バレンタイン・キッス

「よし、頑張るぞ!」

 腕まくりをし、わたしはキッチンに向かった。
 今日はバレンタイン、初めての彼のためにチョコレートを手作りするのだ。
 だが、わたしは今、とても焦っている。実はかなり時間がない。

 ああもう、どうしてこんな時に限ってママがいないんだろう。
 ああもう、どうしてこんなぎりぎりになってわたしはチョコをつくっているんだろう。

 もっと早くから準備しておけばよかった。
 こういうのなんていうんだっけ? ああそう、泥縄! 
 あれ? ちょっとニュアンス違うかな? まあいいや。

 それはさておき、今回のチョコ、本当はママに手伝ってもらうつもりだった。
 お料理上手のママは、アパートで暮らす雄英高校生たち全員に、一個ずつガトーショコラを配っていた。
 それをちょっとアレンジしてもらって、最後のデコレーションだけわたしがやれば、手作りって言っても嘘にならない。それなのに。
 でもママは「あなたがひとりで作らなければ意味はないのよ」との言葉とレシピを残して、パパと共に出かけてしまった。

 ママのケチ! 薄情者! 
 ああだめ。こんなふうにぶつぶつ言っている時間すらもったいない。

 ママがくれたレシピには面倒な工程が書かれていたが、わたしはあえてそれを無視した。だって、赤字で「テンパリング、重要!」って書いてあるけど、そのテンパリングとやらがなんなのか、わたしにはわからない。
 それにチョコレートを溶かすのに、刻んで湯煎にかけるとか書いてあるけど、なんでそんなことをしなくてはいけないんだろう。

 溶かして固めればそれでいいんじゃないの?

 ママはお菓子づくりの材料を常にいくつもストックしている。
 チョコレートの入った籠の中には、袋にクーベルチュールと書いてある塊チョコと板チョコが数枚入っていた。
 塊は細かくしないと溶けにくいだろう。それはちょっと面倒だ。
 迷わず板チョコを選択し、バキバキと手で砕く。そのまま鍋に放り込み、コンロに火をつけた。
 すぐに焦げたような匂いがしてきたので、慌てて火を弱める。漕げちゃったら美味しくない、それくらいはわたしにもわかる。
 うん、いいかんじにとけてきた。

 次は……とレシピを見ると「生クリームを入れる」と書いてあった。
 え? 生クリーム? せっかくのチョコにそんなものを入れたら、味が薄くなっちゃうんじゃないの? 
 これはきっと、甘いものが苦手なパパ用のレシピに違いない。
 そう思ったわたしはまたしてもレシピを無視して、そのまま冷やし固めることにした。

 俊兄はたくさん食べるから、小さい型に入れてちまちま食べるより、大きいままの方が喜ぶだろう。
 そう思って、ママが用意してくれた小さいトリュフ型に入れず、ケーキ型に溶けたチョコをどろりと流し込んだ。
 粗熱が取れたところを冷凍庫に入れて、一気にしあげるつもりだ。冷蔵庫で固まるまで待ってなんかいられない。

***

 出来上がったチョコは直径18センチの分厚い手作りチョコだ。
 でもこれは……ちょっと……いや、かなり見た目が悪かった。

 おかしいな。どうして表面がこんなに白っぽくなっているんだろう。板チョコしか入れていないのに。

 哀しくなりそうだったので、涙が出てくる前に箱に入れることにした。
 わたしはどうにも不器用で、リボンがうまくかけられない。何度も結びなおしているうちに、リボンそのものの形が歪んでしまった。どうしよう。

 わたしはヴァイオリン意外のことは、とても苦手だ。お料理もまったくできないし、お掃除も得意じゃない、ガーデニングは虫が出るから大嫌い。
 そんなわたしが慌てて作ったチョコレートは、包装も中身も、まったくひどい出来だった。

 ……やっぱりこれは渡せない。
 今からコンビニに走れば間に合うだろうか……そう思って窓辺に視線を向けた時、俊兄がこっちにむかって来るのが見えた。わたしに向って手を振っている。
 もうだめだ。あの笑顔を無視して買い物に行くなんて、わたしにはできっこない。
 覚悟を決めて、わたしはチョコを手にして庭に出た。

「ね、今から俊兄の部屋に行ってもいい?」
「女の子がこんな時間に部屋に来るのは良くないよ。俺がきみんちに行く」

 こんな時間って、まだ五時半だよ、俊兄。
 わたしの初カレはいつもかたいことを言う。

「どっちにしろ、今日はパパとママはいないんだよ。庭でおしゃべりするのもいいけど、ちょっと寒いよ」
「あ、そうだった。今日の夕飯は各自でって言われたの、忘れてた」
「そうだよ」

 少し膨れてそう言うと、俊兄は少し考えて「じゃあおいで」と笑ってくれた。我が家の庭から俊兄の住むアパートはすぐ隣。
 その短い距離を、二人で手を繋いで歩いた。

***

 俊兄の部屋はいつも整頓されていて綺麗だ。
 その整頓されている部屋の隅に、大きな紙袋が置いてあるのにわたしは気がついた。

「俊兄、これなに?」

 なにげなく尋ねると、俊兄はやばい、という表情をした。

 む、ナンデスカ? その顔は。 怪しい。

 嫌な予感がしたので、俊兄の制止を無視して、紙袋をひっくり返した。
 すると中から飛び出したのは、かわいいラッピングの小箱の数々。

 これ……もしかして……全部バレンタインのチョコレート?
 俊兄、こんなにもてるの?

「あ、いや、義理チョコだよ? ほんとだから」

 よく言う、と思う。
 紙袋の中には、チョコレートだけじゃなくてプレゼントやお手紙らしきものも入っていた。 これが義理チョコであるのなら、世に本命チョコなどというものは存在しない。

「俺、彼女がいることは公言してるよ」
「……あたりまえじゃん。あんなところでキスしたんだし」
「うっ……」

 きまり悪そうに、俊兄は口をへの字にまげた。
 お弁当を届けに来た中学生と門のところキスをした俊兄は、雄英でも有名になっていたらしい。雄英は自由な校風だけれど、それでも先生たちに注意もされたと他の学生から聞いたことがある。
 同時にわたしの存在も、俊兄に好意を持つ女の子たちに知られているということだ。

「あ……あのさ、轟はこれの倍くらいもらってたからね……」
「今、轟くんは関係ないと思うけど」
「う……」

 俊兄はすまなさそうな顔をしてうなだれてしまった。
 飼い主に叱られた大型犬のような姿を見ていたら、ついつい許してしまいたい気持ちになる。
 本当は受け取らないで欲しかったけれど、優しい俊兄だもの。「義理だから」と言われてしまったら、受け取らないわけにはいかなかったのだろう。
 プレゼントやお手紙がついている義理チョコなんて、なかなかないとは思うけど。

「わたしのチョコを一番に食べてくれたら、許してあげる」

 そういいながら、わたしは不格好なリボンがついた箱を俊兄に手渡した。

「もちろんだよ。俺が欲しかったのはなつめちゃんのチョコだけだからね」

 俊兄は嬉しそうに歪んだリボンをほどいて、見た目の悪いチョコを箱から取り出した。

「では、いただきます」

 だが次の瞬間、ガキッと派手な音がした。
 俊兄はチョコに歯を立てたまま固まっている。

「え……どうしたの? 硬かった?」
「……いや……」

 言葉を濁したまま、俊兄が困ったように笑んだ。
 俊兄には虫歯なんかない。真っ白で綺麗で丈夫そうな歯をしている。それなのに噛めない。
 わたしは俊兄からチョコを受け取って、分厚いそれにかじりつく。

「かたっ!!!」

 硬いなんてものじゃない、まるで岩。歯が折れちゃうかと思ったよ。
 板チョコを冷やし固めただけなのに、どうしてこんなに硬いんだろう。

 もしかして、クーベルなんとかってチョコにも、テンパなんとかにも、面倒そうな工程にも、生クリームを混ぜるのにも、小さい型に入れるのも、意味があったのだろうか。
 分厚いチョコを持ったまま、わたしは半泣きになりながら、床に散らばるチョコの山を見つめた。
 可愛いラッピングの中身は、きっと可愛いものばかりだろう。
 こんなふうに見た目が悪くてがちがちのチョコレートなんか、一つもないに違いない。

「ごめん、俊兄、こんなの捨てちゃっていいから……」

 わたしは泣きそうになった……というか、泣いていた。
 俊兄だって、岩みたいに硬いチョコを渡す女の子より、可愛いチョコをくれる女の子の方がいいに決まっている。
 わたしはこのまま呆れられ、振られてしまうのだ。
 せっかくのバレンタインだったのに、どうしてわたしはレシピを守らなかったのだろうか。
 ぐずぐずと鼻を鳴らしながらうつむいていると、大きな手が頭の上にぽんと置かれた。

「と゛し゛に゛い゛……」
「なつめちゃん、このチョコ、ちょっと手を加えていいかな」
「いいけど……」

 鼻水を啜りあげながらわたしは答える。

「こんなにかたいチョコ、何をしたって食べられないよ」
「大丈夫。チョコレートは熱でとける」

 半泣きのわたしにウインクをして、俊兄はガスコンロの方へ向かった。
 毎日きちんと朝食を作っている俊兄の簡易キッチンには、それなりの道具がそろっている。
 俊兄は冷蔵庫から牛乳を出して小鍋に注ぎ、火をつけた。次に大きな手が包丁を握り、手慣れた仕草で岩チョコレートを刻み始める。
 岩チョコは俊兄の力でもとんとんとは刻めず、ごりっごりっという厳つい音を立てながら、それでも細かくなっていく。
 小鍋の中に投入されたチョコレートのかけらたち。それは熱いミルクの中で花びらが舞うように踊り、そして溶けていった。

 こうして岩のように硬かったチョコレートは、俊兄の手によって温かいチョコレートドリンクへと変貌をとげたのだ。

「ほら、こうすれば美味しいよ。形が変わっちゃって申し訳ないけど」

 そう言って爽やかに笑う俊兄がまぶしかった。

 「いい?」と尋ねると、「いいよ」と応えが返ってくる。わたしたちのいつものやりとり。

 熱い液体の入ったマグカップをふたつ持って座った俊兄の膝の上に、わたしはちょこんと腰を下ろした。
 やけどしないように気をつけながら、そっとカップの縁に唇をつける。

「美味しい……」
「うん」

 長い腕ですっぽりと包まれていただくホットチョコレートは、とても美味しかった。
 あったかくて、甘くて、まるで俊兄みたい。

「俊兄、ごめんね……こんながちがちのチョコを渡しちゃって」
「大事なのは気持だろ? 残りも同じようにして飲ませてもらうね」
「でも……」
「それにね、俺にはなつめちゃんからしかもらえないものもあるからさ」

 こっち向いて、と低い声でささやかれ、わたしは首を捻じ曲げ俊兄を見上げる。そこに落とされる優しい口づけ。
 俊兄とのキスは、もう何度目になるだろう。わたしたちはキスをしながら自分のマグカップをさりげなくテーブルに置く。
 やわらかく触れ合った唇は、やっぱりチョコの味がした。

「ごちそうさま」

 キスのあと、額をこつんとつけられて微笑まれた。
 わたしの初めての彼は、とても背が高くて、とても優しい男の子。

「だいすき」

 見つめあったままそう言うと、俊兄はやや性急にもう一度わたしに口づけた。
 先ほどの触れるだけのキスとは違う口腔内を蹂躙するような激しいものだ。呼吸までも飲みこまれてしまいそうな熱いキスに、眩暈がする。
 大きな身体にすっぽりと包まれて与えられる口づけは、チョコより甘いデザートだ。

 来年も、再来年も、大人になっても、俊兄とバレンタインを過ごしたい。
 俊兄のキスに応えながら、わたしは密かにそう願った。

2016.2.14
- 7 -
prev / next

戻る
月とうさぎ