をみおろした。
 展望台から望む180度のパノラマの夜景は本当に素敵だ。
 
 ふと、隣の若いカップルがキスをしていることに気づいてぎょっとした。その二人だけではない。よく見ると展望台にいるカップルの大半が同じことをしている。 
 素敵な景色に触発されたのだろうか。

 そういう行為はおうちに帰ってからしましょうね、と心のなかで呟いたところに落ち着いた低い声が降ってきた。
 それは張りのある低音。温かくて心地よい、オールマイトの声。

「なつめ、君が結婚したときいたから……だよ」
「え?」
「さっきの話。君が結婚したときいた夜、あの場所でしばらく夜景を眺めてた」

 引いたろ?との声に、いいえと応える。

 ああ、このひともまた人の子であったのだ。
 悲しみや執着……すべての負の感情を笑顔の仮面の下に押し込めて、このひとは常に戦っている。
 敵たちだけではなく、おそらく自分自身とも。
 その厳しい生きざまを想うと、胸がつまった。

 わたしはオールマイトの細い腕に自分のそれをからめ、甘えるように体を摺り寄せた。若いカップルたちがしているように。

「ところで知ってるかい?」
「なにを?」
「この夜景をみながらキスをしたカップルは永遠に結ばれるらしいよ」

 ああ、なるほど、だからみんなしてキスをしていたというわけだ。
 先ほどは臆面もなくと思ったが、そういうことなら納得できる。かつての自分がここに来たなら、きっとオールマイトにキスを求めていただろうから。

 ふふと笑みがこぼれたその時、目の前の長身が大きく腰をかがめた。

「……えっ……ちょ……待って」
「NO! 待たない」

 少しおどけてオールマイトが応える。落ち窪んだ眼窩の奥の瞳が、笑っている。

「人前でキスできるほど……っ……」

 若くないのよ、と続くはずの言葉はオールマイトの口の中に飲み込まれてしまった。
 あわせたくちびるはかさついていて冷たかったが、やわらかだった。

「もう……バカ!」

 口唇を解放されて形ばかりの怒りを見せると、オールマイトは嬉しそうにふふっと笑った。

「あの日、あの展望台で南京錠をかけてあげられなかったから」

 驚いた。そんなことまで覚えていてくれたのか。

「キスだったらいくらでもできるよ。なんならそれ以上のこともね」

 耳元に流し込まれた低い声。
 オールマイトの低音は、わたしの情欲に火をつける。

 足元には人口の星海、頭上には煌めく金と銀の粒。どちらが本当の星なのか、わからなくなりそうなそんな景色が目前にひろがる。
 その中で、わたしは上下の別もわからなくなるほど愛されたいと切に願った。

 もう二度と離れることなどないように。

 ねだるようにオールマイトのフライトジャケットの裾を引くと、再び優しく口づけられた。

 このキスは、わたしのこころにかけられた南京錠―パドロック―だ。
 互いのほかには誰も知らない、それはひそやかな誓い。

2015.12.15
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