気持ちの変わらぬ人など、この世のどこにもいない。
わたしは夜の街を彷徨い続ける、あの日より深く傷つくように。
そしてひとり、取り残される。暗い闇の中で。
2話 「レフトアローン」
「寝てもいいわよ」
初めて会った時と同じホテルのバーカウンターで、わたしはオールマイトに会うなりいきなりそう告げた。
結局、わたしはオールマイトとずるずる会ってしまっている。もちろん関係を持ったのはあの最初の夜だけ。
わたしたちは恋人でもなく、互いの立場を思えば同僚とも友達とも言い難い。よくわからない関係を続けている。
しかしオールマイトがわたしに好意を抱いているのは明らかだった。わたしは最初から恋などしないと言っているのに。
それでも君と恋をしたいのだと、ナチュラルボーンヒーロー様は言い張る。あの夜の君が可愛かったからと。
愛だの恋だのと言ってはみても、しょせん男と女がすることは同じだ。だったらオールマイトともう一度寝てみればいい。
そうすれば笑ってやれるのだ。随一の英雄様もただの男であったのだと。
「どうしたんだい、急に」
「わたしは同じ男とは二度は寝ない主義だけど、ヒーロー姿のあなたとはまだ寝てないわ。だからそうしてくれるなら、もう一度寝てもいいって言ったのよ」
この瞬間、オールマイトがきゅっと眉根を寄せた。だが彼はすぐにそれを笑顔に変えて、抑制された声で答える。
「で、絵李。今夜は君にキスをしてもいいのかい?」
突然の言葉にわたしは一瞬言葉を失った。
気づかれていたのか。あの夜幾度か唇を求められたが、さりげなく気を逸らしたつもりだったのに。
わたしは唇だけはゆるさない。
オールマイトと過ごした夜もそうだった。あの夜に抱かれたいと思ったきっかけがその唇にふれたいというものであったのに、やはりどうしてもできなかった。
身体は許せるのに唇はゆるさない、矛盾していると自分でも思う。
「それは難しいかもしれないわ」
「なら、お断りだ」
思いがけない強い口調にわたしは思わずオールマイトを見上げた。背中を冷たい汗が伝っていく。
肉の削げ落ちた顔にはいつものように静かな笑みが浮かんでいたが、どことなく怒っているようにも見える。身を固くしたわたしに重たく響く低音がおいかけてきた。
「君はもう一度だけ私に身体を開くが、それっきりってことだろう? そんなのはごめんだ。君の身体だけが欲しいわけじゃない。開いてほしいのは心なんだ。」
「……わたしは誰にも心なんか開かないわよ」
「これからのことは誰にもわからないさ」
静かだが確信に満ちた物言いにどきりとした。
自分の中に生じた動揺を隠すように、手にしていたフローズンマルガリータを一息で飲み干す。脳にキンと響く冷たさと共に、ぞくりとした寒気が背中を走った。
冷えた背中を包むようにカーディガンを肩にかけ、ふっと小さく息をつく。
「最近、煙草吸わないんだね。吸っても構わないよ」
今のやり取りなどなかったかのように、オールマイトが優しく笑んだ。
あなたのためではないのよとわたしは答え、金色の髪の英雄はつれないなと肩を落とす。
事実、煙草を吸わないのはオールマイトに気を使ってばかりのことではなかった。
完全にやめることはできないが、わたしはそんなに煙草を吸わない。
一日10本行くか行かないかというところだろうか。あまり認めたくないが、不安な時や動揺した時に本数が増える。煙草を吸うと心が落ち着く気がする。
不思議なことに、オールマイトといる時間はあまり煙草を吸いたいとは思わない。それが何を意味するのか、わたしはあまり考えないようにしていた。
とにかくオールマイトといると退屈しないのは確かだ。稀代の英雄様は紳士で会話もうまく、振る舞いも洗練されている。
スマートすぎて、気づかぬうちに支払いを済ませられていることが大半だ。なので店を出た後はそのことで毎回もめる。
「頼むから私に恥をかかせないでくれないか」
「あら、男女平等の世の中でそんなことを言うのはナンセンスよ」
オールマイトは高所得者なのだから払ってもらえばいいと言われそうだが、わたしは自分が飲食した分はできるだけ自分で持ちたいのだ。
恋人同士でも友人同士でもない男女が、二人で飲みに出ること自体が不自然なのだから。
最終的に、三回に一回の割合でオールマイトが折れて私の飲食した分だけを受け取ってくれる。
けれどオールマイトが予約を入れたレストランでの食事のときは、絶対に譲ってはもらえない。
女性に渡されるメニューに価格が書かれていないところから推測するに、わたしのお給料で払えるような額ではないのだろう。
わたしたちの関係はいったいなんなのだろう。
全く不健全な形で知り合った割には、現状はしごく健全な形を貫いているわたしたち。恋をしたくないわたしと、恋をしたいオールマイト。実に不思議な関わりだ。
わたしはどこまでも矛盾している。
恋などしたくないのなら、誘いを断ればいい。そのためわたしは必ず一度、オールマイトの誘いを拒む。
「暇だけど出るのが面倒だわ」「用事はないけど一人で過ごしたいの」
予定などないということをあからさまに出してからの断り。そうすればオールマイトは必ずもう一度誘ってくる。わたしはそれを……知っている。
そして二度目の誘いがあると、仕方がないとため息をつき、わたしは出かけてしまうのだ。
仕事帰りならきっちり化粧を直し、伊達眼鏡をはずして。
休日だったら髪まで巻いて。
昼間の学校に相応しいいでたちがあるのと同様に、夜の街には夜の街に相応しいスタイルがあるなどと、自分で自分に言い訳をして。
***
嬉しいことに、本日は例年よりかなり早く梅雨明けが宣言された。これから盛夏がやってくる。湿度と気温が異様に高い、この街の夏が。
今夜はわたしが場所を指定した。巨大ターミナル近くにある高級ホテルのバーラウンジだ。
地上40階から望む都会の夜景は見事なものだ。きりりと乾燥した冬の夜景も素敵だが、どこか艶を含んだような夏の夜景もまた美しい。
モダンジャズが静かに流れる中、彼はバーボンを、わたしは楊貴妃を頼み、いつものようにグラスを合わせた。
オールマイトが酒を頼むのは、同行者を気遣ってのことだ。頼みはするが殆ど飲まない。気づいてすぐのころ、酒場で会うのはやめましょうと提案したら、バーラウンジの雰囲気が好きなんだ、と返された。
飲めない男がバーに一人でいるのは変だろう? 君が同行してくれると非常に助かる、と。
果たしてそれは、本当だろうか嘘だろうか。わたしは一つ、息をつく。
その時、いきなり背後から声をかけられた。
「絵李?」
むせ返るような薔薇の香りと共に、唐突に後ろから響いてきたメゾソプラノ。体中の血が凍りついたかのような錯覚に襲われて、振り返るのが数秒遅れた。
この特徴のある香りは『ナエマ』だ。この香りから触発され作られた薔薇すらあるという、高級パルファム。
「こんばんは」
硬直している私の代わりに、オールマイトが返答をする。
自分の心臓の音ばかりが大きく聞こえ、なかなか顔があげられなかった。それでもやっとのことで声をかけてきた女に振り返る。
視線の先には漂うその香りを体現するような、派手な巻き髪にはっきりした顔立ちの女が立っていた。
「お久しぶり」
「本当ね。連れが来るまで、ここに座らせてもらっていいかしら?」
「つ……れ……?」
「ええ、夫」
互いの間に流れたのは、おそらく奇妙な沈黙だったろう。だが彼女は次に、オールマイトに向かって嫣然と微笑む。
いつみてもかわらない、大輪のバラの花のような女だ。美しくて、エレガントで、華やかで、薫り高くて、そして残酷な棘がある。
「絵李、素敵な人ね。紹介してちょうだい」
自身の職場である雄英の関係者だとオールマイトを紹介し、自分個人との関係性は濁して伝えた。恋人だと勘違いさせるよう、骨ばった大きな手に自分の手をさりげなく絡ませながら。
オールマイトは一瞬目を見開いたが、特に何も言わなかった。
そして思った通り、妖艶な笑みを浮かべながらも、この女はしっかりとわたしの同席者を品定めしている。
一目で高級とわかるオーダースーツをさらりと着こなし、身につけているものもすべて一級品。空気を読んで、そつなく会話もこなしてくれる大人の男。
一緒にいたのがオールマイトでよかったと心から思った。
こんな女相手でも見栄を張りたいと思ってしまう、己のあさましさと愚かしさ。
「女性の友人同士というのは雰囲気も似るものなのかな? あなたと絵李は少し似ていますね」
オールマイトの声に、ああ気づかれたとわたしはこっそり唇を噛む。
わたしたちはよく双子のようだと言われた。たしかに顔立ちは似ていたが、わたしには彼女のような華やかさはない。
彼女の愛用品であるナエマのフレグランスストーリーとそっくりだ。双子の姫、ナエマとマハネ。炎のようなナエマと水のようなマハネ。
ストーリーではナエマが身を引き王子はマハネと結ばれたが、現実の王子はマハネではなくナエマを選んだ。
そう、彼はこの女を選んだのだ。
「あら、絵李。あなた香水変えた? 大好きだったクロエはどうしたの?」
「もう卒業したわ」
「無難なお嬢さん然としたクロエに比べると、ずいぶん個性的な香りね。花とバニラと白檀で」
何か言い返したいと思ったがうまく言葉にできそうになかった。どうしてこの女はわたしと話をしたがるのだろう。わたしはこの女と語る言葉などないのに。
その時また背後から、聞き覚えのあるバリトンが響いた。
「絵李?」
今度こそ振り返ることができそうになかった。がちがちに身体を硬直させている私の横で、オールマイトが立ち上がる。
男たちは互いに挨拶を交わしているようだった。二人がどんな顔をしているのか、わたしには確かめることすらできない。
「私はこの街で宝石商をしております」
「宝石商ですか……」
絞り出すような低い声だった。
わたしはそろそろと顔を上げる。確かめたかったのは彼の顔だったのか、それともオールマイトの表情だったのか。
視線の先には、昔わたしが愛した男と、大輪のバラのような妖艶な女。
彼のほうはわたしに罪悪感があるのだろう。目を合わそうともせず挨拶をして、まだわたしとオールマイトについて詮索したそうな自分の妻を引きずるように去って行った。
華やかで薫り高い薔薇が去った後、オールマイトは珍しく無言のままだった。
ラウンジに流れているのはモダンジャズ。切ないサックスの響きに身体が引きちぎられそうな、この曲の名はレフトアローン。
「何も聞かないのね」
「聞いてほしいなら聞くよ」
わたしは聞いてほしいのだろうか、このひとに。
あの日以来、かつての仲間たちはわたしを壊れ物を扱うように接してきた。極力二人の話題に触れないように。私を悲しませないように。
だからわたしは皆を心配させないように、無表情でいなす技を身につけた。
わたしは仲間の手前、平気な態を装うことにした。わたしはあの二人とはもう関わりを持たないが、皆は二人とつながっている。
いつまでも落ち込んでいる姿を見せることは、自分がみじめになるだけだ。
愚かでちっぽけなプライド。だがその自尊心がわたしをぎりぎりのところで支えていた。
誰かに自分の話を聞いてもらおうとしたことも、聞こうとしてきた人もいなかった。
そうだ。わたしは誰かに、この話をきいてもらいたかったのかもしれない。
バッグから煙草を取り出し、いいかしらとたずねる。もちろんさとオールマイトが答えた。
このひとはどこまでも優しい。
かしゅ、という音と共に火がともり、シガレットの先端を炎に当てて軽く吸い込むようにそれを移す。煙が口腔から喉を通り肺に達すると、少し気持ちが落ちついた。
ニコチンが脳に行き渡るまで、数秒。柔らかい快楽にも似た感覚が脳髄を刺激する。
わたしはゆっくりと口唇をひらいた。
「わたしと彼女は大学まで続く一貫校の出身なの。彼女とは小学校入学から大学を卒業するまで一緒だったわ。彼女は常にクラスの中心にいて、女王様のようにふるまっていたけれど根は優しい子だった。すくなくとも当時はそう思っていたわ」
「うん」
「彼はわたしたちより二つ年上で、同じ系列の男子部から大学まで上がってきたの。テニスサークルの先輩でとてもモテる人だった」
「ああ、そうだろうね。なかなかいい男だった」
「大学一年の春に彼から告白されて付き合いはじめて、それからずっと一緒だった。でも新婚旅行から帰ってきた空港で、彼はいなくなったの」
「新婚旅行?」
「そう。パスポートの都合で入籍は帰国後にするつもりだったから戸籍上は独身だけど、わたし結婚式と新婚旅行は一回経験してるのよ」
「……」
「彼がいなくなって、わたし半狂乱になったわ。そんなわたしを彼女はずっと慰めてくれていた。ありがたいと思ったわ、おめでたいことに」
ここでわたしは一息ついた。あの時の衝撃を、誰に理解することができようか。
彼の居場所がわかったその瞬間、わたしの涙は枯れてしまった。
「そして一週間後、彼が彼女と暮らしていることを知ったの」
オールマイトは何も言わない。
わたしは思った。
いつものように、私が忘れさせてあげるよと軽口をたたいてほしい。こんな時だけ黙らないでと。
「ちょっと待ってて」
オールマイトが急に席を立った。
呆れられたのだろうか。恋などしないと言っていた理由が、こんな陳腐な理由で。
けれどわたしにとっては、二度とたちあがれないくらいの出来事だった。
「寒いわね……」
わたしは極度の冷え症だ。空調が効きすぎているのだろうか、夏だというのに冷えが一層ひどくなる。
泣きたい、と思った。けれど泣けないこともわかっていた。あの日に自分の中の涙は失われてしまったのだ。あれから、わたしは一度も泣いていない。
そのかわり心の中に見えない傷口があり、そこからどくどくと赤黒い血が流れ続けているような気がする。
その血を止める方法を、わたしは知らない。
わたしは四年前のあの日から、ずっと同じことを繰り返している。
やりきれない夜は男と寝る。男を翻弄する奔放な女のように。
違う自分を演じることで自分を慰め、朝を迎えて自分の愚かしさを責める。
この四年間たくさんの男と関係を持ってきたが、事後にわたしを自己嫌悪に陥らせなかった男性は、ただひとりだけだった。
わたしはこの迷宮からいつになったら抜け出せるのだろうか。
それでも今夜はひとりではいられない。
誰でもいい。いや、女をベッドの上で道具のように扱うような冷酷な男がいい。
身も心もずたずたにされるほど手ひどく扱われればいい。あの日にできた心の傷より、もっと深い傷ができるように。
そこまで思考を走らせたときに、オールマイトが戻ってきた。いつもと変わらぬ笑顔で、常と変らぬ優しい声音で彼は言う。
「会計を済ませたから、別の場所に移動しよう」
「いいえ、今夜はもうお開きにしましょう」
「だめだ、今夜は帰さない」
思ってもみなかった言葉に全身の毛が逆立つ。同時にオールマイトの大きな手の中に納まっているカードをみとめて、わたしは身構えた。
「ちょっと……それ……」
「私と別れたら、その足で君は抱いてくれる男を探しに行くだろ。そんなことをさせるわけにはいかないんだよ」
「どうして?」
「私が嫌だからだ」
低く絞り出すような声と共に、そのままぐっと腕を取られた。
わたしはその腕を振り払おうとはしなかった。たとえ痩せた姿でいたとしても、オールマイトに力で勝てるはずもない。
本気で抵抗すればやめてくれるだろう。だがわたしはこの人を拒み切ることなどできはしない。
オールマイト。事後にわたしを自己嫌悪に陥らせなかった、ただひとりのひと。
下りのエレベーターに乗り込む寸前、オールマイトは掴んでいたわたしの腕をそっと放して、先に昇降機に乗り込んだ。常にレディーファーストを心掛けている人のはずなのに。
ああ、どこまでもオールマイトは誠実だ。嫌ならこのまま逃げればいい。そういうことだ。
そしておそらく、彼は見抜いているのだろう。わたしがこのままついてくるであろうことを。
わたしは無言のまま、細長い背の後に続いてエレベーターに乗り込んだ。
今夜オールマイトと寝るのは本当に危険だ。今夜だけは絶対にいけない。
この人ならばきっと悪いようにはしないだろう。それはわかっている。
一夜限りの関係を持つような女だとわかっていても、まるで淑女を相手にするように接してくれるような人だ。
二十歳そこそこの頃の、恋さえうまくいけば人生が薔薇色だった頃とは違う。だからこそ、わたしはオールマイトにすがってはいけない。
それでもわたしはオールマイトを拒めず、彼の後をついてゆく。
逃げ出すべきか、それともこのまま進むべきなのか。躊躇し続けるわたしの前で、オールマイトが足を止めた。見上げた先には、ホテルルームの茶色い扉。
大きな手が扉を開けて、どうぞとわたしを促した。
2015.5.24
- 3 -