幸福論

「素晴らしかったわね」

 桃の香りの紅茶を飲んでいた梨央が、今さっきまで眺めていたアールヌーボー絵画展の感想を、ぽつりと漏らした。愛情のこもったまなざしを、こちらに向けて。
 ガラス張りのウォールの向こうで輝いているのは、暴力的なまでの夏の太陽。
 外は実に暑そうだ、と心の中で呟いてから、梨央にいらえる。

「そうだな。まさに圧巻の一言に尽きる」

 絵画展の目玉は巨大なカンバスに描かれた民族の姿だ。叙事詩と名付けられた、二十の作品。
 正直な話、圧倒された。
 どれほど強い敵と対峙しても怯んだことなど一度もないと自負しているが、芸術や自然に対する畏敬の念は、それとはまったく別物だった。

「でも、君がああいったダイナミックな絵が好きだとは知らなかったよ。どちらかというと、叙事詩の後に続いた、女性や花の絵の方が君っぽい」
「そうね。この画家を好きになったきっかけはそっちよ」
「あ。やっぱり。花や星と共に描き出されたたおやかな女性像は、君のイメージにぴったりだ」
「ありがとう。あなたはどの絵が一番お気に召したの? もちろん叙事詩のほうよ」
「一つにしぼるのは難しいんだけど……あれかな」

 と、焼き払われた街を描いた作品の名を告げた。

 描かれていたのは、犠牲になった人々の骸と、抑えきれない怒りに拳を振り上げる少年。その拳を受け止めた思想家が、悪意に悪意をもって報いてはならないと少年に説く。

「……意外」
「そうかい?」
「ああ、でも……そうね。復讐はなにも生まないと説くのも、ヒーローのお仕事でもあるわね」
「そうだね。でもそれだけじゃない。あの絵の中の少年は、かつての私にすこし似ているんだよ」
「あなたに?」
「ああ。大切なひとを亡くした時に、ああいった気持ちになったことが、一度だけある」

 あれはお師匠を失った頃の、自分とグラントリノの姿だ。復讐心と怒りに己を見失いかけていた少年時代の自分に、ヒーローは何があっても私情で動いてはいけないと、グラントリノは教えてくれた。
 もっともあの方は、画面の中に思想家のように優しくはなく、鉄拳をもってそれを説いてくれたのだったが。

「……その方はあなたにとって、とても大切なひとだったんですね」
「そうだね。そのひとは私を導いてくれた恩人であり、母のようでもあり、そして同時に……」

 言いかけて、口をつぐんだ。少し語りすぎてしまったようだ。
 あれが恋慕であったのか、それとも師への尊敬や敬愛であったのか。オールマイトにもわからない。けれど、あの淡く切ない気持ちは、少年時代の夢と共に、心の奥底にしまっておきたい。

「同時に?」
「……神聖な存在……かな」
「ふうん」
「君は?」

 自分でもいささかずるいなと思いながら、梨央に問うた。

「わたしは、最後の絵かしらね」

 やはり、と、オールマイトは心の中で頷いた。なぜなら梨央は、その絵の前からしばらく動かなかったからだ。

「あの中央に描かれていた若者がね、わたしの初恋のひとに似ているんです」
「……なんだい、それ。初耳だな」

 つい、不機嫌な声が出た。
 ふふ、と梨央が小さく笑った。からかうような視線に、心の中で苦笑する。
 先ほどの話に含まれた微妙なニュアンスに、聡い梨央が気づかなかったはずがない。

「自由と解放を表現したあの若者は、コンクリートの壁を破壊して粉塵の中から現れた最高のヒーローに、よく似ているの」
「……待ってくれ。君の初恋の相手は誰だって?」
「その人が初めて会ったときに発した言葉は、もう大丈夫、私が来た」

 くすくすと笑いながら告げられた言葉に、そういうことかよ、と小さくうめいた。
 耳が熱い。空調が効いているはずなのに、体温が二度ほど上昇したような感覚だ。

「おいおい、それこそ初耳だよ」
「あら、言ってませんでした?」
「聞いてないよ」
「あの時のあなたは、本当に金色に光り輝いて見えたのよ。あの瞬間、オールマイトはわたしの初恋のひとになったの」

 花が咲くように笑んでから、梨央は続ける。

「あの若者は、平和の象徴でしょう?」
「そうみたいだね」
「だから、あの絵の若者は、あなた」

 梨央の言葉に小さく頷きながら、オールマイトは思う。
 そうだ。オールマイトは平和の象徴。市井の人々の生活や笑顔を守るために、オールマイトは存在している。そのために、命を削り抗い続ける。この世を守る柱になる。
 それが、身にあまる力を譲り受けた者としての責務だ。そして――。
 そして、ヒーローとしてだけでなく一人の男としても、梨央、君の暮らすこの世界を守りたい。君が笑って過ごせる世界をつくるために、闘いあらがう。それこそがオールマイトの、いや八木俊典のしあわせであり、生きざまだ。

 だが、梨央はそれでいいのだろうか。
 梨央は余計なことを口にしないし、詮索もしない。癒し慈しみ、無償の愛を与えてくれる。心身ともに美しい、やさしいひとだ。だからこそ、本当にこれでよかったのかと、オールマイトは心苦しくなる時がある。先の見えない自分のような男と添うことは、梨央にとって、どうなのか。

「どうしたの?」

 桃の香りのお茶を手に、梨央が微笑む。

「いや……しあわせだなと思ってさ」
「いきなりなのね」
「私にとってのしあわせは、君の笑顔を守ることだ……だからいま、私はとてもしあわせなんだよ」

 すると、梨央は少しさみしげな顔をした。言外に含ませた、謝罪の意図を察したかのように。

「俊典さん」
「ん?」
「あなたがあなたらしくいてくれることが、わたしにとっての幸せです」

 まったくゆるがない、強い視線。確固たる口調。
 ガラスの向こうで生命を謳歌しているのは、青々とした夏の木々。
 ああ、本当に、まったくもって脱帽だ。聡く優しくたおやかなのに、君の芯はいつもぶれない。梨央。あの暴力的なまでのひざしの中でも、きっと君は、凛として立つのだろうな。
 オールマイトは心の中でそう呟いて、愛しいひとを、ただ見つめた。

2017.4.26
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