今日も暑かったなと汗でべたつく前髪をかきあげたところを、美しい女性に呼び止められた。
彼女はヒーローとしてオンの時は官能的なヒーロースーツに身を包んでいるが、オフのときは露出が少ない。夏休みで生徒が少ない今日は、ロングスカートに半そでのブラウスというかなり保守的ないでたちだ。
なにか言いたいことでもあるのだろうか。にこにこ……いや、にやにやしながらミッドナイトこと香山くんが私を見上げている。
嫌な予感がした。
実のところ、今の私は落ち込んでいる。
もう二か月近く口説き続けている女性、絵李がなかなかこの手に落ちてくれない。関係がなかなか進展しないのだ。
完全に脈がないなら諦めもするが、そうでもないと思わせるような節もある。まったくもって中途半端な状態だった。
昨夜も『このままつかず離れずの仲でいたいのよ』とはっきりすっぱり言われてしまった。仲を深めていきたいのに、そうするには少々厄介な関係に陥ってしまっていると思う。
こんな時は、軽いジャブ程度の言葉でもひどく心に刺さるものなのだ。
整った顔に意味ありげな笑みを浮かべて香山くんが口をひらいた。
「オールマイトさんも男だったんですね」
「ナニソレ、女に見えてたの?」
「そうじゃないですけど、オールマイトさんでもワンナイトラブアフェア―なんてするんですね」
ジャブどころかいきなり強烈なストレートをくらった。このダメージはけっこうデカい。口から鮮血が飛び出した。
「何を言っているのか意味がわからないよ?」
「彼女手ごわいでしょう。月下美人だから」
「月下美人? なんだい、ソレ」
「たった一夜しか咲かない花です。同じ男性とは二度寝ないある女性を、あたしがそう命名しました」
うう、と思わず声が出た。
いったいどこまで知っているのだろうか。
そういえば絵李と香山くんは年齢が近い。しかも絵李はオンが地味でオフが派手、香山くんはその逆だ。二面性のあるこの二人、仲が良くてもおかしくはない。
私は観念することにした。
「まあね、これだけつれなくされるとさすがに落ち込むよ。もう潮時かもな」
「何言ってるんです。本当にその気がなかったら、二人きりで会ったりなんかしませんよ」
「なんでそう言い切れるんだい?」
「絵李とはそれなりに仲がいいつもりでいるんで」
「あ……そう」
少し沈黙があり、香山くんが上目づかいでわたしを見てにやりと笑う。私服は地味だが、こういう表情をさせるとやっぱり18禁ヒーローだと思う。ミステリアスで色っぽい。
しかし嫌な予感がするな。こういう時は悪いが相手にしないことに限る。女性はいろいろ面倒だ。
じゃあねと踵を返した瞬間、背後から笑いを含んだ声が追いかけてきた。
「あー、今夜は高級フレンチが食べたいわー」
「は?」
唐突な言葉に反射的に振り返ってしまった。これでは相手の思うつぼだ。
「わたし、月下美人の落とし方わかるんだけどなー。女心は女に聞け、ですよ」
相手はどこまでもこちらの弱いところをついてくる。
こうなったら白旗を上げるしかない。
フレンチくらいで絵李とうまくいくのなら、安いものだ。
心当たりのあるレストランを頭の中で検索しつつ、私は香山くんに微笑みかけた。
***
この日選択したのは、公園通りに面した高級フレンチだ。
英国風レンガ造りの洋館で、予約したのは二階のメインダイニングに続く個室のバロックルーム。
英国アンティークの調度品に囲まれて楽しむ、眼にも舌にも美味しい料理。これなら文句はないだろう。
「うわぁ、素敵ですね。絵李ともここに来ましたか?」
「ノーコメント」
「じゃあ最初の夜はどこのホテルに行ったんですか? ラブホじゃないですよね」
「それもノーコメント」
とんでもないところに突っ込んでこられたので、メニューに集中しているふりをして応える。
興味本位でそこまで聞くか。まったく女性は恐ろしい。
だがこの18禁ヒーロー、実は男女の仲には保守的で、初心だというのも知っている。
ギャルソンがオーダ-を取りに来たので、お互いアラカルトで好きな料理を頼んだ。
ワインを注文しようとした私の声を、香山くんが遮る。
「シャトーマルゴーの1987年を」
おい、ちょっと待ってくれ。マルゴーの1987年ものがいくらするか知っているのか?
ああ、その顔は知ってる顔か。あー、もう。
予想外の出費だが、ロマネコンティにされなかっただけ幸運だったと思うしかない。
運ばれてきた料理と上等のワインを楽しみつつ、香山くんが口を開く。
「オールマイトさんって振られたことないでしょう?」
「ム……」
「口説いて振り向かなかった女なんていなかったでしょ?」
「ムム……」
「だから口説くのも押すことしかしてないでしょう?」
「ムムム……」
全て言い当てられた。やっぱり女性は怖い。
「たぶんね、押しすぎなんじゃないかと思うんですよ」
「押しすぎ?」
「そう、何度も会っているってことは、向こうもその気はあるんですよ。でも決定打がない」
「ん……ソコは否定しない」
「だからね、押してもだめなら引いてみなってやつですよ」
「ナニソレ」
「ちょっと連絡取るのをやめてみたらどうですか」
「どうして?」
正直、そんな駆け引きは好きじゃないと思った。
けれどそんなものなのか。恋愛は直球ばかりではうまくいかないと言われるのは、そういうことなのか。
「散々口説いてきた人からの連絡がパタッと途絶えたら、女は不安になるものですよ」
「……絵李を不安にさせるような真似はしたくないな……」
「じゃあずっとこのままつかず離れずでもいいんですか?」
「それもイヤダ」
「絵李ね、オールマイトさんのこと好きだと思いますよ」
「……(マジか)……」
「とりあえず今日からしばらく連絡を取らないでみてください。そうすればあっちから連絡してくると思います」
「してこなかったらどうすればいいんだい?」
「してきます、絶対」
ホントかよと心の中で呟いた。
しかしいずれにせよ、これから八月末までは予定がぎっしり詰まっている。
学校が休みのうちに、スポンサーがらみの仕事を片付けなくてはならない。
マッスルフォームでいられる時間がかなり短くなってしまったの今の状態では、長期休暇の時くらいしかそういった仕事をこなせそうになかった。
その上で教師としての業務や勉強会や研修がのしかかってくる。
新米教師である私には、学ばなくてはならないことがたくさんあるのだ。
今月は絵李に会えたとしても、本当に短い時間しか取れそうにない。
たまには変化球も投げてみるか。
***
「わたしを泣かせているのはあなたよ」
震えるその声に思わず身体が動いていた。夕日が照りつける事務室で、愛しい絵李を抱きしめる。
月下美人ここに陥落せり。
さすがだよ、香山くん! 若い同僚を心の中で褒め称えた。シャトーマルゴーは無駄ではなかった。
嬉しさに次から次へと愛の言葉が溢れ出る。その声は、自分でもどうかと思うほど甘かった。
だが次に絵李の口から出た質問に、全身からどっと嫌な汗が噴き出した。
「ねえ、どうしてずっと連絡をくれなかったの?」
「エ?」
まずい、声が裏返った。私は嘘がつけない。ごまかすのもあまりうまくない。
「だれかに入れ知恵でもされた?」
「エエ?」
「押してもだめなら引いてみな、とか?」
「エエエ?」
ああ、もうだめだ。
絵李の声がどんどん冷えていくのがわかる。
「……ごめんなさい」
「許さないわ」
「ゴメン」
「その腕を離してちょうだい」
どんな強い敵にもひるんだことなどないと自負する私だ。しかしこの時は心底ひるんだ。
でも悪いのは確かに私なのだ。
ああ、もうだめか。そう心の中で嘆息した時、絵李がいきなり私に口づけた。
絵李はキスができなかったはずだ。
身体は簡単に許すくせに、唇だけは大事にしていた。
この行為が何を意味するのかわからないほど私は子供ではない。
唇が離れてから絵李を見下ろすと、清々しいほどの微笑みを返された。
負けじと彼女をひょいと抱き上げ、貪るように口付ける。
「ちょっと、ここ事務室」
「大丈夫、私は気にしない。それに先にしたのは君だ」
そう言い捨ててもう一度唇を合わせた。
舌を絡ませ歯茎をなぞって、呼吸すらも奪い尽くすような激しい口づけを交わす。
このまま食べてしまいたいくらい、君が愛しい。
今日はこのまま私の家に連れ帰るからね。
抱きつぶしてしまうかもしれないけど、そこは容赦してくれよ。
唇を離して、絵李の頬を撫でながら見つめあう。絵李の瞳に私の姿が映っている。
「オールマイト」
「なんだい?」
「あなたは私の美味しいドルチェよ」
甘く忍び込むような声に、自分が溶けかかった生クリームになったような気がした。
かつて「デザートは君だよ」と囁くのは男の側のはずだった。
けれど今は、私が君のデザートなのか。まいったな。
だったら互いにもっと溶け合って、どろどろのジェラートにでもしてくれよ。
やっぱりどんなに策を弄そうと、私は絵李には勝てないのかもしれない。
2015.7.4
※マイトとミッドナイトによる作戦会議とその結果。最終話と内容が一部かぶっています。
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