よくある、蒸し暑い七月の夕暮れ。
「おまたせ」
「うん、君は本当に和装が似合うよね」
オールマイトの言葉通り、今日の梨央は気軽な浴衣姿だ。これが実家であったなら、浴衣などこんな日の高いうちから外に着ていくものではないと、たしなめられたことだろう。
元々浴衣は、湯帷子と呼ばれる沐浴中に着る物だ。その後も長らく、湯上り着、寝間着、家着として扱われてきた。けれど最近は、しきたりの多い家に縛られた厳格なひとでもない限り、そういう事に目くじらを立てたりはしない。
それでいい、と梨央は思う。うるさいことを言いすぎるから、着物の文化が廃れていくのだ。
うんちくはどうあれ、梨央が今日身につけているのは、この日――七夕――のために仕立てた綿紅梅の浴衣だった。爽やかな浅葱色の地に白い細縞が入ったもので、合わせた帯はからし色。帯結びは矢の字にし、生成りの帯締めでとめてみた。
オールマイトも浴衣姿だ。布地の色は錆利休茶。緑がかった薄い茶色は、オールマイトの金色の髪によく映える。それに黒檀の角帯をきりりとしめた。
アメリカンな外見でありながら、思いのほか、オールマイトは和装が似合う。
ただし身幅を痩せた体に合わせたため、マッスルになると前が大きくはだけるか、下手をすると浴衣そのものが破れてしまう。できれば今日は、事件が起こらないでいてくれるとありがたい。
「あついねぇ」
「ええ。本当に」
蒸し暑い薄曇りの街に出たのは、家からそう遠くない場所にある公園で、七夕フェアが行われているからだ。
「あら……」
公園の入り口に梶の木が植えられていることに、梨央は気づいた。
根元に落ちていた、一枚の葉。梨央はそれをこっそり拾い、袂の中に忍ばせた。
「どうかした?」
「なんでもないわ」
答えたその顔を、オールマイトがじっと見つめた。なにとたずねる前に、長い指が梨央の頬にかかっていた前髪を、優しい仕草でかきあげる。
そのやわらかい触れ方に、夕べの情熱の残り火が、ふたたび燃え上がった。
最近、オールマイトに触れられただけで身体が熱くなることがある。夜毎穿たれる、彼の楔。それを思い出すだけで、身体の奥が疼いてしまう。
自分がこんなふうになるなんて、数か月前までは思いもしないことだった。
身体の深いところに生じた欲、それを隣で歩く人に気づかれないようにしながら、芝生広場に向かって歩をすすめた。
***
公園の広場はたくさんの人でにぎわっていた。大きな笹竹が、何本も立てかけられている。おのおのの願い事を書いた短冊を飾る、幸せそうなファミリーやカップルたち。
「私たちもやろうか」
「ええ」
梨央もオールマイトも係の人に短冊をもらい、ともに筆をはしらせる。
「何を願ったの?」
「内緒です。あなたは?」
「君が教えてくれないのなら、私も内緒だ」
梨央の質問に、オールマイトがウインクを返す。けれど聞かなくてもわかる。きっと彼は、この世の平和を願っただろう。
係の人の手によって無事に短冊が飾られたのを確認し、しっかりとした指に自分のそれをそっと絡めた。このあとどうすると問うまでもなく、ふたりの足は花時計の方向へと向かっていく。この日ばかりは花時計の向こう側にある広場に、屋台の設営が許されるから。
ただようアメリカンドッグやお好み焼きの香りが、食欲をそそる。
「何が食べたい?」
「わたしはたこ焼きが好き」
耳元での囁きに、小さくそう答えた。
その時、振りの中でかさりと小さな音がした。先ほど忍ばせた梶の葉だ。
梶は古代から神木として尊ばれ、その葉は神事の際にも使用されていたという。いにしえには七夕かざりの短冊としても使われていた、神々に捧げる神聖な葉。
梨央は袂から梶をとりだし、心の底で密かに願った。
愛するこの人が、ずっと安らかな気持ちでいられますように。
また来年も、ここに一緒に来られますように。
一日でも長く、この人と共にいられますように。
どうか……どうか――。
空に輝く星々に、天帝のおわす天上に、神に捧げる梶の葉に、梨央は願う。
愛するひとの無事を、ただひたすらに。
2015.07.06
年齢制限のあるこちらの続き「揺り籠の中の小さな死」をPrivatterに掲載しています。
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