太陽がじりじりとわたしの肌を焼いていく。紫外線はお肌の大敵。UV対策は万全のつもりだが、お肌の曲がり角を過ぎて数年経つわたしには、強大すぎる相手だ。
残暑厳しい通りを、わたしは異様なまでに背の高い痩せた男性―オールマイト―と共に歩を進める。
オールマイトはロゴTシャツにカーゴパンツというラフないでたち。わたしは七分袖のワンピースにヒール高めの華奢なパンプス。
「暑いわねー」
「……ゴメン……」
わたしの隣でオールマイトが心底申し訳なさそうに頭をかいた。元々この買い物はオールマイトが希望したのだ。
英雄様はどうしてもわたしに贈り物をしたいらしい。昨夜もさんざんこのことについて言い合った。
「嫌な思い出があるから指輪はいらないわ」
「そんなこと言わないで、せめて誕生石のリングを買わせてくれよ。パールならいいだろう?」
「どうしてリングじゃなきゃだめなの? それにパールだってソリティアのリングなんて普段使いできないわ。ネックレスやペンダントの方が使いやすいと思うんだけど」
「私が贈った指輪を君につけてほしいんだよ」
「……じゃあ気に入ったデザインのものがあったら、でもいい?」
「もちろんさ!」
あの満面の笑みを思い出すとつい笑ってしまう。この世を支える英雄様が自分の言葉で一喜一憂するのだから、嬉しくならない方がどうかしている。
真珠で有名なその宝石店は、眩いくらいの白で統一されたつくりだった。わたしは少し気おくれしたが、オールマイトはお構いなしでどんどん店内に入っていく。
わたしにはかつて、新婚旅行の帰りに夫となるはずの人に逃げられた苦い思い出があった。入籍前だったのが不幸中の幸いだった。
あの後、手元に残ったエンゲージリングは二束三文で売ってしまった。二度と見たくなかったからだ。だからソリティア……一粒石のリングは、もういらないと思っていた。
「ねえ、指輪とセットでこれはどう?」
オールマイトがショーケースの中を指差している。どれと近寄って眺めると、黒蝶真珠とアレキサンドライトがふんだんにあしらわれたネックレスだった。
ハリウッド女優がレッドカーペットの上で身につけるようなハイジュエリー。値段は畏れ多くも八ケタだ。
何を考えてるんだろう、この人は。こんな高価で派手なもの、どこにつけていけばいいのか。
しかもメインの宝石に、嫌な思い出がある。
クリソベリルの変種であるアレキサンドライトは、太陽光の元では緑であるにもかかわらずろうそくや白熱灯の下では赤い色に変わる、不思議で高価な宝石だ。
オールマイトが平和の象徴なら、状況下で色が変わるアレキサンドライトは、わたしにとって心変わりの象徴だった。
エンゲージリング=ダイヤモンドと思い込んでいるであろうオールマイトは知らないことだが、かつてのわたしが所有していた婚約指輪がアレキサンドライトキャッツアイだったのだ。
これはわざわざ言うほどのことでもないので、黙っていることにするけれど。
店内の宝石は、さすが老舗店と讃えたくなるような品揃えだった。
一番の売りであるパールはなおのことだが、ピジョンブラッドのルビーや、コーンフラワーブルーのサファイヤの輝きもすばらしい。
元々ルビーとサファイアは同じコランダムという鉱物だ。赤いものがルビーと呼ばれ、他の色がサファイアと呼ばれる。よって青いルビーは存在しない。
定番の青の他にも、ピンク、紫とさまざまな色のサファイアがあるが、最も価値が高いのが、ピンクがかったオレンジ色をしたパパラチアサファイアだ。
これをエンゲージリングにした女が知人にいる。目の当たりにしたことはないが、噂に聞いたことがあった。暗いもやもやが心の中に広がってゆく。
せっかくの買い物なのに、嫌な事ばかり思い出してしまう。困ったことだ。
ほの暗い気持ちになったので、オールマイトの腕を引いた。
痩せ細った英雄様は、黒く陰った眼窩の奥の眼を嬉しげにまたたかせる。こういう時のこの人は本当に可愛い。
この世を支えるヒーローが見せる素の顔。わたしはそれを確かめるのが好きだ。オールマイトの真実の顔、それを知っているのはわたしだけ。
「最初の予定通りパールがいいわ。せっかくここに来たんだし」
わかったとオールマイトが立ち上がり、男性の店員に何かを見せて低く耳打ちした。
すると今までも充分丁寧な対応だった店員の態度が、まるで王族にするかのような恭しいものに変わった。
どうぞこちらへと促された先は、毛足の長い絨毯が敷かれた部屋だ。そこにはふかふかのソファと天然大理石のテーブルがどんと置かれている。
これはいわゆるVIP扱い。そこで香りの高いコーヒーが供され待つこと数分。
やがて店員が大仰な宝石ケースをいくつか手にして現れた。
ケースの中に納まっていたのは素晴らしい品の数々だった。素人のわたしでもわかる、巻きが厚くて照りも見事なパールばかり。
そして三つ目の箱の中にわたしの心をとらえたデザインのリングがあった。
燦然と輝くゴールデンパール。
オールマイトの髪と同じ色の美しい真珠。人魚姫の涙のしずくもかくやと思われる、控えめだが美しい輝き。
ゴールデンパールを挟み込むような形で留めているのは、四本の帯状のプラチナだ。その中には小粒のダイヤモンドが列をなしてはめ込まれている。
だが気になることに、値札がついていない。プラチナ部分に埋め込まれたダイヤの数とゴールデンパールの価値を考えると、たいへんな値段になるような気がする。
絶対にこれはファッションリングの類ではない。エンゲージどころかハイジュエリーと呼んでもおかしくないクオリティだ。
これはちょっと高価すぎるとため息をついた瞬間、落ち着いた低音がささやく。
「つけてみたら?」
こういう時のオールマイトは非常に目ざとい、わたしがこの指輪を気に入ったのを見抜いたのだろう。
嫌よと言うのも変なので、促されるまま薬指にはめてもらう。よくないことにぴったりだ。
「似合うね」
「……」
オールマイトの髪と同じ色に輝くパールと、それを際立たせるように配置された小さなダイヤモンド。
小さいがダイヤモンド一つ一つの輝きもみごとなものだ。それなりに高いグレードのものだろう。
控えめな輝きを放つ指輪と、それがはまった自分の手をうっとり眺めていたら、店員が声をかけてきた。
「これには揃いのペンダントもございますが、よろしければお出ししましょうか」
「いいね、それも持ってきてもらえるかい?」
余計なことをと思ったがもう遅い、待ってと制止する声はもちろん英雄様には届かない。
わたしは指輪と同じ流麗なデザインのペンダントを胸元にあてられ、いいねと頷くオールマイトによって端正な作りのペンダントと指輪の持ち主になる事が決定してしまったのだった。
支払いの段になって双方の価格を目にしたわたしがひっくり返りそうになっていると、オールマイトがしずかに微笑んで、チタン製のカードを取り出した。
さすがオールマイト。アメリカ最大大手カード会社のセンチュエリオンカード……人呼んでブラックカードを所有していたとは恐れ入る。
ブラックカードには上限金額が定められていない。もちろんそれを手にするためには、厳しい審査とバカみたいな値段の年会費が必要とされるのだが、このカードが一枚あれば世界中のどこででもVIP待遇を受けられるという。
「いい買い物ができて良かったね」
オールマイトはご機嫌だ。
今日の買い物の総額を人に聞かれても、わたしは答えることができない。一公務員のわたしが身につけている指輪とペンダントの価格が欧州製の小型車一台に匹敵するだなんて、いったい誰が思うだろうか。
***
「絵李?」
交差点に差し掛かったとき、唐突に後ろから声をかけられた。
同時に漂う、むせ返るような薔薇の香り。この香りはナエマだ。
振り返った先に立っていたのは、予想通り派手な顔立ちをした巻き髪の女だった。美しく華やかなはずの彼女の顔が、この時、どこか歪んでいるように見えわたしは少しとまどった。
エミリオプッチのワンピースを身にまとい、手にはシャネルのマトラッセ。時計はカルティエのパシャ。足元はおそらくルブタンだろう、靴底の赤がちらりと見えた。
完璧なまでのハイブランド武装、彼女は昔からそうだった。
その左手薬指に輝いているのは、おそらくは結婚指輪であろうダイヤモンドのフルエタニティと、見事なパパラチアサファイアのソリティアリングだ。
ピンクがかったオレンジ色のリングは、華やかな彼女にとてもよく似合っていた。
「久しぶり」
驚くくらい穏やかな声で返答した自分に驚いた。
彼女はわたしの婚約者を奪った女だというのに、二か月ほど前に会った時はあんなに身体が震えたのに、こんなにも平然としていられるなんて。
わたしの変化に彼女も気づいたようすだった。
「元気そうね」
「ええ」
嫣然とオールマイトに会釈してから、彼女がわたしの手元を眺めた。相変わらず目ざとい。
だがそれも彼女の夫の職業からすると当然かもしれない。彼女の夫、つまりわたしの元婚約者はこの街で宝石商を営んでいるのだから。
「ねえ絵李、それゴールドパールじゃない? エンゲージリング?」
「まさか」
「私はそのつもりなんですが、なかなか絵李が承諾してくれなくてね」
急に会話に割って入ってきたオールマイトの言葉に、わたしはひどく動揺した。
「ちょ……何言ってるのよ」
「アレ、言ってなかった? 私は最初からそのつもりだよ」
わたしたちの会話にあきれた様子で、彼女が冷たく言い捨てる。
「また新婚旅行の帰りに捨てられるようなことがないといいわね」
隣にいたオールマイトがピクリと反応した。女性相手に手を上げたり声を荒らげたりするひとではないと思うが、あまり歓迎できる雰囲気ではない。
「ねえ、もういいよ」
わたしの声に、彼女の顔がひきつった。わたしは畳みかけるように続ける。
「わたしはあなたたちのこと、もうなんとも思っていない。だからもういい、もういいのよ」
ひきつったまま彼女はわたしを凝視している。ああやっぱりとわたしは思う。彼女がわたしに接触したがるのは、そういうわけだったのか。
「あなたのこと、もう恨んでない。わたし、今、幸せだから」
端正な彼女の顔が大きく歪んだ。
かわいそうに。彼女もまたこの五年間ずっと苦しんできたのだ。
わかっていた。彼女がわたしにずっと罪悪感を抱いていたことは。
7歳から25歳までの18年間を親友として共に過ごしたのだ。彼女の気持ちがわからないわけがない。
わたしは二人を責めなかった。ただの一言も。
おそらく彼は、わたしが広い心で許したとでも思っていたことだろう。そういう人だ。何事も自分の都合のいいように解釈できる、苦労知らずのお坊ちゃま。
だからこそ、彼は親友である女二人を天秤にかけることができたのだ。
許したなどと、それは大きな間違いだ。
わたしが彼らを責めなかったのは、許せなかったからだ。
婚約者の親友に手を出した男と、親友の婚約者を奪った女、その双方が許せなかった。
彼女は理解していただろう。わたしの本当の気持ちを。
そして常に女王然として振る舞ってきたが、根はやさしいひとだ。その彼女が親友であったわたしの婚約者を奪って、平気でいられるわけがなかった。
彼女はわたしに責められたかったのだ。わたしはそれをわかっていて、あえて彼女を責めなかった。
無言の復讐。それがどれだけ彼女を苦しめていたか、今のわたしにはよくわかる。
確認したことはないが、彼女はずっと彼のことが好きだったのだと思う。
わたしは大学時代からそれに気づいていた。気づいていてなお、わたしは彼と付き合った。
たとえ親友であっても、こればかりは譲れなかった。
同じように、彼女も彼を欲したのだ。そして彼がそれに応えた。いや、もしかしたら彼が彼女を誘ったのかもしれない。それは今となってはどうでもいいことだ。
いずれにせよ、譲り合うことができるような恋はもはや恋ではないのだ。
法的には婚約不履行で慰謝料が成立するような案件だ。だが法的なことはどうあれ、恋愛は結局のところ愛されなかった方が負け。この場合、選ばれなかったわたしの負けだ。
そしてあの恋に破れたから、最高の男が今、わたしの隣にいる。
これ以上の幸福があるだろうか。
けれど恨みは失せても、もう昔のように付き合うことはできない。
「だからお互いに関わるのはやめましょう。ごめんなさい。わたしたちもう行くわね」
おそらく涙を浮かべているだろう彼女にそう言い残して、わたしは踵をかえした。そしてオールマイトの細いがしっかりした腕に、自分のそれをからませる。
大丈夫?とオールマイトはわたしを思いやる。
あなたに会えてよかったわと、わたしは質問とは違う答えを返す。
オールマイトがそれに心からの笑みで応じる。
わたしたちは互いに微笑みあいながら、地下鉄の階段をおりてゆく。
ふと思う。かつて彼がそうしたように、この人がわたしを捨てる日が来るのだろうか?
ううんと、わたしはひとり首を振る。
きっとオールマイトは、わたしのベッドから他の女のベッドへと渡り歩くような真似はしないだろう。
心変わりしたならば、わたしにきちんとそれを告げ、別れてから次の女性に行くだろう。オールマイトはそういうひとだ。
地下鉄の階段をおり切って、わたしが彼にたずねる。
「今日の夕飯はどうする? たまにはわたしが何か作りましょうか?」
「手料理を食べさせてくれるのかい?」
「イタリアンでいいかしら? サルティンボッカなんてどう?」
「いいね。じゃあ君がメインを作っている間に、私はドルチェを担当させてもらおうかな。ティラミスは好きかい?」
ねえと声をかけると、ん?と背の高いオールマイトが身をかがめる。それでもいくばくかの身長差があるわたしたちだ。だから精いっぱい背伸びをして、その耳元で小さく囁く。
「ティラミスも好きだけど、あなたのほうがもっと好き」
ぼふんと音がしそうなほどの勢いで、オールマイトの顔が朱に染まる。
この人は自分からは大胆なことをするくせに、こちらから迫ると意外に弱い。可愛いひとなのだ、本当に。
「絵李」
常よりやや低い声でオールマイトがわたしを呼んだ。わたしは再び彼を見上げる。
「さっき言ったこと、私はそういうつもりでいるから、考えてもらえるかな。返事は急がないから」
「……ええ……ありがとう」
これ以上ない満ち足りた気持ちで、細い腕に頬を寄せた。
わたしの左手薬指には、オールマイトの髪と同じ色の真珠が輝いている。
わたしの隣に立っているのは、青い瞳の愛しいひと。
誰よりも強くて優しくて可愛い、わたしの大事なテゾーロだ。
2015.7.3
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