茨の蔓に囲まれた暮らしは、鬱々とした孤独な日々。
わたしはひとり待ち続ける。
とげだらけの蔓を断ち切ってくれる、そんな誰かが現れるのを。
最終話「茨の巣」
夕暮れとはいえ、この時期の陽光は全身を焼くような勢いでじりじりと照りつける。人の熱気と空調の排気とそして強い陽光とで、八月のこの街はとにかく暑い。
「絵李!」
UVケアは万全だがこれではどうにもと、容赦なく照りつける夏の日差しに閉口していたわたしのうしろで、聞き覚えのある声が響いた。
振り返った先で花のように笑んでいたのは、美しい18禁ヒーローだ。
「ミッドナイトさん」
「ちょっと、プライベートでは『睡』って呼んでっていつも言ってるじゃない」
「ここ、まだ学校だけど?」
「細かいこと言わないの。もう終業時間だからいいのよ。ところで今夜、暇?」
「ええ……まあ……たぶん……」
今夜あたりオールマイトから連絡があるかもしれないと思っていたので、返事が煮え切らなくなった。勘のいいひとなのにと後悔したがもう遅い。
「なによー。歯切れ悪いわね。もしかして彼氏でもできた?」
「まさか」
「じゃあいいじゃない。美味しい無国籍料理の店を見つけたのよ」
もちろん断れようはずもない。わたしは睡に引きずられるようにしながら、校門を後にした。
***
ミッドナイトに連れて行かれた店は、確かにおしゃれでメニューも豊富だった。お酒の種類もまあまあだ。
インド更紗をふんだんに使った内装は無国籍というよりもややエスニックよりで、いかにも女性が好みそうな店構えである。見回すと男性よりも女性客、いわゆる女子会が多い。
オールマイトだったらこの店でなにをオーダーするだろうかとちらりと考え、なんてことと心の中でため息をついた。
まいった。女子会の時に男の事を考えるなど、かなりの重症だ。
「ね、月下美人はやめたの?」
ある程度食事とお酒が進んだ頃、ミッドナイトがいきなり言った。
「なんのこと?」
「先週末、ホテルのバーで見かけちゃった」
「!!」
ミッドナイトはあるホテルの名を挙げた。先週末は確かにわたしはそこにいた。もちろんエスコートはオールマイトだ。
ミッドナイトも人が悪い、見ていたのならその場で声をかけてくれればいいのに。
「あの人、お酒飲めないはずよね」
「バーの雰囲気が好きなんですって」
「念のため聞くけど、彼が誰だかわかってる?」
「ええ、我が国が誇る英雄様」
「で、どれくらいつきあってるのよ」
「別につきあっているわけじゃないわ」
「ハア? 何言ってるの? あんな大物相手に」
ギネスを一気に飲み干して、ミッドナイトは空のグラスをテーブルに置いた。
「仕事がらみでもないのに、好きでもない女と2人で出かけたりするようなひとじゃないわよ。群がる女はたくさんいるけど」
わたしから群がったわけじゃないわよと言いかけて口をつぐむ。よく考えたら、最初の夜はわたしから声をかけ、そしてベッドに誘ったのだった。
「つきあっていたひとがいないわけじゃないだろうけど、一度もスキャンダルになっていないってことは恨まれるような別れかたをしていないってことよ。女性関係もクリーンなひとだと思う」
「だからそんな関係じゃないってば」
「じゃあまだ寝てないの?」
応えに窮した。勘のいい18禁ヒーローはわかったふうに軽く微笑んで、続ける。
「あのね、月下美人は6月から秋にかけて咲く花だけど、この季節にしっかり手入れをしておけば、もう一度咲かせることができるのよ。花は食用にもなるっていうし、同じ男とは二度寝ないなんて言ってないで、そのまま美味しく食べてもらっちゃいなさいよ」
と、その時、わたしの携帯がブブブと震えた。
タイミングの悪いことに、今話題の人物からの着信だ。
無視するか出るか、短い時間逡巡し、結局わたしは出てしまう。
「今? 友達と一緒なの。ええ、また機会があったら誘ってちょうだい」
電話を切った途端、ミッドナイトにじろりと睨まれた。
「馬鹿ね、あたしのことは気にせず行きなさいよ。オールマイトさんでしょう?」
「別にいいのよ」
「ズバリ聞くけど、オールマイトさんのこと好きじゃないの?」
別に好きじゃないわと冷たく応えようとして、顔が大きく強張った。ああ、ごまかすことももうできないのか。彼の事を語ろうとしただけで頬が熱くなる。
思わず片手で顔を覆った。
「あー、もういいもういい。答えなくていいわ、ばからしい。素直になりなさいよ。ぐずぐずしてると他の女に取られちゃうわよ。その気になったら、女優どころか高貴な家柄のお嬢様方だって選び放題のひとなんだから」
「……だから……わたしとはつりあわないのよ……」
しまったと思ったがもう遅かった。
わたしの口から毀れた本音に、ミッドナイトは一瞬驚いた顔をしたが、目にもとまらぬ速さでわたしの手から携帯をもぎ取った。
一線で活躍するヒーロー様の反射神経に、一般人が勝てようはずもない。
睡は勝手になにやら打ち込み、はいとわたしに返してよこした。
なんと打ち込んだのか確認する間すらなく、オールマイトから返信が来る。ヒーローたちはやることが早い。
画面に浮かび上がったのは、ただ一言『15分で着く』それだけで。
慌てて携帯を確認すると、自身のから発信したメッセージには、恐ろしい文章が書かれていた。
『友達よりもあなたの方が大事。やっぱり会いたい、すぐ来て』
***
オールマイトが選んだのは、地下の静かなバーだった。
彼はいつものように形式だけバーボンをたのみ、わたしはミントジュレップを注文した。
オールマイトは初めて会った夜のように、スーツの上着をスツールにかけ、くつろいだ様子で静かに笑う。
チャコールグレーの生地は相も変わらず高級そうだ。おそらくイタリアあたりの高級布地をテーラーで仕立てさせたものだろう。ワイシャツの袖口に光るのはブルームーンストーンのカフリンクス。いちいちしゃれっ気のある男だと思う。
その伊達男がいつになく上機嫌なのが見て取れた。あのメッセージのせいであることは確かだ。
その話題にならないよう、先日レンタルした映画の話をした。
「あなたが言っていた映画、観たわよ『誰がために鐘はなる』」
「どうだった?」
「そうね、女優がきれいだったわ」
「それだけかい?」
アーネスト・ヘミングウェイ原作、誰がために鐘は鳴る。私が生まれるずっと前の、古い古い映画だ。ヘミングウェイ特有の男の世界。
その中で凛とした輝きを放っていたイングリット・バーグマンは、たしかに美しかった。
「私は嫌いよ」
「ええ? よくなかったかい?」
「男の美学と、それに追随する自己犠牲は好きじゃないわ」
本当にやるせない内容だった。愛する者を守るための崇高な自己犠牲。
スペイン内戦に義勇軍として参加したアメリカ人の男と、ファシストに辱められて心に深い傷を負った美しい娘との恋。そして、行かないでと泣き叫ぶ娘を置いて、男は死地へと向かう。
こんな男を好きになったら、女はたまったものではない。他人事ではなくそう思う。
この映画、オールマイトは好きだろう。見終えた瞬間そう思った。わたしは嫌い、大嫌い。
何故なら、彼もまた、この主人公と同じタイプの男であろうから。
「相変わらず辛辣だね」
「そうでもないわ」
「ところで絵李。私は期待してもいいのかい?」
「え?」
まずいと思った。
わたしたちは付かず離れずの関係を続けている。
オールマイトはわたしに気持ちを伝えているが、わたしは彼に気持ちを伝えていない。
けれどオールマイトがわたしの気持ちに気づいているのは明らかだった。わたしはオールマイトへの恋心を自覚しながら、その先に進む勇気を持てずにいる。
それは昔の出来事のせいでもあり、今の自分がオールマイトに相応しい女性であるとどうしても思えないせいでもある。
茨の茂みの中で暮らす臆病なうさぎのように、わたしは孤独ではあるが安穏とした巣から出ることができない。
変わらずわたしたちは時たま会っては酒を飲んだり食事をしたりして別れる。それでいいと自分に言い聞かせてきたのに。それを壊されるのはたまらないと思った。
わたしは本当に身勝手だ。
「さっき、お友達より私を選んでくれたろう」
「違うわ、あれは友達が勝手に返信したの。わたしとあなたはこのままの関係が気楽でいい」
オールマイトは一瞬目をまたたかせ、そうかと静かに笑みを返した。
その笑顔はどこか寂しそうに見え、失敗したとわたしは思った。傷つけるつもりはなかったのだ。
この失言を埋める言葉が見つけられぬまま、この日、わたしたちは変にぎくしゃくしたまま別れた。
***
バーでの一件以来、オールマイトからの連絡が途絶えた。
連絡先は知っているが、自分からオールマイトに連絡することはどうしてもはばかられた。
散々焦らされた彼が、とうとうわたしに愛想をつかした。そう思うのが妥当だ。当然のことだろう。
出会ってからずっと、週に2度程度の逢瀬を重ねていながら、わたしは彼の好意を突っぱね続けた。いつまでもその状態でいられると思う事自体が間違いだった。
わたしは彼を失ったのだ。その臆病さゆえに。
空調が効いているはずなのに、なぜか暑苦しさと息苦しさが消えない。
この部屋はエアポンプの壊れた水槽の中のよう。密閉された空間は酸素すら薄い。そんな気がする。
十代の頃憧れていた。大人の男性との大人の恋。
カッコよくお酒を飲んで、相手との駆け引きを楽しむ。大人になったらそんな女になれるのだと。
大人は恋なんかで不安になることはないと思っていた。それは大きな間違いだ。
人を好きになるという気持ちは、大人になってもかわらない。
反対に、愛さえあればと身一つで飛び込んで行けるのは若さ故の特権で。
年をとればとるほどひとは臆病になる。
不安や不満を表に出せなくなるからこそ、根は深くなる。大人になればなるほど、恋はこじれていく。
年齢を重ねてからの恋は熱病と同じ。若い頃と違って治りが遅い。こじらせると厄介だ。
わたしがオールマイトにしてきたのは、駆け引きなどでななく、本心を告げることができない故のただの虚勢だ。
そして最もわたしが恐れたのは、オールマイトになにかあったのではということだった。
今、学校は夏休みだ。
だが職員は仕事があるので登校している。なのに、あの大きな体をいっこうに見かけない。
ニュース等では変わらず活躍している姿を見かけるので一応無事ではあるようだが、その内情はわからない。元々自分に多大な無理を強いる人だ。
つかず離れずの中途半端な関係は、こういう時に連絡もできない。
今日もわたしは風呂場に携帯を持ち込み、ひたすら待ち続ける。
とげだらけの茨の蔓で覆われた巣の中で震えながら連絡を待つ。わたしは弱虫なうさぎだ。
わたしは幾度も眠れない夜をすごし、その都度夜明けの空の色を見つめた。
暁色から濃い青色へと変化する空、都会に空はないと言ったのはいったい誰か。ビルの隙間から見える空は、こんなに虚しくも美しいというのに。
***
セミの声がひどくうるさくきこえる。
わたしは学校の事務室の窓から空を眺めていた。空は見事なオレンジ色の夕焼け。
オールマイトと見たあの朝の日本庭園は美しかった。同じように、今日の夕焼けも美しい。わたしに世界の美しさを教えたひとは、いまなにをしているのか。
ふと下を見ると、イレイザーヘッドやブラドキングが校舎から出てくるのが見えた。明日から一年生の林間合宿だ。今年は優秀な生徒が多いそうだが、それだけに早くも種々の事件に巻き込まれている。一年生の担任はとにかく大変そうだった。
家路を急ぐ教師陣の中にひときわ背の高い男性の姿を見つけた時、わたしは自分におきた異変に気付いた。
彼は元気でいてくれたのだと安心したのは確かだ。だがでもしかし、こんなことで、本当に。
窓辺で呆然としたまま立ちつくしていると、オールマイトがこちらを見上げた。気配のようなものでわかったのだろうか。
最悪だ、目があってしまった。
まずいと思った時にはもう遅かった。人目を引く長身が校舎内へと駆け戻る。
こんな顔で会うわけにはいかない。逃げなくては。でも、いったいどこへ?
わたしが一歩踏み出すのと、マッスル状態のオールマイトがドアを開けたのが同時だった。逃げるどころか、あっという間に距離を詰められ、さすがにひるんだ。
「絵李? どうしたんだい?」
「どうでもいいじゃない、放っておいてよ」
「冗談じゃない、放ってなんかおけるものか」
「どうして?」
「だって君、泣いてるじゃないか」
オールマイトの指摘通り、わたしの瞳からは涙があふれていた。
枯れてしまったはずの涙。それが、こんな些細なことで。
「わたしが泣こうがわめこうがあなたには関係ないでしょう」
「関係ならある。私は君が好きだからだ」
「わたしはあなたに相応しくない」
「それを決めるのは君じゃなくて私だ!」
そっとわたしの両肩を支えながら彼が問う。
「君を泣かせているのは誰だ」
「あなたよ」
羞恥に耐えきれず後ろを向いた。
意地をはるのもさすがに疲れた。どうせ逃げ出すことも、ごまかしきることもできないのだ。
それにしてもなんということだろう。わたしはこの人の前に出ると、簡単に初心な女に成り下がる。
「連絡しなくてごめん」
後ろからやさしく抱きしめられた。耳元にふきこまれるその声は、低いけれども驚くほどに甘くて。
その甘さは反則だ。
だってほら、涙が止まらない。
幾重にも張り巡らせておいたはずの虚勢の蔓が、ゆるゆるとほどけてしまう。
「だからもう泣かないで。私の大事な絵李」
茨の巣から引っ張り出された臆病なうさぎは、もうなすすべもない。
愛しているよハニー、私の可愛いベイビーと続く甘い言葉に、涙はボロボロと流れてゆく。
この時、らしくもない言葉が自分の口から出てくるのを止めることができなかった。
「ねえ、どうしてぜんぜん連絡をくれなかったの?」
「エ?」
すると先ほどまで甘々だったオールマイトの声が上ずった。
ここでわたしははたと気づいた。
オールマイトは嘘をつかない。だが彼は都合の悪いことも言わない。
本来誠実であるオールマイトが、連絡をしなかった理由について語らないのが、確かにどうにも腑に落ちない。
「だれかに入れ知恵でもされた?」
「エエ?」
「押してもだめなら引いてみな、とか?」
「エエエ?」
後ろからわたしを抱きしめているオールマイトの腕が、徐々に汗ばんでいくのがわかる。あたりか。
そして彼に助言をしたと思われる美しい18禁ヒーローの顔が頭に浮かんだ。
「やられたわ」
「私も辛かったんだよ、絵李。それにいろいろと忙しかったのも事実なんだ」
「……」
「……ごめんなさい」
「許さないわ」
「ゴメン」
「その腕を離してちょうだい」
うっと一瞬息を飲んでから、オールマイトがわたしを開放した。
振り返って彼を見つめると、本当にかわいそうなくらい恐縮している。
ナンバーワンヒーローともあろうものが、真夏の夕日が容赦なく照りつける事務室で、たかが事務員の機嫌を取るために、目線を合わせて大きく屈んで。
「あの……絵李?」
「ゆるさないわよ」
わたしは黒縁の伊達眼鏡をはずしてデスクの上に置いてから、オールマイトに微笑んだ。
オールマイトの表情がほっと緩んだその瞬間、自分のウエストほどもある太い首に手を回して、その唇に口づけた。
「え? 絵李?」
オールマイトの精悍な顔が朱に染まっている。
最初の夜にあれだけ大胆な行為をしておきながら、キス一つでその顔はずるい。だがきっと、わたしも似たような顔をしていることだろう。
わたしたちは、恋をこじらせたずるい大人だ。
一呼吸おいてオールマイトが破顔した。ひょいと抱き上げられ、噛みつくように口付けられる。
「ちょっと、ここ事務室」
「大丈夫、私は気にしない。それに先にしたのは君だ」
わたしは気にする、と言おうとした唇をまたふさがれた。
先ほどまでのものとは違う、今度は深い口づけだった。うめき声が漏れる隙間すらないほどの、深く濃厚な口づけ。
ああでも、これが大人の恋の醍醐味だ。
呼吸すらも食べられてしまうのではないかというくらいの口づけと、わたしの心と体をとろかす、彼の体温。
オールマイトの胸元からは薔薇を含んだ白檀バニラが、わたしの耳元からはイランイランを含んだ白檀バニラがふわりと香る。
わたしはいまオールマイトのドルチェで、オールマイトはいまわたしのドルチェだ。
もう一度はじめてみよう。
互いが互いのドルチェになったような、甘い夜をもう一度。
今日からはじまる、甘い生活。
2015.6.7
2016.6 一部改稿
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