流れ出る血を止める方法が、わたしにはどうしてもわからない。
流離うわたしの耳に聞こえてくるのは、黄金色の月が奏でる華麗な旋律。
夜想曲は、ひとりで聞くには美しすぎる。
3話 「夜想曲をふたりで」
さも何でもないような顔をしながら、わたしは背後のオールマイトに気づかれないよう深く深呼吸をした。自分でも驚くほど緊張している。一度寝た男が相手だというのに。
高級ホテルのデラックスルームのダブルベッドは、オールマイトの長身も受け入れられるロングサイズだ。その上に用意されているバスローブもまた、特注サイズのものだろう。
「私が先にシャワーを使うけど、いいかい?」
柔らかい低音に問われ、どうぞといらえる。
声をかけられたとき、体がびくりと強張った。緊張していることを悟られはしなかっただろうか?
バスルームの扉が閉まるのを確認してから、一呼吸おいて、わたしは煙草に火をつける。心臓の音がひどくうるさい。
男性と一夜を共にするのにこんなに緊張するのは、バージンを失った時以来かもしれなかった。
なぜこんなにわたしは動揺しているのだろうか。
生まれながらのヒーロー様もただの男だったとわかったからなのだろうか。
わたしは失望しているのか、それとも期待しているのか、それとも……。
煙草を吸っても、なかなか気持ちが落ち着かない。
落ち着かぬまま三本目の煙草をもみ消したその時、オールマイトがバスルームから出てきた。
胸元が少し肌蹴たバスローブ姿に、またどきりとして目を逸らす。
十九、二十歳の小娘でもあるまいしと心の中で嘆息し、わたしもバスルームへ向かった。
シャワーをすませたわたしが髪を乾かし終えて部屋に戻ると、周到なことにルームサービスが届けられていた。
ワゴンの上には銀色のワインクーラーとハーフサイズの白ワイン、そしてムラーノのワイングラスが二つ。
わたしはどうするか少し考え、彼の座るソファを通り過ぎ大きなベッドの上に乗った。
ヘッドボートに寄りかかって座り、腰まで毛布を掛ける。落ちてくる前髪を軽くかき上げ、挑発するようにオールマイトを見あげた。
平気な態を装ってはいたが、その内情は全く逆だ。
オールマイトは一瞬だけ彫りの深い眼窩の奥にある目を見開いたが、やがて小さく息をついて、ワゴンをベッドサイドまでに移動させてくれた。
オールマイトがわたしの右隣にそっと手をつき、ベッド上のひととなる。彼もわたしと同じようにヘッドボードによりかかり、腰まで毛布を掛けて座った。
彼は無言のまま、そっとわたしを抱き寄せる。
あの夜と同じ、彼の体温。代謝がいいのだろうか、オールマイトの体温は高い。
そのまましばらく寄り添っていたが、やがてオールマイトが口をひらいた。
「宝石商だったんだ」
「え?」
「元彼」
少しさみしそうな低音。気づかれてしまった。
わたしがブルームーンストーンを知っていた理由に。
だがさみしそうなのは声だけだった。オールマイトはいつものように笑んでから、わたしの頭をくしゃりとかき回す。まるで幼子にするように。
長い腕が私の頭からベッドサイドのワゴンに移動し、流れるようなしぐさでムラーノに白ワインを注いだ。淡い色の酒で彩られた見事なカットのグラスが目の前に差し出される。
わたしはそれを受け取り、オールマイトも自分のグラスにごく少量の酒を注いで、目の位置に掲げて乾杯した。
淡い黄緑がかった金色のワイン越しに見える青い瞳。わたしはこの瞳に最初から魅了されていた。そう、あの甘い夜のはじまりからずっと。
ソーニヴィニヨンブランらしい柑橘系の果実味と清々しい爽やかさが、喉を優しく湿らせていく。ワインは葡萄の酒なのに、柑橘やベリーのような香りがするのが本当に不思議。
けれどそんなことより一番不思議なのは、清く正しく美しいはずの英雄様が、わたしのような女とここでこうしていることだろう。
「ねえ、どうしてわたしなの? わたしみたいな女はあなたにふさわしくないのに」
「そんな言い方はやめてくれないか。絵李、君は私が恋した女性だ」
「だからその理由がわからないのよ」
当代一流の男だ。その気になれば女優でもモデルでも、たとえ富豪の令嬢であろうとも選び放題であろうはずなのに。それがどうして。
「震えていただろう、あの時」
唐突だが適切な指摘に、驚いてワインを取り落しそうになった。すかさず伸ばされた筋張った大きな手が、わたしの手ごとグラスを支える。
たしかに男と寝る寸前、わたしは常に身構えている。それは今感じている緊張とは少し違う種類のものだ。正直、知らない男と寝るのは怖い。相手によっては何をされるかわからないからだ。
それでも求めずにはいられなかった。もっと深く傷つくために。
「誕生日だからと、さも何でもないような顔で君は私をベッドに誘った。だから慣れた女性なのかと思った。でも君は部屋に入るなり、バーにいる時は一本も吸わなかった煙草にいきなり火をつけただろ。その手が、かすかに震えてた」
「……」
「ベッドに移動してからもそうだ。私の手が触れるその寸前まで、君は小さくおののいていた。だから最中に少しでも怯えたような様子が見られたなら、すぐに行為をやめようと思った」
「やめなかったじゃない」
「ン、始めてみたら、君、よさそうだったから。私も年甲斐もなく溺れてしまったし」
いたずらっぽく、にっと笑われ、思わず広い肩をばしりと叩いた。
あの夜、シャワーもそこそこに貪りあうように互いを求めた。触れるたび、その部分から溶けていくような不思議な感覚。
限りなく優しい手で翻弄されたかと思えば、獰猛な雄に貫かれて快楽の渦に落とされる。そこからまた救い上げられ、激しく揺すぶられた末に幾度も昇りつめた悦楽の果て。
フローラルノートが混じったバニラが香る中で、自分が炎天下のジェラードになったかのような、甘い淫靡な時間をすごした。
身体にも相性というものがある。今まで、行為の上手な男は他にもいた。
だが翌朝に自分のしたことを後悔するどころか、次の約束を取り付けなかったこと悔やませた男は、オールマイトだけだった。
「月並みな表現だけど、君は悪女のように私を誘い、少女のようにおののき、娼婦のように乱れ、淑女のように去った。連絡先の一つも残さずにね。男はそんなミステリアスな女に惹かれるものだよ。翌朝、雄英で再会できた事も含めて、まさにFemme fataleだと、そう思ったんだ」
ファム・ファタール。人生を狂わせる悪女、もしくは運命の女。
自分にオールマイトほどの男性にそんな風に思ってもらえる価値があるかどうか信じられず、わたしはムラーノの中の液体を飲み干した。
ムラーノのカットは美しい。
ワインを注ぐなら、白よりも赤の方がこのカットには生えるのではないかなどと、関係ないことをぼんやり思った。
ふいに、オールマイトがわたしのグラスをやさしく取り上げ、静かにワゴンの上に置いた。
大きな右手が近づいてきて、そっと私の頬をなぞる。
またしても心臓が早鐘のように鳴り響いた。処女でもあるまいし、いい年をした女がみっともない。
どうかこの音がオールマイトに聞こえませんように。
大きな手がこめかみから顎にかけて、幾度も優しい愛撫を繰り返す。
そのうちに、長い指がわたしの唇にふわりと触れた。触れるか触れないかギリギリの、まるで鳥の羽で撫でるような柔らかいタッチ。
オールマイトの指がわたしの口唇をなぞっていく。上唇の左から右へ。下唇の右から左へ。
耳元で「好きだ」と甘い低音を吹き込まれた瞬間、体の芯がふるりと震えた。
こんなにも欲しいと思ったのは始めてだった。女にも情欲というものがある。
わたしが今欲しているのは、目の前のこの人が与えてくれる快楽のすべてだ。今夜は何も考えず、それに溺れてしまおうか。
互いが互いのドルチェになったような、甘く切ない夜の続きをもう一度だけ。
オールマイトをちらりと眺めて、わたしは毛布の中に肩まで滑り込んだ。
小さくため息をついてから、彼も私の隣に横たわる。
ため息の理由がわからず、わたしは少し困惑した。
目の前に落ちてきた前髪を、大きな右手が柔らかい手つきでかきあげる。
青い目の奥に自分の顔が映っているのが見えた。オールマイトがまた、指でわたしの唇にちょんと触れ、にこりと笑った。
しかし彼はわたしを優しく抱きしめるだけで、それ以上のことをしようとはしない。
「オールマイト?」
「なんだい?」
「あの……どうして?」
彼の左腕を枕にしているわたしに、今夜は質問ばかりだねと笑ってオールマイトが答える。
「ああ、帰さないとは言ったけど、君を抱くとも言ってない」
「どういうこと?」
「今夜君をひとりにできないのと同じくらい、今夜は君を抱いてはいけないと思うからさ」
「ふざけてる?」
「いや、至極真面目に答えているよ。君の傷心につけこむような卑怯な真似はしたくない。それに」
「それに?」
「私はあの夜、欲望に負けて君を抱いてしまったことを、心から後悔しているんだよ」
君と寝たことを後悔している、その言葉に胸の奥がずきりと痛んだ。
「わたしが誰とでも寝る女だから?」
「それは違う。絵李、君は平気だったわけじゃないだろう? 本当にセックスをスポーツみたいにとらえている女性は、自分を汚いもののように言ったりはしないものだ」
「じゃあ、どうして?」
「わからないのかい?」
質問に質問で答えるのはずるいと思った。けれど答えがわかっていて、それをオールマイトの口から聞き出そうとしている私はもっとずるい。
しかしそれを承知で、わたしは無言のままでいた。そうすれば誠実なオールマイトはきっと答えをくれるから。
卑怯なわたしに小さく笑んで、オールマイトが低く応える。
「男と女は、たいてい食事やお酒の席で互いのことを少しずつ理解しながら、距離を縮めていくだろう? その延長上に性行為がある。けれど私と君は一番大事なところををすっとばして、最初の夜に最終段階に進んでしまった。だから変に拗れてしまっている気がするんだ」
「……」
「君が私の気持ちを信じられないのも、おそらくそこだろ」
他の追随を許さないスーパーヒーローに、私と恋をしないかと言われ続けて有頂天にならない女など、どこにいようか。
オールマイトは誠実だ。きっと悪いようにはしないだろう。でもそれは願望であって確信ではない。
わたしは男性全般が信じられない。けれどそれはオールマイトのせいではない。わたしを裏切ったあの人と、それを許せぬわたしのせいだ。
そして出会って最初の夜に寝るような女に二度目があるとしたら、それは恋人ではなくいつでも寝られる便利な女としての位置づけだろう。
奔放な女の誘惑には勝てないくせに、奔放な女をどこかで見下している。男というのはそういう生き物だ。わたしはそう思っている。
オールマイトの言葉は、たぶん一部分においては事実だった。
「だから私は今夜、君を抱かない。かといって他の男に抱かせるわけにもいかない。だったらこうして、君がどこにもいかないように、一晩じゅう自分の腕の中に閉じ込めておこうかなと思ったんだ」
「……ばかなの?」
「たとえ馬鹿だと笑われても、これが一番君を傷つけない方法だと思う」
本当にばかよと震える声でもう一度漏らしたわたしに、オールマイトは笑みで答える。
その時わたしは、自分の足にあたっているものの存在に気がついてはっとした。
「ねえ、あの……すごく硬いものが当たっているんだけど」
「そりゃ仕方ない。男の生理だ、不快だろうけど我慢して」
男性が性器を臨戦態勢にさせたまま、性欲を制御するのはたいへんなことだ。
一声かければどんな美女でも思いのままにできるはずの英雄が、そんな苦行をわたしのために。
わたしはたぶん最初の夜から、オールマイトに惹かれている。
女の恋は上書き保存、新しい恋をすれば過去の恋などすべて忘れる。そんな知ったようなことを誰かが言った。
けれどわたしには、過去の恋の上に新しい恋を上書きするより前に、デリートしたい傷がある。
あの見えない傷がある限り、そこから赤黒い血が流れ続けている限り、上書きしても不具合が生じることは間違いなかった。そこから生まれた破損ファイルは、きっとわたしをクラッシュさせる。
そこまでわかっているのに、わたしにはその血の止め方がわからない。
だからわたしは話題を変えた。
「わたしね、うっとうしい女だったのよ」
「うっとうしい?」
「ええ。元彼が長い髪の女がいいと言えばロングヘアにする。ピンク系のメイクが可愛いと言われればそうする。電話すると言われればお風呂場にまで携帯をもっていって、ひたすら待って。極端な話だけど、彼が右を向いていろといったら、もういいよと言われるまでずっと右を見てたんじゃないかしら」
「意外だな」
「そうでしょう? だから彼はわたしを捨てたの。なんでも男の言いなりになる女なんて、魅力のかけらもないわよね」
「私は君を裏切ったりしないよ」
「よく言うわね」
「私は嘘はつかない」
「正体を隠してわたしと寝たくせに?」
「相変わらず辛辣だな、君は」
「だからやめたらいい。こんな嫌な女」
「絵李、君は本当に自分を卑下してやまないんだな。君が時々攻撃的になるのは、深く傷ついているからだ。人は一度深く傷つけられたら、次はそうされまいと攻撃的になるものさ」
心をわしづかみにされたような気がした。
こんな時に泣くことができれば可愛い女だと思ってもらえるのだろうか。
「もっといろんな話をしよう。君の話を聞きたい」
「わたしはあなたの話も聞きたいわ」
「なんだい?」
「身体は大丈夫なの?」
オールマイトは一瞬息を飲み、大丈夫だよと静かに答えた。
馬鹿なことを聞いたものだ。この人はそう答えるに決まっているのに。
「本当はもっと突っ込んで聞きたいんじゃないのかい?」
「それは聞いていいことなの?」
「ほら、君は優しい。私を困らせるような質問を避ける。でもそれは男に利用されやすい優しさだな。特に恋人同士の場合はね」
「わたしとあなたはそんな仲じゃないわよ」
「ん、それはおいといてね、君が知りたいだろうことを教えるよ」
***
オールマイトの口から出た言葉の重さに愕然とした。
ヒーローとしては一時間すら持たない身体。失った臓器。
咳込むたびに吐血するのも、呼吸器が傷ついているからなどという生易しい理由ではなく。体つきが変わるのも個性によるものではなかったのだ。
そしてわたしは心の底から思い知る。
この人は心身ともに、真の英雄であるのだと。
平和の象徴、生まれながらの英雄と、そう人々は彼を呼ぶ。
いかなるピンチであろうともオールマイトとその名を叫べば、絶望はそのまま希望に変わる。何故なら、きっと彼は来てくれる。たとえ彼自身がどんな状態であったとしても。
人々からの賞賛と信頼。それに伴う責任と重圧。
すべてを笑顔の仮面の下に隠して人々の生活を守り続ける英雄は、満身創痍であったのだ。
自らの命を削って人々に安寧の地を与え続けているこの人を、支える人は誰もいない。
そしておそらくオールマイト本人が、支えてもらおうなどと露とも思っていないであろうことが、ますます悲しかった。
『この身を平和の礎に』
かくしてこの世の平和は、英雄様の自己犠牲のもとに立つ。
その崇高たる自己犠牲の果てに孤独な英雄がたどり着く場所は、はたして天国なのか地獄なのか。
「そんな顔しないで」
甘く低い声で囁かれ。そっと頬を撫でられた。
多くのヴィランを屠り、同時に数えきれないほどの人々を救ってきた、傷だらけの大きな手。
わたしは静かに目を閉じた。今ならきっと、この人と唇を合わせられる。
頬を撫でていたオールマイトの右手が、すっとわたしの背に回る。
毛布越しに、ぽんぽんと背中を優しく叩かれた。まるで幼子をあやすように。
こんなやり方は、こんな優しさは望んでいなかった。
今夜はぼろ布のように、壊れてしまった玩具のように乱暴に手ひどく扱われたかった。
そう思っていたはずなのに、わたしはどうしてこんなにも安らいだ気分でいるのだろう。
本当ならば安らぎを得るべきなのは、彼のほうであるはずなのに。
オールマイトの手のぬくもりが、凍てついたわたしの心と身体を癒していく。
そうしてわたしは、いつの間にか眠りについていた。
***
「おはよう」
オールマイトは目覚めすらも爽やかだ。
ミント系菓子のCMさながらの満面の笑みを浮かべて、彼がざっとカーテンを開ける。
手招きされて窓辺に立つと、眼下にはこのホテルの売りでもある池泉回遊式の日本庭園がひろがっていた。この庭園はこんなにも美しかっただろうか。
夏の日差しを浴びた池の水面がキラキラと輝き、樹木の葉すら陽光を受けて色濃く煌めく。だがもっともまぶしく見えたのは、朝日を受けて輝くオールマイトの金色の髪だった。
ああそうだ、この人は太陽そのもののような人だった。
オールマイトが大きく腰をかがめて、指でわたしの唇にちょんと触れた。
やっとわたしも気がついた。これはきっとキスのかわりだ。
どんな時でも笑みを絶やさない、誰よりも強くて優しいひと。
わたしはこの時、自分の中で新しい恋が上書きされたことを自覚した。そして同時に思い出した。世界はこんなにも眩い光で満ちていたのだと。
だが長いこと闇の中を彷徨い続けたせいだろうか、その燦々たる煌めきが逆に不安をあおってゆく。
乾ききったわたしの瞳からは、いかなる滴も出てこない。
いつか泣ける日がくるのだろうか。その時はどうなってしまうのだろうか。
窓ガラス越しに弾ける夏の陽光を浴びながら、わたしはひとりおののいた。
2015.5.29
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