天竺牡丹がひらく夜

 豪農の屋敷を改造した割烹料理屋での食事は、オールマイトの誕生日を祝うに相応しい、洗練されたものだった。
 梨央がオールマイトと初めて一緒に食事をした、あの料理屋だ。

 だがいまの梨央の脳裏に蘇るのは、茶室を改築した個室から見える庭にひっそりと咲いていた、天竺牡丹の朱い花。
 灰色の雨が降りしきる中で、やや黄味がかった鮮やかな赤い花弁が灯篭の灯に照らされる姿は、妖艶なまでの美しさだった。

 しとしとと纏わりつくような霧雨の降る夜だったが、梨央はオールマイトのたっての希望で和服を着ている。茄子紺の飛び柄小紋に、白鼠の名古屋帯。帯揚げはごく淡い砂色にして、帯締めを振りから覗く襦袢と同じ色でそろえた。
 オールマイトはあんなにアメリカンなのに、梨央が和服を着ると、ことのほか喜ぶ。

「露出している部分が最低限っていうのも、そそるんだよね」

 帰りのハイヤーの中で、オールマイトが静かに笑んだ。彼の低音は心地よかったが、湿気のためにうなじにはりついていた後れ毛が、少し不快だった。だがオールマイトは、それがセクシーだという。
 男のひとの感性は、女にはわからない。

「ね、梨央。今日は私の誕生日だからわがままをきいてもらえるかい?」

 帰宅した途端、雨ゴートを脱ぐ梨央の耳元に唇を寄せ、オールマイトが囁いた。
 この人は、時々あり得ないくらい可愛くなるから困るのだ、と、梨央は思う。

「今夜はその長襦袢っていうの? それ一枚でいてくれないかな」

 長襦袢は袖口や裾から見えてしまうものでもあるが、下着の一種。それ一枚でいてと望まれることは、洋装でいうベビードールやキャミソール一枚でいるようにと言われるのに近い。
 後ろから梨央の肩を抱いてうなじに唇を落としながら、いいだろう、と、低い声が甘くねだる。耳元で響く低音にぞくりとしながら、梨央は帯締めを緩めた。

「ここで脱いでくれるのかい?」
「まさか」

 オールマイトが少し残念そうに、肩をすくめた。それにそっと微笑みを返し、梨央は自室へと向かう。
 色気があるようで、長着の中身はそう素敵なものでもない。
 茄子紺の単衣の長着をするりと肩から降ろし、無地の長襦袢姿になった。その下には肌襦袢と裾除け、補正のタオルが数枚と、胸をつぶす和装ブラ。正直、麗しい姿とはいいがたい。

 オールマイトにとって補正具は邪魔でしかないだろうと思い、いったんすべて外してから、素肌に長襦袢を羽織った。正絹特有のひんやりとして滑らかな肌触りが心地よい。
 紐はせず、大きく襟を抜いて伊達締めのみで襦袢を着つける。どうしようと少し迷って、足袋は履いたままにした。

***

 長襦袢一枚で彼の元に行くと、オールマイトは上着だけを脱ぎ、ソファの上でくつろいでいた。
 ローテーブルの上に用意された、江戸切子の冷酒杯と冷酒用徳利。
 自身の誕生日だというのにまめなことだ。しかも彼は、ほとんど飲酒をしないというのに。本当にサービス精神旺盛なひとだと思う。

 「寒くない?」とオールマイトが問い、「寒くはないわ」と梨央が答える。

 七宝と星紋が見事な技術で刻まれた、赤と青の冷酒杯。
 オールマイトは自身の瞳と同じ色の杯を、梨央は自身の襦袢と同色の物を手に取った。形だけ盃に唇をつけて、オールマイトはそれをテーブルに戻す。
 小さな硝子の杯を操っていた、大きな手。彼の手はとてもセクシーだ。だが、オールマイトはこちらの色香には敏感なくせに、自分の色気には気づかない。

「やっぱりいいね。その格好」
「そう?」
「うん」

 梨央は知っている。
 オールマイトは、柔らかくはんなりとした色柄の物を梨央に着せたがることを。
 長着は、きりっとした紬より、優しいやわらかものがお好みなことを。
 襦袢は、花の織柄の入った薄紅色の一枚と、薄藤色のものが好きなことも。
 逆に鳥獣戯画や達磨が描かれた物は、お気に召さないことも。
 そして、この緋色の長襦袢は特別。

 あの料亭の庭に咲いていた天竺牡丹と同じ色をしたこの襦袢は、彼の色欲のスイッチを押す。
 梨央はそれらを知っている。

 オールマイトが肉のない顎を軽く上に向け、右手でネクタイを緩めた。
 男のひとのネクタイを緩めるしぐさが好き。大きな手に浮かぶ筋が好き。
 ネクタイが外れたことを確認し、梨央は彼のワイシャツのボタンを二つはずして、そっと鎖骨に口づけた。
 彫りの深いオールマイトの眼元が、ほんのり朱に染まっている。きっとこちらの頬も、同じ色に染まっていることだろう。
 オールマイトは梨央に欲情しているが、梨央も彼に欲情している。

 ふいに、オールマイトの左手が梨央の腰に回った。挑発するように、彼を見上げる。伊達締めにかけられた、大きな右手。それを制して、梨央は微笑む。
 動きを制されて不満げなオールマイトが、梨央の髪から簪を引き抜いた。長い黒髪が、はらりと襦袢の肩に落ちた。自らが落とした黒髪をかきあげる、ごつごつした指。そうして、彼は梨央のうなじに口づける。
 梨央はオールマイトのシャツのボタンを、また一つ、二つとはずしていく。

「脱いでこなかったの?」
「え?」
「これ」

 彼が足袋を指差し、梨央の足を持ち高く掲げた。
 オールマイトは時々こんな意地悪をする。襦袢の裾が大きくはだけ、脚が太腿まであらわになった。眼だけで笑んで、彼はゆっくりとした動作で足袋のこはぜをはずし、素足の甲に口づける。
 指にも優しいキスを落とされて、思わず小さな声が出た。満足そうにオールマイトが微笑み、反対の足も同じように素足にされる。

 纏わりつくような霧雨の降る夜。
 天竺牡丹のような緋色の長襦袢の襟が、裾が、また乱れる。
 花びらがひらくように襦袢の袖が床に落ち、天竺牡丹が今宵咲く。

2015.5.16

2015年オールマイト生誕祭に提出したお話

- 8 -
prev / next

戻る
月とうさぎ